「十方諸有を勧めてぞ」



 その次にね、「十方諸有を勧めてぞ」というでしょ。和讃のとこは、初めそうでしたね。「至心信楽欲生と十方諸有を勧めてぞ」というんですね。「不思議の誓願顕して真実報土の因とする」というんでしょ。不可思議の誓願、誓願。だからこの和讃というものは、本願の上に立って造られておる和讃ですから、より誓願、至心信楽の願というものを大切に扱っておるわけであります。で、だからここでですね、「十方諸有を勧めてぞ」、十方の諸有、あらゆる迷いの衆生というものをね、に勧めるのである。すなわち至心信楽欲生の三心をもって往生しなさいとの本願招喚の勅命の心です、これはね。十方諸有を勧めて、これは至心信楽欲生の三つの心をもって往生しなさいよ、という本願招喚の勅命のお心であります。すなわち至心信楽欲生の三心をもって招喚の勅命とするのであります。だから『尊号真像銘文』にはですね、これは一七の一の五行目ですね。   

この至心信楽は即ち十方衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしと勧めたまへる御誓の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず、欲生我国といふは他力の至心信楽をもて安楽浄土に生まれんと思へとなり。

 まことにはっきりしておりますねえ。諸有の衆生、十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしと言われるわけですね。
 それから親鸞聖人はまた信巻においてですね、欲生を釈して、一二の七五、三行め、  

次に欲生といふは則ち是れ如来諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。即ち真実の信楽を以って欲生の体とするなり。誠に是れ大小凡聖定散自力の廻向に非ず。かるがゆえに不廻向と名づくるなり。

 ねえ、ここにあります。不廻向の宗教である。また言い換えたら廻向の宗教ですよね。このように、欲生といふは則ち是れ如来諸有の群生を招喚したまふの勅命であると、親鸞聖人はお説きになられたのであります。しかるに欲生の体というものは、信楽であります。ところが信楽の体は何か。それは至心である。至心とは真実心である。ところが至心の体は一体何か。それは名号である。こういうことになっておるわけですね。欲生の体は信楽、信楽の体は至心、至心の体は名号。三心即ち招喚である。三心の招喚です。三心即ち招喚。三つひっくるめて招喚しとる。すなわち名号即ち招喚になるわけですね。名号は即ち招喚なんだ。三心が招喚でございますから、その体の名号もまた招喚である。だから、善導大師は二河譬の比喩においてですね。二河譬の比喩において述べておりますよ。これは、一二の六四、でしたね。左から二行目でございます。  

西岸の上に人有りて喚ぶと言ふは、即ち弥陀の願意に喩ふるなり

でしょ。こういうことです。そして、ずっと見ておるとですね、弥陀の願意ですよ。弥陀の願うこころ、願意、弥陀の願意に喩ふるなりと言われるのであります。弥陀の願意、それから三心、招喚する。だから、三心が招喚する。弥陀の心は三心である。だから、招喚、こういうものはですね、三心が招喚することを示されたものであります。だから、その弥陀の願意というものを示してですね。一二の六三、前のページをお開けください。左から二行目。   

汝一心正念にして直に来たれ、我よく汝を護らん、すべて水火の難に堕することを畏れざれ。

というのがあるね。「汝一心正念にして直に来たれ、我よく汝を護らん」と表されておる。願意ですよ。だから一心ということが、ここで出ておる。浄土真宗の一つの命題でありましょう。一心。一心即三心である。天親菩薩の「世尊我一心」と言われる一心。一心の華文である。一心即ち三心である。一心の中には至心信楽欲生という心が入っておるのであります。ね。欲生というものはじゃあどうなのかねというと、これは一七(「尊号真像銘文」)のですね、中ほど。   

欲生我国といふは他力の至心信楽をもて安楽浄土に生まれんと思へとなり。乃至十念と申すは如来の誓の名号を称へんことを勧めたまふに遍数の定まりなき程をあらはし、時節を定めざることを衆生に知らせんと思し召して~

と、こうありますね。ここで、「欲生我国といふは他力の至心信楽をもて安楽浄土に生まれんと思へとなり」とありますが、これみな善導大師のですね、心と一致するわけですよ。二河白道の弥陀の願意とですね、みな一致します、これ。だから、一心の中にはね、至心信楽欲生とね、入っているんだと。一心即ち三心であるということでございます。そういうことですね。善導大師もそうなんだ。だから、この念仏の行者が、宿善が開発して信心を獲得するは、ですね、如来より至心信楽欲生と呼びかけたまえる本願招喚のですね、届いたためであると言えるでしょう。弥陀の願意というものは、至心信楽欲生の三心のお心でしょ。それが召喚してくださっておるんです。「汝一心正念にして直ちに来たれ」と呼んでくださっておるですね、その呼んでくださっとるですね、心を頂くということですよ。一心というのは。だから、行者が宿善開発して信心を頂くということは、如来様より親様より、至心信楽欲生と呼びかけてくださる、三心が招喚してくださっておる、呼びかけたまえる本願招喚がですね、心に届いたためであると言えるのであります。だから、如来救済のですね、法というものは、いずこにあるか。それは招喚にあるんです。招喚にある。


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