「汝」の呼び声を聞く



 私はね、学生のころにね、夜晃先生の弟さんに蘇晃先生という方がいらっしゃったんですよ。蘇晃先生という方はね、全身結核になってね、養生していらっしゃったですね。もう一つの汽車の中で、岡山大学の先生に会うたら、「ああ、蘇晃先生、住岡先生あれ元気でいらっしゃるんですか。」と言われたぐらい体が弱かったですね。病気でいつも寝ておった。あのメバルというところのね、瀬戸内海の島があるんですよ。メバルというところで、奥様がお医者様だった。で、先生はそこにいらっしゃってね、病気の養生をして過ごした方ですね。だけど、五十四歳まで生きられたですね。夜晃先生の(一部聞き取れず)ながら夜晃先生と同じ歳ぐらい生きた。とてもありがたい人やった。ときにお元気な時に本部へおいでて、お話しになりよった。私て若いですからね、その先生はもうヒーローですよ。控え室の所へ行って、その先生がたばこのむまで真似したですよ。ああいう頃があるでしょう。真似したい時分が。そっくりにね、言うことも覚えてね、いつも話される真似を。肋膜やった人は体が歪むんですよ。(一部聞き取れず)いつも着物着て、服を着ることはめったになかった。ほれで、いらっしゃってね、哲学の話してくれるんです。得意はビンデルバンドですね。ビンデルバンドという人は価値哲学をやった人ですよね。似ているですよね、浄土教に。で、言われるんですよ。僕はもう昔はそっくりに真似しよったんだけど、このごろは歳とったからやめときましょう。中村君やれやれ言うてから、調子に乗ってね。まあ、ええ。その先生がね、寝ていらっしゃるのね。で、夜晃先生がいつかそこへお見舞いに行ったんですよ。そしたらね、帰られてね、「蘇晃は、僕よりも仕事をしている。」とこう言うんですよ。私はね、それ聞いてびっくりしたですよ。学生諸君もびっくりしたんじゃないかと思う。病気で何にもしよらん、寝とる人がね、夜晃先生のように外へ出て転法輪をしていらっしゃるその先生がね、「蘇晃の方が大きい仕事をしている。」と言うんですよ。へええ!そういう世界があるのか。それだけ聞いても痛快じゃないですか。「この世の中は名利だからなあ。」と先生が言われるんですよ。先生が言うと、本当のように聞こえらいね。僕らが言うと、力がないけどねえ。先生が「名利だからねえ。」と言われるとね、はああと思うよね。なるほど、名利を凝視してね、静かに念仏申しておればね、外で走り回って------走り回ってと言うちゃ失礼な------外でご活躍なさっている人と同格ぐらいに見られる、そういう生きた先生が見られたら、お念仏の世界というのは、そういうものではないですか。お釈迦さんだって乞食ですよ。今でこそ黄金のでっかい金ぴかの何しとるけども。金なんておおよそ、ただ黄金のようにね、矍鑠として輝いておったというのでね、この世の一切を超越した輝きを、この世で一番尊いね、高価な黄金で表すのでございましょう。象徴としてね。でも、ほんとは乞食です。霊鷲山上でお話をしてじゃいうけど、皆さんのような立派な洋服を着た人は一人もおらなかったと思いますよ。みんな阿羅漢の、お弟子でもねえ、神通已達したところの菩薩たちもね、それぞれなんですよ、裸に近い格好でね、お話聞いたに違いない。ぼろい着物着て。で、その精神内面というものを拝んでいったんですね。今それがなくなったでしょう。目にものを見せるものでないと、承知しないです、今は。我も人も。ねえ。そういうものと精進とをおんなじようになってしまったでしょう、いつの間にか。もしもそういうことが、なんですよ、普通に認められたら、なんにも他所の世界と変わらないですよ。なんにも他所の世界と変わらない。それは。ねえ。だから、目に見えないものの、ね、鳥が水面で水面下で一生懸命足を動かしておる。一生懸命になって泳いでおる。ところが、水の流れが速いために、傍から見たら、なんにも進歩しないじゃないか、わしら見なさい、すいーすいーすいーと、積極的に何でもやっておる、かくあれと。という世界ももちろんあっていいわけです。でありますが、そっとその鳥が一生懸命彼の世界に生きておるというのも、あってもいいでしょう。「あれはいかんきん、ちょっとあれもうちょっと捕まえて、首でもねじってあれ、晩のおかずにでも食べるかい。」なんていうような、殺伐とした世界だったらいかんですよ。彼は彼として柔らかい光で、ソフトな世界に生きるね、存在を肯定するとこがなけりゃいかん。あの長崎県の竹下君じゃないけど竹下さんじゃないけど、あれ私と同じ歳ぐらいね、あれ。あなたらと高等師範同じやったんかね。竹下哲(ただし)。ああ有名になってしもうたね。本願寺系統でね。長崎の教務所です。竹下さんが言っている。存在を肯定して、どんな人でも存在があるんだ。どんな人にも存在がある。おばあさんでも。もう動けんようなおばあさんでも。ちゃっとした金ぴかの存在がある。絶対の、蓮の華の、阿弥陀如来の絶対人格の象徴である、阿弥陀如来の(一語聞き取れず)が、どうぞお座りくださいというね、座があるんです。それを見るのが華座観でしょう、観経の。ただできて、ねえ、弁舌爽やか君子のようにして、「ふん」というような人だけがね、華座観へ座ってね、あがめるというようなものではない。お念仏を申せば人中の分陀利華である。妙好人であると言われる。ねえ、一文不知の尼入道。学問はなくても。そういうもんでしょう。そういう世界がね、昔はちーとあったです。僕ら小さい時にはそういうものを尊重する(一語聞き取れず)がありました。だから、僕はそう思った。若い時にそういう世界に下宿さしてもろうてね、いわゆるそこでは、きそう(競う?)というものが欠如しておった。そういう、そういう人を凌いでやるというようなものが、それを忘れたんじゃないかなと思うぐらいの、世界があったと思いますね。勉強はせにゃいかん、そりゃ。勉強とはまた別ですが。他人の足を引っ張るというのが、そういうのが今あると言うのじゃないですよ。仮にですよ。今の世の中他人の足を引っ張るような人おりゃせんでしょうが。仮にあるとしますか。あるかもしれません。25億か40億の中には一人ぐらいおるかも知れんが。人の足引っ張るのがね。あるとすればね。そういうものではない、そういうもの忘れさすようなね、そういうものにはこだわらんようなね、世界がね、あるわけですよ。お念仏の世界というものは。本当はそういうようなものが湛然として、湛然として感ぜられるものがあるはずだと僕は思う。ただ、あれよあれよとね、いろんな事件が起きて、あれよあれよあれよと右往左往する中で、ね、汝自身というものをそっと振り返ってみたらね、大変なものを忘れておる。ね、お念仏を申しながら、お念仏を申しながら、目に見える世界だけでものを言ってはいないか。目に見えないね、世界があるんだよということをね、感じなくちゃならない。キリスト教の世界へ行っても、私はクリスチャンの知っとる人がおりますがね、そういう学校にもちょっと勤めたことがありますがね。で、みんながミサに出る時には私も出よったです、ミサに。知らんふりして。「弱き者よ、弱き者よ、主の名において立ち上がれ。弱き者よ、主は汝と共にあり。」それ聞いただけで涙が出るじゃないですか。弱い者よ、立ち上がれ。お前と共にどこまでも力となろうね。そういう(一部聞き取れず)あなた、なにやらほっとするじゃないですか。ねえ。「お前ら、だめだぞ。力なき者よ、去れ。」というのとは違うことないですか。そういうようなことを言う宗教の世界はございませんけどね、仮に想像してあったとしたら、それは嘘です。キリスト教の足元にも及ばない。みなクリスチャンに来ます。
 で、沢木興道という偉い禅宗の坊さんがおった。その人の講演がね。読んだことがありますが、ある人が、しんどい目に会うてね、しんどい目に会うて、どうしてこの世の中を過ごしたらいいんだろうか、このしんどい目にばっかし会うんだがと思うて、ある処へ話聞きに行ったん。たらね、言下にね、「それはあなたの宿業です。どうすることもできない。背負うしかない。」と言われたちゅんです。そりゃまあ嘘じゃないですよ、これは。そのことばは。はあ、どうしたらいいんじゃろうか、この担いきれん。で、或る、今度はクリスチャンのところへ行った。牧師さんとこへ。「ああ、そうかね。そうかね。共にその苦労を苦労としようね。」て言うてお話してくれた。俄然その牧師さんが好きになってしもうた。ほいでクリスチャンになって、ねえ、『聖書』、『バイブル』をお読みになりだしたちゅうんですよね。それ沢木興道が話すんですよ。禅宗の偉い坊さんが。どこがどうだったんかねえ。
 「宿業だよ。」言いますよ。ね、どこが違うのか。どこが違うのか。どこが。それは、私が思うのにはね、親様がおるんだよ、親様がいるんだよ、親様の前に出たときにね、ほのかではあるが、自分の宿業というものは感じられるものでしょう。業というものは所感するものです。感ずるものです。感ずるものです。昨夜から感ずる感ずるということが盛んに出ますよね。本願を感ずるんですよ。親様がいるよ、あなたと共に泣いておる、あなたと共に苦労している。あなたが救われなければ永劫に救われないという親がおるんだよ。その、親がおるというところで、親によってですね、初めて「ああ、私の業だね。」ということが感じられる。業というものは所感するものです。感ずるものです。説明するものではない。説明したら嘘になる。「ああ、業だなあ、ほんとにそうだなあ。」というのは、ちゃんとその中にこの三心の招喚というものが前提にありゃしないですか。三心の招喚、親様が呼んでくださるんだ、親様は私を捨てないんだ。なんぼ弱い立場でも捨てないんだ。捨てないよ。大慈悲は弱い者にほど強いんだよ。捨てないんだよ。というしっかりとした親様がましますということが判らしていただけたら、そこにですね、「業だぞ。お前の業じゃ。切り抜けるよりないんじゃ。」という世界も真実であるが、ほのかにそうだなあという、そこに感謝もあるし懺愧もある。懺愧というのは無生忍を得ることである。即ちそれをありのままに認識することです。そういう世界がね、あるんじゃないですか。僕はそれを読んでそう思いました。ああ、なるほどなあ。招喚である。真宗は招喚である。浄土真宗は招喚の声を聞くにある。招喚の声を聞くということは、限りなく親の心に帰っていく。親の心を尋ねていくのである。そういうものがなかったならばですね、生きていけんですよ、ほんとに。それをなくしてですね、ただいたずらにその人の弱点とするところをですね、玉ねぎの皮をむいでいくようにむいでいったらですね、小さいことといえどもですね、くそっと思うですよ。今に見ておれ。今に見ておれ。なにかで報復してやるぞ。それを思わんのは嘘ですよ。だから、人の傷にはちかっと触っても痛いじゃないですか。傷に触られたら。だから、そっとしてやるということもまた一つの方法である。一つの方法でしょうね。でありましょうね。僕はそれを思います。沢木興道老師もですね、禅の方でございますが、まあ一代の高僧でしたね。傑僧でしたね。そういうことを言わんとせられたのではないかと私らは思うですね。そういうものじゃないですか。間違ったらいけない。ほんとうに間違ったらいけない。と思うんです。だから、その蘇晃先生がね、お話をなさった。
 蘇晃先生がこういうことを言われたですよ。浄土真宗はですね、招喚以外に摂取はない。摂取不捨はないと言われた。そして、無限に内面化せられた世界により、内面化より内面化と展開せられ、内へ内へと帰っていくんです。私を凝視するときに、私の生活を見つめ凝視するときに、本願とは反対の方向に生活しつつある、それを知るんですね。本願が物を言わない生活において、本願に反逆する大いなる悲しみがないから、生活は真実にならないんですよ。ああ、なんと本願、親様の願いとは真反対の心が起きているなあということへの悲しみというものを発見するということである。大いなる悲しみの、無限の悲しみに触れることは無限の内面化である。心の内面化であります。ここにおいてですね、本願の招喚、呼び声というものはですね。本願大悲の摂取に変わるんです。摂取、抱き取るということ。それは親様の声を聞くということである。懺悔業障の姿を見て、姿とて、姿をですね、親様がですね、そこに親様が出てくださるのである。大いなる悲しみを我および人生に感じて生きる人はですね、曇鸞大師です。曇鸞大哲ってそうでしょうが。一切苦悩の有情を捨てず。ね、一切の苦悩の苦しみの有情を捨てない。それが本願が起きた理由ですよ。あるよ、論註にそういうのがあったと思う。一切の苦悩の衆生を捨てないという、そこにねらいがあるんですよ。そして廻向を首としたまいき。廻向というのは大悲の心をさしあげる、それをクビ、首としたんです。主眼としたんです。あくまでこの苦悩の有情が目当てですよ。私が目当てです。苦しみのあることが目当てなんです。その苦悩の有情を目当てとした。それを知るということである。だから、曇鸞大師のように、大慈悲の安らぎと喜びを感ずることができるというのは、自分自身の中に苦悩を発見し、親様の声を聞いた人でありましょう。そして、親様のお心と真反対の自分というものをそこに見る、見る悲しみというものがある、そういうものでありましょう。そしてまた、源信、源信和尚ですね。源信のように、また源信もまたそうだったんです。源信のごとく念仏申さざるを得ないわけであります。あの源氏物語の、あれ浮舟なんとか巻いうのに、源信が出るんよな。あれ源信でしょ。源氏物語の終わりごろに。ね。源信が出て、お坊さんが出るじゃないですか。(一部聞き取れず)お坊さん助けるの。ね。あれありますなあ。あのように、源信というのは時の人だったんですねえ。やはり大慈悲というものはそういうものですよ。悩める女性がね、女性はほんとに苦悩があったんですよ。その悩める女性を自分の、自分の上に見られたわけですよ、源信は。だから、源信もまた念仏を申さざるを得なかった。だから、大いなる悲しみの洗浄、心を洗うことにおいて、人を見なければならない。ところが、長い間の人間は、雲霧、長い間の習慣の雲霧、雲や霧によって、そういうものが遮られておるんだ。現在の時代だってそうでしょう。雲や霧に覆われておるんですよ、人間の心は。ねえ。なんだか覆われておるんだ。あの、昨日申し上げたように、外国へ行っても日本の武士たちは気品に溢れておったんですよ。東洋の君子と呼ばれた。みんな道に出て見たわけです。ちょんまげが珍しかったという説もあるけども。そりゃあなた、堂々とした気品がるんですよ。英語なんか話さんでも。英語なんか話できんでも。見ただけでね、外交ができたわけですよ。
 今ごろは英語もうまいけど、何しよるや判らんちゅうて言われらいねえ。今ごろは内地留学、留学ちゅうか、あの、私、高校、女子の短大におったことがありますがね。そしたらね、外国へ行って、あのホームなんとか、おおそうそう、それに行くんですよ。行ったらね、日本の女の子はもう一月ぐらいで飽かれるんだそうだね。どうしてなんやろ、可愛い子が行くのにねえ。よう聞いてみたらね。何にも知らんちゅんです。片言みたいな英語言うてね。あとは何もないというんです。生活がないん。日本の。で、ある者は、「嬢ちゃん、お家何していらっしゃるの?」「蜜柑作りです。伊予ですから。」「おお、どんなにして作るの?」「私も手伝うんですよ。お母ちゃんとお父ちゃんがね、山へ行ってね。こういう仕事するし、私はこういうお仕事するんです。」年中のね、生活を知ってるというんですよ、そういう子は。生活が楽しいわけですよ。「お祭りにはね、こんなお祭りするんですよ。獅子が出るんですよ。日本の獅子はこんなんです。特に私のほうはこんなんですよ。」楽しく話してくれるというんですよ。そしたらもう日本へ帰さんという。もううちの子になりなさいというように可愛がってくれるというんですよね。ところが、日本の娘の子は生活がない。なんにもおもしろいことあらへん。なんやらその辺をうろうろしては帰っていくというんですね。何しに来よんじゃろかちゅう。そういうようなことをね、よく聞かされたですよ。で、私はね、痛くもないからね、(一部聞き取れず)痛くもないからね、お前は家で、勉強せん、勉強するような子は来てないけどね、まあ勉強はせいでも言やせんけどね。まあお家の手伝いはせにゃいかん。ね、お父ちゃんお母ちゃんの手伝いせにゃいかん。漁業しよるものは海へ行ってから、ちと魚でも釣って来いちゅわけよね。そうすと、一緒に来られても魚釣るのはおもしろいですよ、どこがおもしろいかねなんちゅうんでも、ちゃんと生活が入ってますよ。そういうような日常がないわけで、生活がないから。苦悩もないわけですよ。らーーらーーらーらぐらいでねえ。だから何ですね、生活がない。たばこのむぐらいのことでね。たばこならすぱーっと。私らのような年寄りが見るとどうしたかなと思う。まあええことですよ。たばこをのんでいかんちゅうんじゃないですよ。好きな人はおのみになられたらいい。(一部聞き取れず)言わんでね。何が言いたいかというとね、礼儀作法がないということです。だから僕は持っていきよったです。これに吸殻入れてよ、入れてくださいと言うて。僕は用事がないからね、吸殻集め、吸殻入れを。それも授業しよって誰も通らん時に吸殻拾い。ここで言うけど。済んだからええよね。吸殻拾うて。ほれから空き缶、あれがだいぶんある。それ拾うて。それがね、仕事やったが。それ昼までの仕事。ねえ、学校というのも変わりましたねえ。そういう教育をせにゃいかんね、本当は。うん。勉強どころじゃないですよ。日本は。じゃ勉強よう知っとるかというたら、僕の友人が大学におるが、僕らのようなへぼたんでなしに、しっかりとした大学の人がおりますよ。「中村君ねえ、文章が書けないんだよ。」ちゅんです。「文章が書けんいうても、入学試験に通っとるでしょうが。」「いや、それがどういうものか、文章が書けん。わしゃもう専門止めてから、歴史の専門止めて、今文章の講義しよる。」と言うて(一部聞き取れず)親父が「国語やりよんですか。」言うたら「うん、そうや。」「えらいですなあ。」言うて。もう文章が書けんちゅんですね。嘆いとる。嘘か本当か知りませんぞ、私は。私は、へぼ短大におったから、そんなんはもう通り過ぎとるからね。学校へ出てくれさえしたら授業料払えるから。ねえ、学校へ来んでもええけど授業料払えよということが、これが私の使命じゃったんじゃが。それとごみ拾いと。今考えるとまあねえ、あれで病気になったんかしらん。これでねえ。おもしろいねえ。僕もおもしろいと思いよった。
 ほいでまあ、雲霧で遮られとるわけですよ。長い間の我慢の、我慢のですね、積もりが、見えんといかんですよ、そりゃ。何でも見えにゃいかん。雲は雲として見えにゃいかん。
 禅宗のことばにあるじゃありませんか。「座して雲を見る」ええことばですなあ。「座して雲を見る」ねえ、「戦場に座して雲を見る」(一部聞き取れず)。「見る」という字はおもしろいですなあ。あれ辞書引くとたくさんあるね、ほんとに。「みる」というのでも(一部聞き取れず)辞書だいぶんあるねえ。「みる」というのも「見る」というのもあるし、あの「診る」もあるし、だれかの「観察」の「観」もあるし、たくさんありますね。辞書引くとおもしろいね、暇なときに。手をこまねいて看る、「看護婦」の「看」ですな。私、理科でしたがね、観察ということよく言うたね。サイエンスは観察して記録することですから、観察する。「みる」ということ、「見性」ということをよく言う、座禅で。「見る」「性質」の、「見る性質」あれ「見性」という。「見性したかな。」「うーん、まだ少しだねえ。」まだどういうことありませんが。」ああ、座っとると、痛快なねえ。血の循環がええから。「ああ、(一語聞き取れず)なあ。」「ああ、ほんとだねえ。もう天地一杯の自己だねえ。」痛快な。見性したん。「見性」というのは、「見」というのは、「露見した」というでしょ。悪いことが露見した。あれは現れることだそうですね。元あったものが現れるのが「見」だそうですね。「見性」。だから、仏性があったのが外へ現れてきた、意識の世界へ現れてきた。そういうものを言うんでしょうかねえ。あれできる人は珍しい。お釈迦さんぐらいのもんでね。で、「見」というのは「信ずる」ということだそうですね。仏性を信ずるということ。念仏三昧(一部聞き取れず)。ああいうことが分からなくてねえ。馬鹿正直に分からんですよ。分からんからね、一生懸命で聞くわけですよねえ。ほして、浄土真宗にきて、お話を頂いておるとね、なんだか道理に合うような気がするんですよ。学生時代に。「ああ、やっぱこっちのでよかったんかなあ。」ほして、始めた。だから、蘇晃先生もまたそういうことを言ってらっしゃる。雲は見なくちゃいけない。だから、弁証界、あの人は弁証法が好きだったですね。精神界の弁証法の不思議なる事実としてですね、雲が見える。雲の中にあるということをはっきりと知るということが、即ち助かるということである。本願招喚の勅命が大悲摂取となりたまうのは、私たちが無限に内面に帰っていく、無限の内面化によるのである。これが、大悲のわが心に差しのべられるところの軌道である。軌道というのは、汽車が走っていく、電車が走っていく、あの軌道である。だから、仏道というものは、遂に無限の内面化に極まるのであると、こういうふうに先生が言っておられたのを私は(一部聞き取れず)思い出すんです。内面化しなくちゃいかん。内に尋ねなけりゃいけない。ね。外に尋ねたらいかん。見える、物を見る、見えるものに囚われるのでなしに、そういうものはさよならして、内に内に帰っていかなくちゃいけない。内の自分の心に帰っていかなくちゃならない。大悲というものが御身自身の上に現れてくるためにはですね、親様の呼び声というものを聞かなければいけない。素直に。そのためには三心の招喚、三心の招喚を聞くためには、ご法を頂いて、ご法の仏様の願意というものを聞かなければいかない。だから、いくらですね、目をつぶってね、目をつぶらんでもよかろうが、じーーーとして考えてね、頭ひねくって考えてもね、それは何にも自己というものは見えてこない。やはり外からの願意というもの、三心招喚の願意というもの、弥陀の願意というものを聞く、即ち名号の謂れを聞く。のでなければ、聞信、聞、聞かなければ、聞信しなくちゃ、聞かなくちゃいけない。真実を。その聞くことによってですね、私たちの心というものは、現れてくるのである。じーーっとしとったんではいけないということでしょうね。それはそうでしょうね。だから、ここでは、ありましたね、「十方諸有を勧めて」と。即ち至心、信楽、願生の三信でもって往生せよとの本願招喚の勅命を聞くということが大切でありますよ。ということでございましょう。ちょっと休みましょうね。もう一回ですから。もう一回であと締めくくり。南無阿弥陀仏


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