あ と が き
歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より


 細川先生の深い学識と高邁なる人格より、あふれ出るみ教も後序へと進んで参りました。み教を頂き領解不充分なるを省みずに、真実の信心について三つに分けて述べさせて頂きます。

一、信心一異の諍論という事がありました。親鸞の御同朋の中に信心についての激しい争いがおこりました。誓観房、念仏房が、法然上人の御信心とは異なるのではないかというのです。親鸞はこれを否定した。大変な争となる所であったが、法然上人によって如来より賜った同一の信であるという御答を得られたのです。
 信仰に於ては信心一異は常に現代の問題として考えねばならない。現代の他の宗教は人間中心の信仰が多い。自らが何かを信じて助かって行くという面を持つ。しかし親鸞の信は、あくまでも自力の信心ではなく如来より賜りたる信心なのであります。自力の信心より他力の信に変わるためには、どのようにすれば良いのか。

二、「弥陀の五却思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなりけり」と述べられてありますが、曾我量深先生は、この御言葉があるために『歎異抄』は永遠の書であるといわれました。
 しかし五却思惟の願と申されても、人間の思惟では分らない。しかしよくよく案ずれば弥陀の廻向により、判って来るのであります。
 一人がためのいちにんには、ひとり立つという自らへの深いめざめであり、底知れない悪業をかかえた我身のめざめであり、仰ぎ見る世界への自覚であります。親鸞一人がためなりである。
 例えば食物の味は食べて見なければ分らないように、体解することによって分るのである。
 無限なるもの永遠なるものは、常に働きかけを持っています。如来の御心は南無阿弥陀仏という言葉となって我等の上に具体的に届くのであります。何物をも救わずにはおれない大患悲心をもってすべてを包んでしまうのです。

三、念仏のみぞまことにておわします。法然上人に御出会いし、念仏一つと伺った時、聖人はどれ程感動されたか想像に余りあります。凡夫の我等は何れの業も及びがたく深い宿業を持ち、火宅無常の世界で迷っております。夜晃先生も、我等は、昨日も悪く、今日も悪く、明日また悪く、一生造悪なのだと教えられました。しかし、仏の目にうつる姿に懺悔する時に、願われたる我に気づき、本当の信を得る。之を如来より賜りたる信心というのであります。浄土よりのみ教が人間の上に届き如来廻向の宗教となるというのが『歎異抄』の結論であります。

 唯円のなげきを忘れずに我等は本願のしっかりとした縦糸に、現実人生を横糸として未来を織り込んでゆかねばなりません。
 み仏の誓いを信じ念仏しながら懺悔と感謝と喜びを持って、人間が、世界が、どれ程堕落しても弥陀の本願は燦として永遠に輝いております。
 如来おわしますやの問いに対して黙して答えず。真の体解の日まで如来を憶念して求道の道を一歩々一々前進するのみです。
 末筆ながら細川先生の御導きにより綴らせて頂きました事を心より御礼申し上げます。
 後序については、昭和五十六年六月から五十七年七月まで日野市中央公民館の講義をまとめたものです。テープからのおろし及び清書は、佐々木文子、辻内佐喜氏、青木喜代子氏、印刷に際しては広島大学教授松田正典先生のお世話を頂きました。厚くお礼申し上げます。 合 掌

田中 佳一郎

 昭和六十一年三月三日



  
歎異抄講読(後序について)
      細川 巌 講述

  昭和61年4月 3日 印刷
  昭和61年4月10日 発行

  発行者 田中 佳一郎
  印刷社 仁宮 孝雄

  発行所 日野市教育を考える会
        事務局(佐々木玄吾)
        日野市日野本町5−23−3