歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より

第六節


 六、菩薩道

 さきの文から受ける感じは無常感のように考えられ、そうではないということにも考えられるが、そうではないということをもう少し述べたい。
 真の求道者とは何か。それを表わすのに菩薩の四種功徳が言われる。功徳とは先に申すように働きである。聖人はそれを『教行信証』の証巻に、曇鸞大師の教を引いて述べられている。「何者をか四と為す、一仏土に於て身動揺せずして十方に(へん)じ、種々に応化して実の如く修行して、常に仏事を作す」。
 菩薩とは何か。それは如を体として行ずる人をいう。如なるものが私に届いて、私は穀を出て大きな世界を生きる。それを、如を体とするという。信心をいう。如来のお心を頂いて、それが私の本質となって進んでいく。これを菩薩の行という。そこから四つのことが言われる。

 (1)不動徧至
 不動は動かない。仏の前を動かない。菩薩は如来の前を動かない。如来の説法の前に端座して動かない。不動である。三宝の前に不動である。三宝をひとことで言うと如来。如来に直面して動かない。手は合掌して正しく如来を指向している。不動のままが十方に至るのである。徧く至るのである。十方のどこに行くのかというと、「諸仏を供養し衆生を開化す」。すぐれた人(諸仏)に近づき、頭を下げて謙虚な心で教を受け取り、その教を聞きぬいていく。これを恭敬という。親近、恭敬、供養という。諸仏とは具体的にはよき師よき友。この諸仏の教を頂いて衆生に(あまね)く至る。いわゆる差別なく、平等に徧く至る。そこに友よ、兄弟よという深い親愛の情があり、どんな世界にも入ることができる。それを徧く至るという。これは裸にならないとできない。自分は先生だという気持ちでは入れない。たとい宗教家であろうと裁判官であろうと、エリートの公務員であろうと、一個の人間として、どういう世界にでも入っていく。それを不動徧至という。肩書を捨てて学歴を捨て、すべを捨てて如来の前に立つ一個の求道者となって、始めてあらゆる人と手を握ることがこれはできる。煩悩具足の凡夫に徹しないとできない。それが菩薩の徳である。
 それを知っていると、さきの文章の意味がわかる。この文章だけ読んでいると親鸞聖人の本当の気持ちは伝わらない。昔から、『歎異抄』を読むには『教行信証』を読まねばならないと言われてきた。『教行信証』が親鸞の主論文である。聖人の根本の考えはそこに全部入っている。それに比べれば『歎異抄』は、茶の間で浴衣がけで、お茶を飲みながらくつろいで話しているという一面がある。従って茶の間でなければ出ない話が出ている。けれどもそれだけでは充分でない。却ってそこだけ見ると誤ることもある。そのためにわざわざこのようなややこしい話をしているのである。
 菩薩は不動徧至である。徧く至ってどんなところにでも入ってゆける。これが第一に言ってある。

 (2) 一念徧至
 (12-126)「二つには、彼の応化身、一切の時、前ならず後ならず一心一念に大光明を放ちて、悉く能く徧く十方世界に至りて衆生を教化し種々に方便し、修行所作して一切衆生の苦を滅除するが故に」。これを一念徧至という。前とよく似ている。前の方は十方に徧至する、空間的に、どんな世界にでもという。一念の方は、前なく後なく、ある世界に入る時には、ぐずぐずして時間がかかったというようなことはない。どの世界も一念直ちに入っていくことができる。直ちにというところが大事である。
 今の時代では実に色々なことが起る。今年四月県立高枚に入った或る生徒が五月に退学させられた。女の子と家出をした、相手も高校一年生、そこで退学になった。私が親から、相談を受け、あちこち学校を探してある私立にやっと入ることになった。相手の女の子も退学になった。その子も一緒に行きたいという。もう離れないという。僕はもう、うむうむとうなるばかり。しかし会ってみるといい子で、この子がどうしてこんなことするのかなと思う。普通に考えると、こんな奴は実にくだらん奴だ、十六才ぐらいでデレデレしやがってと思うが、現前の事実はどうしようもない。やっと「これから三年間、高校を出るまでは離れよう」と、女の子と話がついて納まった。
 実に友よ!ですね。「つまらん奴だ」でなく、どんな人とも手を握って、「今からしっかり頑張ろう、頑張らなくちゃ」となっていきたい。空間的にどんな人とでも、そして時間的にいつでも直ちにやれるようになることが菩薩の道である。

 (3)供養諸仏
 (12-126)「三つには、彼れ一切の世界に於て余すことなく、諸の仏会の大衆を照らすこと余すことなく、広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す」。
 供養諸仏という。諸仏とは先にも言うように具体的にはよき師よき友である。諸仏と弥陀はどこが違うかというと、弥陀は大きな如なる世界からの働きかけ、それを法といい如来という。諸仏とは、かって衆生であった者が故によって遂に覚者となった存在をいう。諸仏はすべてもとは凡夫であったが今はよき師よき友。この世のOBである。
 菩薩は仏に供養する。天の楽(音楽)と華(花)と衣(着物)と妙香(お香)。私共が仏前荘厳する時は、三具足の場合真中がお香、左にお花、右にお灯。五具足という時にはお花、お灯が対になって皆で五つ。これらは仏様の食べ物を表わす。我々は音楽の代りに鐘をたたく。
 天の楽と華と衣と妙香が如来の食べ物である。それをさしあげるのを供養という。即ち、如来の生活の物資をさしあげることである。それは天からふってくる。我々の生活物資も自分で稼いだように思うが、そうではない。頂いたものである。私は微々たる働きしかしないのに物資を頂く。それをさしあげるのである。私に賜うたものを仏にさしあげる。それを供養という。我々は貰ったものは私のものとして取り込みたい。しかし、死んだらどうしようもない。みんな置いていかねばならぬ。生きているうちに全部さしあげていくということが大事ですね。
 菩薩とは、仏に供養する力を持っている人である。
 私は時々学生に言うておく。学生時代は無料で仏法を聞いていい。御法礼を出す必要はない。学生は初め仏法を聞こうという気持ちがない。こちらから金を出して大いに聞いてもらいたいぐらいです。けれども、自分が金が入るようになったら、自分で御法礼を出して聞かねばいけない。これは大事なことである。書物もただで貰った本は読まない。だから私もただではあげない。ただであげたいけれども、ただではあげない。ケチだと思うかも知れないが、自分で金を出さないと読むものではない。
 仏法においては供養が大切、その供養の心は菩薩にならないとできない。自分が本当の求道者として誕生するということがなければ出来ません。「あなたは毎年、仏法にどれ位金を出していますか」、そんな事を聞く人もいないし、言う人もないが---。いや金なんか出したことがないという人があれば、そんなことでは不充分。本当の人はだいたい仏法に金を出す人が多い。金を出す人が本物とは限らないけど、金の話をするというのは仏法らしくないですね。けれど言うておかねばならん。いくら出してもかまわぬ、みな頂いたものなのだ。頂いたものを如来にお返ししていく。それが如来の食べ物になるのである。これを財供養という。
 しかし、本当の供養は法供養である。仏の法を聞きぬき、その教の通りを実行すること、これを法供養という。これにまさる供養はない。たとい十円の財供養もできなくても、如来の法を聞思する者は大供養の人である。

 (4)無仏の国に使して三宝を興隆す
 これまでの三つは序論であって、この四つ目が一番大事である。
 (12-126)「四つには、彼の十方一切の世界、三宝ましまさぬ処に於て、仏、法、僧宝功徳大海を住持し荘厳して、徧く示して解ら令めて、実の如く修行せしむ」。
 これが一番中心点である。前の三つは有仏の世界のことである。私がよき師よき友を頂いて育てられてゆく世界のことである。その中においてどんな人の世界にも徧く、一念に至り供養する。今は無仏の国に使いして仏、法、僧の三宝を興す。それが興隆三宝である。
 無仏の世界とは私の心奥、これが原点。そして私の家庭。夫が仏法を聞いても妻が聞かないということがあり、親はよく聞くけれども子供が聞かない家もあり、その逆もある。無仏の家庭がある。そして私の職場、私の社会である。そういう中に自分が出発していって、そこで「仏法を説くこと仏の如く」遂に三宝を興隆するのである。
 この無仏の世界こそ、煩悩具足の凡夫が満ち満ち火宅無常の世界が展開し、よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなき世界である。それを厭うているのではない。軽蔑しているのではない、厭になったのではない、現実逃避でない。菩薩は無仏の世界にとけ込んでいくのだ。それが無仏の国に使いするということである。必ずそうなる。そのことを言いたかった。「よろずのことみなもてそらごと、たわごと……」というこの文章は、何か人生を憂いの眼で見、厭だなあという眼で見るような感じを与えるが、さにあらず、反対である。この人が仏法興隆の場である。そういう世界に飛び込み取り組んでいく、そこに仏法を興す人になる。これが一番大事なことです。このことを言わんが為に前の三つの徳が言ってある。
 前の三つができる者は四番目ができる。四番目ができる者は前の三つができる。この四つは離れない。これを、如を体として行ずるという。如来の心が私の心となるからこそ、私が無仏の国に行けるのである。
 その人が本当の求道者であるかどうかは、無仏の国に使いした時にわかる。仏のない世界というのは、よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなき人生である。今まで一生懸命に聞法精進していた女性がある。結婚したところがパタッと止まった。嫁いだ先で仏法者が生まれてくるかと思いきや、自分自身もとうとう聞かぬようになったとしたら、悲しいかなそれは本物でなかった。何々先生の弟子であると言ってもつまらぬ。先生のそばは、それは有仏の国。そこでは力を発揮し人の世話もしていた。けれども無仏の国に行ったら、人どころか自分も聞かなくなるというのは、それは本物でなかった証拠である。しかし、本物かどうかを論議し批判しているのではない。本当に火がついて燃えている者は、どこに行っても人を燃やす力を持っている。それが大事なことです。現実人生を厭わず、軽蔑せず、現実逃避せず、それに取り組んで仏法を興す力を持つ人でありたい。それが言いたい。

 無仏の国とは何か。何といっても私である。これがよくわかっていないといけない。これがわかないと、人の話になる。自分の心の無仏の国に行くとはどういうことか。
 無仏の国へ自分が仏の代理で行ったというものではない。自分が無仏なんだとめざめて念仏することである。これがないと、人を勧めるなどということはできはせぬ。一緒に聞きましょうというほかに道はない。普く諸々の衆生と共に手を握り、あなたも私も本当に仏法を聞かなければならぬ存在だ、どうしても聞くより他ないですよ、というのが根本。そして自分自身が本当に如来の前を動かない。そして諸仏を供養する。こうして初めて、現実との取組みがはじまる。
 禅宗では「一箇半箇を化せば足る」と言う。一人でいい、半分でもいい。人間は半箇というわけにはいかぬから、これは強めでしょう。たった一人でいい、それを本当に仏者とする。それができれば此の世に生まれて仏法を修めた甲斐があったといえるのである。一生に一人でいいのだという。これが禅宗のいいところですね。
 自分のことになって申しわけないが、仏教の寮を作って今年で十二年目ですが、そこに入った学生が百人を越した。この中で卒寮生は六十人位です。残りの人は途中で出て行った。又は私が追い出した。その中で今も続いて仏法を聞いてくれる人は十二、三人ですね。十二年間で十二、三人だというと、一年に一人、大変なことです。学生時代に聞いてくれるのも有難い。が、大事なのは、卒業して社会に出ても続けて聞いてくれることで、そういう人が一年に一人できたら大成功である。まことに「一箇半箇を化せば足る」とは、実にその通りだと思う。平均して言えば年に一人ということになってはいるが、考えてみるとあまり能率のいい話ではない。新興宗教は殆んど寮を作らないという。これはやはり労多くして能率が悪いからですね。しかし、本当の人は寮から生まれる。寮の生活というのは大切なものです。
 とにかく、無仏の国に使いして、一人でも聞く人を生み出すということはなかなかの難事である。しかし、そこに真の菩薩道があるといわれる。皆さんもぜひやって頂きたいと思う。
 繰り返すように、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界が厭なのではない。厭世感でもなく無常感とも違う。現実逃避でもない。それが私の働く舞台、ここにどうしても仏法を成就せずば止まず、ここで一人でもいいから仏法の人を作りたいという意欲を持つ。それには『教行信証』の最後を読まねばならない。
 『教行信証』の一番最後は、次の文で結ばれている。「『華厳経』の偈に云うが如し、若し菩薩種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すこと有りとも、菩薩皆摂取せん、と」。
 主語は人々であるし世間の人々(衆生)が、菩薩種々の行を修行するを見て、善い心、悪い心を起す。尊いことだと喜んでくれる人もあるし、つまらんことをする、馬鹿なことをいうと言って貶める人もいる。が、菩薩はそういう現実を皆受けとめて、仏法を興隆しようと努力していく。善い人を受け入れ、悪い人を退けて軽蔑するのでなく、「皆摂取してそれを念仏して受けとめていこう」、と『教行信証』は結ばれている。実に広い聖人のお心が出ている。これが求道者の心である。
 さきの文章の裏にひそむ心はこのようなものである。「ただ念仏のみぞまことにておわします」 この言葉は聖人の仰せの最後に出てくるもので、すべてのしめくくりになっている。『歎異抄』の後序はかねて申すように、真実信心を明らかにするためにある。それをはじめに「如来より賜わりたる信」といい、最後に「ただこのこと一つまこと」という。自己を本当に知らされ、又まことなるものを知らされた、それが信である。これが『歎異抄』の結論である。

 (5)真実実在したもう
 「まことにておわします」。「おわします」というところに深い敬語が使われている。「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」といわれるが、「おわします」とは、「ある」ということの敬語である。実在しまします、真実実在にてましますという。
 念仏は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏と口に称名念仏する。しかし念仏申すに先がけて、本願の名号(名告り、叫び呼びかけ)がある。名は名告りであり、号は叫びという。南無はかえれ、命令形になっている。帰命と訳す。阿弥陀仏は無量寿、無量光といい、大いなるものわれという。いのちきわなく光きわなきその大いなるものわれ、それを阿弥陀仏という。大いなるものわれに帰れという呼びかけを名号という。名号が私に届いて南無阿弥陀仏と私に応答が生まれる。これを念仏という。『歎異抄』では名号と念仏とを一緒にして念仏という。第十章には「念仏には無義をもて義とす」と言われている。「念仏者は無碍の一道なり」とか「念仏は行者のために非行非善なり」も称名念仏です。叉、「ただ念仏のみぞ」という、これらは名号と念仏。念仏と名号が一諸になって、念仏に即した名号、名号と離れない念仏を言っている。
 私が念仏する。それは私を包む大きな世界(一如、真如)その如なるものが私に向かって働きかけてくる。それを如来という。「いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐みたまいて」、この私を放置することができなくて、彼来って私の中に自己を実現しようとする。その姿を如来本願という。具体的には南無阿弥陀仏となって自己を与えようとする。それを如来廻向という。
 廻向とは、如来の自己付与である。人間我々は眠りこけていて、どれだけ叩いてもどうしようもない程厚い穀の中に寝ている。それが起き上がって大きな世界に生きていくには、大きなもの自体が自分を届けるしかない。そして私に届けられた如来が私となって私を背負って、大きな世界に帰っていく。それを廻向といい、自己を与えるという。南無阿弥陀仏となって如来全体を私に与えるのである。
 南無阿弥陀仏は大きな世界からの働きである。それが我々に向かう時には、名告りといい名号という。南無阿弥陀仏という。それが届くと私において南無阿弘陀仏と念仏になる。大いなるものに帰命したてまつる、帰依したてまつる、それを南無阿弘陀仏という。名号は向こうから、念仏は我々から。それを一緒に南無阿弥陀仏という。

 「ただ念仏のみぞまことにておわします」の「ただ」をあとにまわすと、南無阿弥陀仏だけが真実に実在したもう、となる。如来のみ生きてまします。「ただ念仏のみぞまことにておわします」とは「ただ如来生きてまします」である。煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ如来のみ生きてまします。南無阿弘陀仏が真実実在にておわします、ただ南無阿弘陀仏のみが実在しまします、如来生きてまします。これが『歎異抄』の結論の中の結論になっている。

 如来実在しましますとなると、どうなるか。私は如来によって生かされている。私の生の根拠がここにある。あなたは何のために生きているのですかと問われると、若い時ほど答えやすい。勉強しなければならんという人もあろうし、又子供の為にということもあろう。けれども年とってくると、だんだん答えられなくなる。はては絶句しなければならんようになる。我々は初め何となく生まれて来たのであって、何か目的をもって生まれて来たのではない。気がついたら生まれておった。生まれた時も所も覚えてなどいない。だから、お前はいついつどこで生まれたのかと問われても、はっきり言うことができない。
 私は大正八年三月十二日生まれということになっている。母に、本当にこの日に生まれたのかを聞いたことがある。すると母が、もちょっと早かったけどその日にしたのだという。今はもう両親ともにいないので、はっきりしたことはわからない。
 生まれた日さえそうであるから、まして何のために生まれたかということはわからない。けれど、私がここに生きているということは事実なのだ。自分では生きているということが、実はおかげを蒙って生かされているのである。小さなどんぐりではわからなかったけれど、発芽するとはじめて太陽の力と水の力が、殻の中にいた私を育んできた、それらの力で今日があるのだとわかってきた。それが私の生きている事実の発見である。そこに、私において深い感謝があり、その恩に報いねばならぬという報恩の思いがある。又深い懺悔がある。これ程に色々とお世話を蒙っているのに自分自身は小さなことしか考えていないという現実がある。そこに、まことに申し訳ないという懺悔がある。又私の生きる目標を与えられ、生き方を教えられる。これが如来ましますことを知った時に生まれる事実である。私は何のために生まれたのかといえば、それはただ如来にお遇いするためであった。そして今からの生は、少しでも如来にお礼をし、そのお徳をたたえ、御恩に報いるための生であると思う。
 自分のためにという私的生活から、如来の前なる公的生活へと転換する。そこに私の生きる道がある。考えてみると我々は私的生活で終始している。子供が何人できた、今はどういうふうな生活をしているといっても、結局みな私的な内容である。私の全体が小さな殻の中での生活である。
 大きなものに目がさめるとは、真実実在したもう大きなものの発見である。その時、その小さな私的な殻を出て大きな世界に入る。それが公的生活である。念仏生活である。
 道綽禅師は『安楽集』に、それを「法の臣となる」と言われた。「法の王、法の臣」という言葉を使われた。法は大法、仏法、具体的には南無阿弥陀仏。これを王にたとえる。公的生活とは仏法の臣となること、と道綽は言われる。もとは『大智度論』(龍樹菩薩)にある。
 戦争が敗戦に終って世の中は非常に変った。変っていいものも沢山あった。しかし変って悪いこともある。その一つは臣という字がなくなったことである。国民はもとは臣民だった。が、今は臣という字は日本語から抹殺された。一つだけ残っているのは大臣である。絵理大臣とか……。臣とは王の家来ということである。大臣以外の臣は皆無くなった。これでいい。我々はもう何者の奴隷でもない。臣として隷属する君主はなくなった。けれどもいいところもなくなった。臣というのは王のために我が命を拗ってでも尽すというのが臣である。そういう王がなくなった。即ち公的生活の主体を無くしてしまった。今まで縛られていたものがなくなったのは結構だが、そのため今は私的生活だけになってしまった。私的生活が生活の全てになってしまった。職場があるではないかと言うだろう。それはあるが、職場はもともと食を得る為の生活手段の場である。それ以外のものではない。私的なものである。主がないことは非常にまずいことで、殻の中の生活で一生を終ってしまう。
 それによって私が生かされており、それに向かって私がお礼をし、その御恩に報いなければならぬという依命を持ち、私に生きる目標を教える法に遇った。その法は真実実在したもうもの、生きてましますものである。この法に遇う時、人は始めて真の人間として誕生する。私的人間から公的人間、殻の中の存在から如来の前なる存在となる。
 今は、念仏がまことにおわします、ということについて申した。

 問う。
(1)如来ましますか。
 あなたは真実実在したもうもの、まことにておわしますというものを持っているかどうか。仏様はおいでになるか。
(2)如来生きてましますか。
 「如来まします、如来生きてまします」と私が言い得る時、それを自己否定の原理を持つという。自己否定は自己肯定の反対である。自己否定を持たないというのが現代人の悲劇であるといわれる。自己肯定とは、私は間違いないんだと据え込んで、自らが身をよしと思い、一人一人が幸福を追求するのが人間の根本的立場であるという。私は私なりにまごころを尽していると自負している。そこを立場にしているのを自己肯定という。
 皆自己を肯定して立ちどまっているこの現代、そこに対立があり争いがあり、行きづまりがある。大事な道は、自己自身を考えていくという道である。自分は正当なんだ、これは動かせないという所に座り込んでいるのでなしに、自分自身を照らされていくことを自己否定という。自己肯定が打ち破られていくところに道がある。「照らされて照らされて照らしきられて生きる道」(夜晃先生)という原理を持つ、それを「まことにておわします」ものを持つという。そこから生き方が変ってくる。
 自己主張でなしに深く自己を内省し、相手を責めるのでなく、南無阿弥陀仏と念仏して受けとめてゆく生き方が「真実実在したもう」ものに遇うところから起ってくる事実である。
 今から先の日本を考える時、一体どうしたらよいのか。それはもう此の道しか残っていない。せめて一人でも二人でもそれがわかり、それを実行していかねばどうしようもない。自己主張、自己肯定の立場では、悲劇は益々大きくなるばかりである。自己否定の原理を持つということが唯一つの道である。真実実在したもうものを持つことが真の行き方である。

 真実実存したもうものは功徳を持つ。功は働き、効能。水は物を潤す。それはそのものについて離れない働きである。具足している働きである。真実は真実功徳と申して、必ず働くのである。
①一つは不実功徳を知らしめる。
②私を二諦に順ぜしめる。
 二諦とは真諦と俗諦。真諦は真実なる世界へのさとりである。殻を破られて大きな世界を知らされ、真実なる世界、如来の世界に向かって進んでいくことを真諦という。大いなるものの願いが私に届いて、いよいよ聞かして頂かねばならぬ、いよいよ求めさして頂かねばならぬというのを真諦という。
 我々は又、人生に住んでいる。この人生は汚れており濁っており、混沌としておって、そこには色々な思想が渦巻いておる。この人生に取り組んでいく道を俗諦という。この人生で名聞利養、勝他のためでなく、どうかしてこの大きな世界の少しでもいい、片端でもいいから伝えたい、どうかこの道に立ってくれる人が一人でもいいから誕生することを願いたい、友よ!となる。そこに仏法の讃嘆、談合、語り合いがなされていく。この人生に於て誰かがやらねばならぬ仕事、それは台所の隅で食事の準備をすることかも知れぬ、或いは病人の看護をすることかも知れぬ、或いは職場、或いは政界其他で誰かがやらねばならぬ人生の役割というものを、どんな困難があろうともそれに取り組んで、それを果し遂げて行こうというのを、俗諦に順ずるという。
 大抵の人はこの人生で色々と格好いい所を見せてやろうと思っている。これらは悉く私的立場であり、煩悩の世界である。が、そういう私的立場が打ち砕かれ、私のポケッ卜を肥やすためでもなければ私の名誉心を満足させるためでもなしに、私に与えられた役割を精一杯働いていこうという無私の立場に立って取り組む。これを俗諦に順ずという。そこに真実功徳の働きがある。
 これを明らかにしたのは曇鸞大師であって、聖人はそれを『教行信証』に引かれている。
③私を本当に進展させる。
 「衆生を摂して畢竟浄に入らしむる」とは論註の言葉で、私を本当に進展させる働きである。従ってこの道に立てば立つほど、念仏のまことにておわしますこと、南無阿弥陀仏の真実実在しておわしますことを、いよいよ知らせて頂くのである。
 これらが「念仏はまことにておわします」ということの内容であろうと思う。

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