歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第六節

五、真実功徳と不実功徳

 真実の真も実もまこと、まことのまことである。更に真実だけで終らないで真実功徳という。これは天親菩薩の『願生偈』に、「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国 我依修多羅 真実功徳相 ……」とある。真実功徳と続けたところに意味がある。
 功徳とは何か。功は功用、はたらきである。真実は働きなのだ。徳を成就していくはたらきなのだ。徳は得なりという。身についた幸せを徳という。真実は真実そのものについた働きを持っている。例えば火がある。火には働きがある。他のものを燃やす力がある。それが功。そのはたらきはどこからか借りてきたものかというとそうではない。そのものが持っている、身についたものであって、合わせて功徳という。
 真実ははたらきである。そのことを言おうとして真実功徳と続けた。単なる抽象的なものでなく、真実は具体的なはたらきなのだ。実は事実であり現実である。実際である。真実は事実であって、火が物を焼き水が物を潤すように、具体的なはたらきを持っている。それを真実功徳という。単なる真理でなく、事実となり現実となって具体的に働いてくる。それをいう。
 今、「念仏のみぞまことにておわします」と言い、「そらごと、たわごと、まことあることなし」という。大和言葉ではまことというひとことで終るものを、真実功徳として真実の具体的な働きを表している。
 それでは真実の働きは何か。曇鸞大師は『浄土論註』に次のように三つ言われた。
 (1)浄化、純化 (不実功徳の発見)
 (2)方向づけ  (顛倒せず)
 (3)継続一貫  (畢竟浄に入らしむ)

(1)先ず浄化という問題。浄は汚れているものをきれいにする。濁っているものを清らかにし、汚染されているものを純粋なものにする。
 我々は汚れている。この世に生きてゆくのには競争があり、弱肉強食、優勝劣敗、負けてはならんぞという意識があって、いつも競争意識をもつ。エゴでだんだんと汚れていく。
 人間は煩悩で汚染されている。煩悩の中心に二つある。一つは自己愛着である。ナルシシズムという。自己の主観にとじこもっている。もう一つは如来無視である。煩悩は如来を全然考えない。自分を超えた大きなものがあり、私はその大きなものに包まれているというようなことは考えない。これを疑いという。実際は疑っているというよりも、深い自己肯定である。自己愛着、自己中心を別の面から見れば疑いであって、日常生活の中で如来のことなど全く配慮しないで行動をしていく。それを煩悩という。
 真実は浄化する力を持つ。浄化とは、この煩悩(自己愛着、疑い)が打ち砕かれること、それが浄化、純化である。
 煩悩が砕かれるとは、煩悩がなくなることではない。煩悩は、いわば卵の殻である。その殻があればこそ人間生活が成り立つという一面がある。しかし、そのままでは小さい殻の中に閉じこもって、一生を終るしかない。穀が打ち砕かれるとは殻をこわすことではなしに、卵がひよことなること。目玉ができ嘴ができ、足がはえて成長を遂げて、そして殻を出ることをいう。そこに生まれ変わりがある。浄化とは煩悩が無くなることではない。煩悩の穀を出て深い成長を遂げていくことをいう。真実は穀の中に閉じこもっている。これが浄化である。
 浄化ということは、又、煩悩の発見であり、煩悩の自覚である。穀を出てはじめて殻が見える。浄化とは汚染が無くなることではない。明らかに見えてくることである。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」という自覚こそが、真実なるものの功徳である。真実なるものの働きが我々の上に成立して浄化、純化が生まれる。浄化や純化は真実なるもののはたらきであり、真実功徳である。
 仏法には否定的な表現が多い。諸行無常とか、煩悩具足などがそれである。諸行無常と言われると世の中は何か暗澹としたものに感じられて、しっかり頑張らなくちゃという意欲がなくなる気がする。しかし親鸞聖人によってそのような憂うつな感覚は打ち砕かれたと言っていい。「ただ念仏のみぞまことにておわします」というのは、煩悩具足の凡夫とめざめて火宅無常の世界と信知し、しかもこれを真に生きぬく力を与えられることを表現している。
 浄化とは、煩悩具足の私が明らかに私にわかってくることである。立派になったと自己肯定するのでなしに、自分の不真面目さがわかるところに真面目になっているという事実がある。人間が純粋になればなるほど不純な自己を見出し、浄化されればされるほど汚染された自己を見出すのであって、不実を照らし出す働きが真実なるものの働きである。それを真実功徳という。
 浄化の働きがあればこそ不実功徳が発見される。不実功徳とは真実功徳によって見出された私の現実である。

 不実功徳については『教行信証』行巻に引かれている。(12-18)「真実功徳相とは、二種の功徳あり、一つには有漏心従り生じて法性に順ぜず、所謂凡夫人天の諸善、人天の果報、若くは因、若くは果、皆是れ顛倒す、皆是れ虚偽なり、この故に『不実功徳』と名く」。
 真実功徳を言おうとして曇鸞は不実功徳を説かれた。なぜこんなことを言う必要があるのか。それは真実功徳は働きである。その働きはまず自己の不実の発見であり自覚である。真実功徳に出遇ってはじめてお粗末な自分の発見があり、懺悔がある。「有漏心従り生じ法性に順ぜず」、私は間違いない、よい事だ、大事なことだと思ってやっているけれども、その根本は有漏心である。結局、深い自己愛着、深い自己肯定から出ている。打算的でありエゴであり自己中心である。皆の為皆の為と言いながら実際は自己愛着である。それを不実功徳の発見という。それこそが真実功徳の働きである。
 現在、学問の研究者は真実心で一生懸命やっていると思われているが、さにあらず。「有漏心より生ず」、この通りである。殆んど名聞、利養、勝他の心である。この研究論文を早く完成して皆をアッと言わせたい、この調査報告さえ出せば教授になれるだろうというような、打算と名誉欲とで研究者は動いているといってよい。他人の話ではない、私自身がそうであった。研究そのものはよい事だけれど、それをする根本は有漏心である。不実功徳と懺悔するほかないものである。
 真実功徳に二つある。一つ、二つというのは分類でなしに働きである。働きに二つある。一つの働きが不実功徳を発見することである。自己のお粗末な姿を照らされるのである。深い自己凝視、内省、自覚、それが真実功徳の働きである。
 人間が本当の宗教を持たないならば、彼は自分の野望でふり廻されてのたれ死にするしかないであろう。しかし本当の世界が与えられると、自身を照らされて浄化されてくる。その浄化は必ずこのような自覚の姿をとる。不実功徳の発見という相をとってくる。凡夫(我々)人天(天上界、すぐれた人達)のやっている事悉く顛倒している。自己中心であって、如来が全く無視されている。この反省、懺悔のところに純化がある。人間が本当に人間として生きていくには、自己を本当に知ることが大切である。それが真実なるものの働きである。真実なるものによって成長すればこそ、そこに自分の穀を見出すのである。

(2)方向づけ。我々は生まれながらに無方向である。どっちを向いて進んだらよいのかわからない状態で生きている。それを迷いという。迷いという字をある人が言うのに、米は四方八方の意、従って四方八方へむちゃくちゃに走るのが迷い。も一つは米で、食べては走り食べては走り廻っている、これを迷いという。その私に方向づけが与えられるのが真実の働きである。
 方向づけとは何か。どんぐりは生まれながらに方向を持たない。厚い殻の中に入っていてドングリコ・ドングリコである。風に吹かれると動き、水に流されてどこまででも流れてゆく。縁次第でどちらにでも変わる。つまり無方向である。このどんぐりが本当に方向を持つとは、東西南北のどれかの方向を選ぶのではない。太陽の光を受け水を吸収することによって胚芽が伸びてきて発芽する。その時にはじめて方向を持つ。発芽するとどんぐりは、一方は太陽の方向を向いて伸びていき、他方は大地に向かって伸びていく。伸びる方向は太陽と大地である。その方向づけをする太陽を真実という。
 西方浄土という。西方とは西という一つの象徴された方向である。それは太陽の方向である。東西の西ではない。或いは彼岸という。これは死んでからという意味ではない。大きな方向を言おうとしている。どんな方向かというと、どんぐりが穀の中で考えている方向とは違う。次元の違った、殻の中では考えようのないような方向、高次元、閉鎖的な世界でなしに、広い大きな世界をいう。大いなるものが大いなるものに向かって指向させる。この世のことも一生懸命やっているのであるが、「心は浄土にあそぶなり」という。千手観音といって手が沢山ある観音様があるが、その真中の手は、いつも手を合わせておられる。沢山の手がそれぞれ縄、金槌、農機具等、色々な物を持っているのだけれど、真中に合掌する手を持っている。これが方向を持っていることである。大きな世界を持っていることが真の方向を持つこと、それが真実なるものの働きである。

(3)継続一貫、真実のみが末徹る。人間は続きにくい。朝起きなどは続く人がある。が、読誦(どくじゅ)、称名を一貫することは大変なことである。これは、真実なるものが継続一貫させるのである。
 『涅槃経』に真実ということを言ってある。『教行信証信巻』に引いてある。「『涅槃経』に言はく、『真実』と言うは即是、如来なり、如来は即是、真実なり」
 真実とは如来以外にはない。働きをもって純化し浄化し、物に方向づけをし、そして継続一貫せしめる真実功徳。小さな小さな存存、それを衆生と言おう。大きな大きな世界、それを絶対と言おう、ロゴスと言おう、如と言おう。その如なるものが私に向かって働きかけてくる姿を如来という。如より来生するという。そこに、真なるものが私において実となる。如より来生するもの南無阿弥陀仏が私において事実となる。それを「真突とは如来なり、如来とは真実なり」と言われた。「真実とは虚空なり」、虚空とはあらゆるものを包むもの、広い広い世界であって、包むという働きを持つ。摂取する力を持つ。「真実とは仏性なり」、仏性とは、如より来って私の中に生きて、私を如に生まれしめるもの、それを仏性という。仏性こそが真実であり、真実は必ず仏性となるのだと、『涅槃経』にある。
 真実といえば抽象的である。そして人間の上にもあるような気もする。しかし人間を浄化する働きは人間にはない。今、居眠りを始めたとする。起きなきゃいかんと思って片方の手で太ももをギュッとつねってみた。痛いと思ったがそのまま寝てしまった。つねりながら寝ている。なぜかというと眠るのも自分、つねる方も自分。自分を浄化しようと思っている自分も汚染している。血で血を洗うようなもので、人間は人間を浄化することはできない。論理的にもできないし実際にもできない。しっかり頑張って自己中心を離れたいと思っていること自体が自己中心である。腐敗した政権を打ち倒した新政権も、やがて腐敗するようになっている。本当に浄化の働きを持つもの、それは常に人間を離れたものにある。それが人間に生きて人間を浄化する。それを仏性といい信心という。それは向こうにある。向こうにありながら私にある。それを如来という。真実とは如来であり、如来こそ真実である。ここに浄化作用がある。浄化された姿が不実功徳の発見である。向こうが働きかけてくればこそこちらが自らに覚めていく。そこに廻向がある。そして彼が継続一貫なればこそ、私に継続一貫が成り立ってくる。
 真実とだけ言わないで、真実功徳といわれるところに意味がある。

 「まことにておわします」と聖人は申された。「おわします」と、深い敬語をもって表わしている。「まことにておわします」に、深い尊敬があり感謝があり、身をもって真実に出遇った人の感動、感銘がある。漢語で言えば「真実功徳」、柔らかな大和言葉で言えば「まことにておわします」である。
 「まことにておわします」ものの働きが、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界のそらごと、たわごと、まことあることなき」姿を知らせる。そのままが、深い人間世界の浄化である。
 真実は不実を発見する。それが「みなもてそらごと、まことあることなし」。私のやっていることが名聞、利養であり競争心のかたまりとめざめさせる。
 それでは私のやっていることは全てつまらないというのではない。不実が功徳となる。不実のままが功徳になる。念仏になる。
 不実とは、そらごと(空しい)、たわごと(間違い、偽善)、まことあることなし(不誠実)。それならば全くつまらないでなしに、そのままが南無阿弥陀仏になる。「私がやっていたことは外側ばかりで、内側はなかったなあ、南無阿弥陀仏」。私の不実そのものが功徳になってくる。それが真実の働きである。
 私の上に生きて、不実を不実と知らしめ、不実が私のための功徳になる。死んだ者が生き返った。意味のなかったものに意味が与えられる。私がやってきたものは失敗だらけであった。が、「こういうていたらくの私、南無阿弥陀仏」というところに失敗が生きてくる。不実が功徳になる。それが大乗仏教である。大乗仏教は死んだ者を生き返らせる力を持つ。
 ある人が有料老人ホームに入って言いました。どうしてこんな所に入ったのか、私の人生設計ではこんな所に入る筈ではなかったのに、どこが間違ったのか。私は先ず子供の教育が大事だと考えて、子供は皆大学へやった。自分の家を持たねばならぬと思って家を建てた。貯金も要ると思って貯金もした。けれども、子供達は学校を出て皆遠い所に行ってしまった。家は建てたけれども広すぎて夫婦二人きりでは管理しきれぬから人に貸している。金はあるけれども使い道がない。その金を持ってこうして有料老人ホームに入っている。私の人生は失敗だったという。しかし決して失敗ではない。
 「そらごと、たわごと、まことあることなし」である。失敗だったりではない。自己中心で如来を無視して、自分の考えだけでやってきた。それが間違っておった。ただ南無阿弥陀仏となったら、このすべてが生きてくる。失敗とみえるものこそ念仏の種であり念仏の根源である。そこに不実が功徳になる。死んでおったものが生き返ってくる。無意味な失敗が意義を持つものとなり、今日の念仏のための条件となる。そこに真実なるものの働きがある。

 真実功徳を言うために曇鸞は不実功徳を言われた。不実功徳とは、私の積んだ功徳が有漏心から生まれて真如法性にそわないで、みな如来無視の顛倒であったことの発見であり懺悔である。しかし、そのままが功徳になる。そこが大乗仏教である。そこに何も駄目なものは一つもない。失敗も悲劇も、誤算も成算も念仏に遇うとみな功徳になる。
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」。これは、南無阿弥陀仏だけがまことであると、半分よろこびながら半分悲しんでいるようなものではない。そんなことではない。「まことあることなし、南無阿弥陀仏」だ。不実功徳になっている。そしてそれを本当に成り立たして下さる念仏への感謝と感動が続いている。

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