歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第五節


 四、善し悪し

 人間の考える善し悪しについて曇鸞大師の論註には「衆生邪見をもっての故に心に分別を生じ、もしは善もしは悪、かくの如きの分別により種々の分別苦を受く」とある。
 人間の心で善し悪しを言う時、その根底にあるのは何か。一杯飲んでお互いに熱をあげて話す時、話が合うのは先生の悪口、職場の上司の批判などですね。それはなかなか花が咲く。花の上に花が咲いて話が合う。そうじゃこうじゃと何杯でも飲んで話している。悪口というのは非常によく合う。しかしそれは邪見から出ている。邪見とは間違った考えである。人間の心の一番奥底にある無明からまき起るものを邪見という。無明とは智慧のなさである。人間の持つ深い深い自己中心性から出ている。それを邪見、我見という。私が物を見る見方は、無明を根底として邪見として出てああだ、こうだと善と悪とに分ける。「もしは善もしは悪、もしは是もしは非、もしは正もしは邪」と、ものを区別していく。これは無明から出てくる。そこで善し悪しが分別苦を生ずる。善と悪とのレッテルを貼ったそこから、それが私を苦しめる。それを分別苦という。
 あまりいい譬えではないが、人相のよくない奴がいて、何となく物騒などうもおかしいなと思っていたら、後からついてくる。こちらはだんだん不安になって逃げ腰になっていたら「もしもし」という。「あなた落し物ですよ」と言う。私は小銭を入れた財布をこういう人に届けて貰ったことがある。感謝しなきゃいけないのにとんだ事になっている。こちらが分別して警戒したところがこんな有様。こちらが色眼鏡で見ると相手はその色眼鏡通りの男に見えて、それが私を苦しめるようになっている。思いが苦しめるのである。
 我々は人を誤解しているということが沢山ある。善い悪いで考えていて相手を理解できない。つまらん人間だと思ってみたり、立派な人だと思ってみるが、なかなか当らない。人を誤解していると同時に、私も人に誤解されている。しかし浅ましいもので、自分をよく誤解してくれると嬉しい。あの人は勉強家じゃ、朝早く起きて勉強しなさる、なんて言ってくれる人があると何となく嬉しくなりますね。昔は知らず今は朝早く起きて勉強なんか仲々しないから、そんなこと言って貰っても間違いである。それなのにそう言われると嬉しい。よく誤解されると嬉しい。だが悪く誤解されるとかなわない。大体自分が人を誤解している程度に向こうも自分を誤解していると思わなければいけない。その誤解の原因はどこにあるのかというと、無明にある。無明から邪見が出て、それで判断するから間違ってくる。そういうことを言われている。

 つれづれということがある。『徒然草』は「つれづれなるままに日暮らし……」という所から始まっている。つれづれというのは、話す相手もなく読む本もなく、何もすることがなく退屈で空しさを感ずるのをいう。楽しみが何もない。なぜつれづれを感ずるか。何もなければなくていいではないかと思われる。が、そうではない。無明は必ず外に何かを求めるのである。心が何かに愛着しそれに執われる。そしてそれを自分のものにしようとする。これを愛、取、有という。無明の働きが愛着である。何か愛着するものがないと暇で暇で仕方がない。じっとしておれない。
 これは皆さんとはあまり関係ないが、ノイローゼとか神経症というのには特徴がある。何人かの人達を見ていると共通点がある。それは落ちつかない。タバコを盛んにのむ。手持ちぶさたで時間をもてあます。コーヒーをがぶがぶ飲む。ラジオを聞く。うろうろ歩き初める。落ちつきがない。じっとしていることができない。無明の穀の中にあって何かを外に求めている。治り始めると一人でじっとしている時間ができ、それがだんだん長くなる。無明は必ずつれづれを感ずる。どうしようもない退屈感が生まれるのは無明からである。もし無明が打ち砕かれたら、つれづれということはない。
 金森の善従という人のことが『蓮如上人御一代記聞書』にひかれている。「あなたは近頃退屈でお困りでございましょう」と申し上げたら、善従は、「私は八十余りになるけれども、一度も退屈ということはございません。なぜかというと、弥陀の御恩の有難き事を存知し、又聖人の和讃、聖教などを読まして貰うと、心に嬉しさが満ち満ちて、とてもつれづれなどということはありません」と言われた。これが本当ですね。無明が破られた人です。しかし無明は何かがないとやりきれない。人がいるか、仕事があるか、ラジオがあるか、テレビがあるか、何かないとやりきれない。試みに我々もまわりのものを全部とって、子供、主人、妻、金、何もかも皆取り除いてしまって一人でいて、「つれづれなることを知らず」と言えるかどうか。タバコもテレビも何もない所で一人いて、心に喜びが満ち満ちているというのは無明ではない。弥陀の本願が働きかけて、我々は無明の真只中にいても大きなものを賜うて内側に眼が向けられる。外に何かを掴んでそれによって私の心の支えとし、生き甲斐を感じていこうとするのが無明の働きである。弥陀仏の本願を憶念して自然に南無阿弥陀仏となるその時、外に何もなくても生きてゆける。それを信心という。
 エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に、「人を本当に愛しぬく力をもつためには一人でいる練習をせよ」と書いてある。フロムは禅宗をやった人だけあって仲々面白い。人を本当に愛しぬく力、それをThe Art of Lovingという。愛しぬくために私において備えるべきものという意味ですね。それは一人でおれる訓練で養われるという。酒も飲まずタバコものまない、新聞も見ないでじっとして一人で居られる練習をせよと書いてある。本当にそうだと思いますね。

 無明が分別を生ずる、それを邪見という。邪見が人に対して善し悪しを言う。それが善悪の二つである。この無明が弥陀の本願によって念仏となると、善し悪しとならない。「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」となる。
 それは善し悪しでなく友よ!兄弟よ!となる。邪見をもって人を裁かない。分別で区別しない。そういうものが生まれてくる。それが友よ!兄弟よ!である。深い世界を与えられたのである。

 この深い世界を南無阿弥陀仏という。弥陀の本願という。弥陀の本願は汝!である。「汝一心正念にして直ちに来れ」である。汝はドイツ語でDuというのが適切である。Duは切っても切れない相手をよぶ時に使う。如来は私をDuと呼ぶ。これを親様という。単なる呼びかけでなく、Du、汝と呼ぶ。それに栽がDuと答える。それが信である。Duと呼ばれてDuと呼びかえす。その時私はあらゆる人にDuと呼びかけることができる。これを、人を善し悪しと言わないという。善悪の二つ総じてもて放下した。そういう天地が出てくる。
 現実生活の中では、我々は人間関係の中で生きている。家庭でも職場でも人間と人間のつき合いである。親子であり、夫婦であり兄弟であり、上であり下であり、要するに人間関係の中で色々な問題が起る。それは皆無明のおこす問題である。私の無明が邪見を生んで分別となり善し悪しになる。その根本的な解決はDuという関係を成就するしかない。私が本当に教を聞き開いて私をDuと呼ぶものを発見し、Duと答えていく。これがたった一つ、人間関係の根本的な解決である。

 南無阿弥陀仏を真実智慧法身という。この真実智慧が私に届くと真実智慧を頂いて、自己自身を照らす。「愚痴の法然房、十悪の法然房」という自己の愚かさを知らされたのが法然である。そして「煩悩具足の凡夫」となるのである。
 「煩悩具足の凡夫」というのは人間の言葉ではない。人間は自分を煩憎具足の凡夫とは思わない。どこまでいっても自分を高く高く買いかぶっている。
 ABCとあり、上中下とあれば、自分は少なくとも中位だと思う。日本人に中流意識が多いというが、日本だけでなく人間全体がそういうものである。一番下だとは決して思わない。大体まん中だろうと思いますね。一番上と思う人は少ない。しかし一番下とは思わない。
 三人の坊さんの話がある。三人が無言の行をはじめた。日が暮れかかってきたので一人が言った。「暗くなったから灯をつけなければいかん」。二番目の坊さんが言った。「今は無言の行じゃ、ものを言ってはならん」。三番目の坊さんが言った。「ものを言わんのはわしだけじゃ」と。実にいい所を言っている。煩悩具足などとは思うていはいない。しかし、わしだけは煩悩は少ないのではないかと考えている。
 煩悩具足の凡夫とは、真実智慧の眼から見た人間存在、仏の眼に写る人間の実状である。仏の眼に写る私の姿である。それが私において煩悩具足の凡夫とわかるというところには、仏の眼が我等の眼となっている。即ち真実智慧が我々の上に生きている姿である。それを自覚という。最も深い自覚は、愚痴無智の私というめざめである。煩悩具足の凡夫という自覚は、人間では到底達し得ない自覚である。仏眼即ち真実智慧の成就がなければわからない。仏の眼に写る私の姿を私においてこれが私と知る。これを真実智慧の成就、信心という。
 本当の信心と本当でない信心との差はそこにある。私自身をどれ程までに深く自覚し得るか。本当に「煩悩具足の凡夫」と自分がわかるかどうか。ここが信心の最後の課題である。どれ程すぐれた解説ができようとも、そこがはっきりしていないと学者でおわる。仏様の慈悲の話は有難く言えても、自己がはっきりしていないと観念的な話になり、その人自身は何も仏の慈悲を得ていないということになる。自己自身に深く目が覚めて「如来の善しと思召す程に知り徹す力もなく、悪しと思召す程に知り徹す力もなく、煩悩具足であり愚痴無智であり、お粗末な私である」とわかった所に、「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」となる。
 放下すべきものが二つ。今できるかどうかでなくても、目標としてでもいい。一つは人の善し悪し、もう一つは空想。これができねばならない。それには「汝」「友よ」ということの成立がかなめであろう。又、自己を知ることがかなめであろう。

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