歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第六節


 七、ただ念仏のみぞまこと

 「念仏」は我々が口に申す念仏というよりも、南無阿弥陀仏そのものを言っている。従ってただ南無阿弥陀仏だけが真実まことでおわしますということになる。「ただ……のみ」というところが非常に大事である。
 しかし「ただ何々だけがまことである」というと、変なものになりやすい。人間の発想とすれば甚だ独善的なものとなり(おわ)る。なぜなら、人間はあらゆる経験をしつくしているというわけにはいかぬ。限りある経験しか持たない。その中から「ただこのことだけは……」と叫んでも、独断であって普遍性を持たない可能性が大きい。人は、このことだけが真実であり他に真実は無いとは言い切れない。ただ言えるのは、「これが真実であることは間違いない」だけにとどまり、その他にまだ真実があるかないかは、私にはわからないというのが本当であろう。
「ただこのことだけがまこと」という人があれば、そこには何か独断的なものを感ずる。親鸞は「ただ念仏のみぞまことにておわします」と言われたが、聖人がキリスト教のこと、マホメット教のことなどもよく知っておられたわけではなく、科学のこともよく知っておられたわけでもないから、これはやはり独断の言葉ではないのかと抵抗を感ずる人もあると息う。私もそう思っていた。
 キリスト教の人はキリスト教をまことと言い、仏教者が仏教をまことと言う。仏教でも日蓮宗は南無妙法蓮華経をまことと言い、禅宗は座禅をまことといい、浄土門は念仏をまことと言う。各々主張が違う。これがまことと言えば言うほど自己主張、自己顕示をまぬがれないのではないか。人間は「ただこれだけ」ということは言えないのではないか。人間が人間の立場において発言する限り「ただこれだけが真実」ということは言えないと私は思う。

 『歎異抄』第二章に「弥陀の本願まことにおわしまさば」とある。「おわしまさば」というのは仮定形である。「おわしまさば」となるとこれは肯定である。私がこれを「おわします、されば」としたのには、文法的には飛躍があって問題のあるところですね。しかし、この所を問題にした人は今まであまりいない。曾我量深師の書を読んでみても高原覚正師のを読んでみても問題にしていない。一人、問題にしてあるのは藤秀璻師です。それには仮定形であるとしてある。これを仮定形にすると、この文章は何だかややこしい。「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず」と、あとは断定になっている。もしまことならば‥…・虚言なるべからずと断定するのは、何かしっくりしない。しかしながらそれはおいて、なぜ仮定形にしてあるのかというと、一つの見方としては、関東の人達はまだ弥陀の本願がよくわかっていなかった。だからこそ疑問を起して来たのであるから、「もしあなた方において弥陀の本願がまことであるならば」とやわらげて、一歩譲って仮定形で言ってあるということができる。
 も一つの見方は、仮定形は強めであるという見方。「たとい我仏を得んに」という時、「たといもし私が仏となっても」という仮定形になっているが、これは単なる仮定ではない。私は必ず仏になりたい、ならずにはおかぬ。しかし、たといもしなっても十方の衆生が助からないならば正覚を取らぬという、強い願望を表わしている。第二章も強めであると思う。今、「おわしまさば」と仮定形で、「おわします」と断定してはいない。それは強めであって、そのことが一番基礎になっている。なぜかというと、それは人間の断定でなく、如来の真実の名告りだからである。

 「ただ念仏のみまこと」と、「ただ」というのは、念仏は如来の発願であり、如来の誓願、本願である。ただ南無阿弥陀仏というところに如来の本願がある。如来の真実がある。如来は念仏になるほかなかったのである。
 人間が殻を破って大きな世界に出る道、それは当然、人間が頑張って頑張って人間自身が努力しなければならぬ道である。けれども、人間ほその力を持たない。殻を出るには。真実、まこと、清浄、智慧が必要である。この大きな世界、蓮華の世界に出るにはこの私の上に、真実まこと、清浄、智慧、真の愛情、が成立しなければできない。
 私の先生は面白い(たとえ)を言っておられた。浄土に往生するというけれど、それはどんなことかというと、譬えて言えば、牛小屋の牛を座敷にあげるようなもんじゃ、と。かわいそうに牛は狭い所につながれて、汚いものをポタポタ・ジャージャー放出している。この牛をきれいな所に出してやろうと奥座敷に通してやった。が、牛は、四つ足で立っているで、奥座敷でジャージャーやったら、忽ちのうちにそこが汚れて牛小屋になってしまった。
 牛が牛のままで奥座敷に通るのではない。牛が牛小屋を出る時は二本の足で立ち上がり、一歩踏み出す時に角が落ち、もう一歩踏み出す時に人間の考えを持ち、奥座敷に到達する時にはピカピカの人間になっていて、その奥座敷にふさわしいものを備えていなければ、大きな世界に出たとは言えないという話をよくしておられた。
 我々もそうである。浄土に往生するとは、真実まこと、清浄、智慧、こういうものが我等の上に成り立たねばならない。しかし、成り立ちようがない。何十年やっても、とてもとてもできそうにない。到底我々に不可能である。
 可能な道は一つしかない。真実、まこと、清浄、智慧を私の上に与える、真実、智慧、清浄なるものが私にいたりとどくという以外にない。我、彼によって生きるにあらず、彼、我にあって生きたもう、その姿を南無阿弥陀仏という。これを廻向という。「如来の作願をただぬれば、苦悩の有情をすてずして、廻向を首としたまいて、大悲心をば成就せり」である。
 如来の誓願とは何か。自分の全体をお前に与えようという、自己付与という、南無阿弥陀仏となって自分の全体を人間に廻向しようとする。これを如来の誓願という。廻向とは与える、与えるというと何かを貰うという感じをうける。それが廻向という言葉の持つ欠点である。廻向とは曇鸞大師が苦心して使われた言葉であるが、何かも一つ足りない。貰うたのではない。彼が私になるのである。大きなものが私になる。私において、南無阿弥陀仏となって私となるのである。
 如来の思いは「ただ南無阿弥陀仏まごころしかない。それが如来の誓願であり如来の発想である。南無阿弥陀仏は人間の発想でない。如来の誓願は、この惨めな人間に如来自身を与えるしかない。彼が我になるしか涅槃に生まれる道はないのである。

 彼が我になるとはどういうことか。それを明らかにされたのは曇鸞大師である。曇鸞大師は五念門の宗教を明かされた。天親菩薩の『浄土論』から引かれている。
 第一は礼拝門。信心において如来に頭を下げるということが成り立つ。第二に讃嘆、口に出して南無阿弥陀仏と念仏申す。そして作願。願いを起して話を聞こう、行を行じていこう。そして観察。よく考える。そして廻向。他の人々のためにも働く、それを五念という。
 これは一心五念である。「世尊我一心、帰命尽十方、無碍光如来」というところに五念の行が展開し、更に五功徳門が展開する。五念門は因行であり、五功徳門は果徳という。この人生で一心の信心が起ると、礼拝の所に浄土の門が開けるのである。それを近門という。近いと書いてある。浄土に近づく、大乗正定聚の数に入るとあり、本当に広い世界が開けてくるのである。そして大会衆門。大会は弥陀の説法を聞く一員となる。次に宅門、屋門とあって、更に浄土の奥深く入り、遂に捏柴を極め今度は薗林遊戯地門、即ち教化の世界が開けてくるのである。
 天親菩薩は非常に簡略に『大無量寿経』の世界をこのように整理された。それを詳しく明かされたのは曇鸞大師である。
 しかるに親鸞聖人はこのことを『入出二門偈』に次のように書かれた。そこに「ただ念仏のみぞまことにておわします」ということの意が非常によく出ている。
 親鸞の『入出二門偈』には、礼拝も讃嘆も作願も観察も廻向も、これら全ての因行(五念門)と、そしてそこから生まれる果徳の全て、即ち近門、大会衆門、宅門、屋門、園林遊戯地門(五功徳門)は悉く、法蔵菩薩即ち如来、南無阿弥陀仏自体の働きである。法蔵因位の行である、その果徳として阿弥陀仏がある。そのすべての因行果徳を南無阿弥陀仏として廻向する。それが行者の上に廻向されて行者の一心となる。この一心が行者の礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向となり、それが五功徳門を生んでくる。このように頂かれたのが入出二門偈であり、それを廻向の宗教という。
 如来の誓いとは何か。『歎異抄』の第三章を見ると「煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐みたまいて、願をおこしたもう本意悪人成仏のためなれば……」とある。人間が固い穀を破って大きな世界に出る道は本当にけわしい。いや、実際には無いと言わねばならぬ。いつも同じ譬であるが、眠ってはならぬと思って、手で足をつねっている。痛い痛いと思いつつ限りながらつねり、つねりながら眠っているということになる。つねる方もつねられる方も眠っているから、つねられて起きるということにはならぬ。自分が一生懸命穀を出ようと思っているけれども、そう思っている心そのものが自己中心であって、自力である。名聞利養、勝他を超えようと思うその心が名聞、利養、勝他であって、血で血を洗うという結果になっている。自分自身でどれ程頑張ってみてもその心中にすでに煩悩が入って、それでもって殻を破ろうとしてもうまくいかぬ。できっこない。たった一つ、起きている人に叩いてもらうのがさめる道である。これ以外にない。私を覚めさせるのは他力である。
 清浄真実なるものが我々に届いて下さる。南無阿弥陀仏が私に働きかけてくる婆を法蔵という彼は礼拝するのである。衆生我々を。どうか仏法を聞いてくれよと礼拝する。仏の方が礼拝する。仏法を聞いた人が、仏法を聞かぬ人の下座について頼むのである。どうかお願いだから聞いてくれと言う。如来が人間を拝んで、どうか仏法を聞いてくれよ、どうか仏法を聞いてくれよ、どうか念仏してくれよと自ら願をおこし、趣向する。そういう因行を積んで、すべての徳を南無阿弥陀仏として与えていく。これが如来の発願であり誓願である。衆生を成長させるにはただ念仏しかない。ただ南無阿弥陀仏となって届いていくしかない。それが「ただ……のみ」という如来の願である。
 この願が届いて如来は我等の上に南無帰命の一心となり、礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向の行が巻き起ってくる。それは私の行でありながら如来の働きである。如来の礼拝があればこそ我等の礼拝が生まれてくる。如来の讃嘆があればこそ我等の讃嘆がある。即ち南無阿弥陀仏の自己付与が我等の上に五念の行となるのである。如来の自己付与が人間の行になってくる。即ち真実の宗教行になってくるのである。我等の宗教行は、如来の願行による。従って、頭を下げ合掌し念仏すればするほど、頭を下げない、合掌しない、念仏しない私が見えてくる。私の本性というものはガンとして動かない。どんな尊いこともせせら笑い、どんな尊いものも冷ややかに見て、自分自身は動かないもの、それが私の本体なんだ。しかるに私は合掌し、お礼を言っている。それはなぜか。彼来って、このような行と徳を持った彼が来って私の上に生きて、私の最奥の私となって私の行を展開している。この行こそは彼なのである。本当の私はでんとして無恥厚顔のところにいる。如来はその私を責めず、それを南無阿弥陀仏と念仏して「乗せて必ず渡しける」となる。そこに往生浄土ということが成り立ち、本当の世界に私を転回せしめる。これが如来の発願である。如来において、ただ南無阿弥陀仏という誓願がある。

 従って「ただ……のみ」というのがわかるためには、自己自身がわからねばならない。「いずれの行も及びがたき見なればとても地獄は一定すみかぞかし」とわかること。これがないと「ただ念仏のみぞまことにておわします」がわからない。その基盤の上にだけ如来の真実が成り立ち、南無阿弥陀仏となる。
 「ただ念仏のみぞまことにておわします」というならば、キリスト教は駄目なのか、ヒンズー教もつまらんのかというと、そういうことと問題が違う。すべての宗教は真の自己を知らされる前段階の教としての意味を持っている。様々な宗教は、南無阿弥陀仏を明らかにする色々な役割をするのである。従って他を排撃する必要は毛頭ない。南無阿弥陀仏は他のすべてを包んでいる。

 「ただ…‥・のみ」は如来の発想である。南無阿弥陀仏になるしかなかった。南無阿弥陀仏となって自己を与えるしかなかったのだ。それが如来の願いである。
 その願いが届いたならば、それが我等の行として出てくる。礼拝し我々が念仏することの根源に、如来の讃嘆がある。それが我々に表われている。仏様が拝んで下さるから我々が仏を拝むようになる。仏が南無阿弥陀仏と念仏しておられるから我々が念仏するということが成り立つのである。即ち如来は我等の行として出てくる。我々の心となり行となって出てくる。それを他力廻向の心行という。南無阿弥陀仏が私の信心となり行となる。五念の行となり、我々の生活行となる。それは我々の力でできたのではない。如来の願行が現われてきたのである。
 そこに「ただ念仏のみぞまことにておわします」がある。これは、これだけが真実だ、他はつまらんという自己顕示ではない。又、自己主張でもなければ、独断でも独善でもない。本当に私に於てこれしかなかったという感謝である。それが「ただ念仏のみぞまことにておわします」である。それを「世間虚仮 唯仏是真」という。仏教の主張ではなく、仏教への感謝である。そこに謙虚な、有難うございましたという心からなる思いが出ている。そしてこの言葉が歎異抄の最後を飾る言葉になっている。「よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」南無阿弥陀仏。実に『歎異抄』の最後を飾るにふさわしい言葉である。
 『教行信証』の総序には、「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」とある。円融は、まどかで徳として備わらざるはなく、何の欠け目もない。そしてあらゆる悪を融かして善とする徳を持った南無阿弥陀仏の名号、その南無阿弥陀仏の中に如来のすべてがある。そういう円融至徳の嘉号は、転悪成徳の正智。その南無阿弥陀仏の徳を頂くと本当の智慧が生まれる。その智慧が「念仏のみぞまことにておわします」と頂く智慧であり、又感謝である。

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