歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第五節


 三、世阿弥(花鏡)

 世阿弥は観世流の能の創始者である。数奇な運命をたどり六十何才で佐渡島に流された。時の将軍足利義教に嫌われたのである。義教の死後に許されて帰り、晩年に書いたのが『花鏡』である。そこに、「初心忘るべからず」と出ている。この言葉は若い頃に書かれた『花伝書』にも出ているが、『花鏡』の方が詳しい。
 「初心忘るべからず」という言葉は有名で、初めの志、始めの決心を忘れてはならないと、普通とられている。この書物を読んでみると、それが誤りであることがわかる。この言葉の内容を三つ言ってある。「是非の初心忘るべからず」「時々の初心忘るべからず」「老後の初心忘るべからず」と。
 「是非の初心忘るべからず」是は善いこと、非は悪いこと。善し悪しという基準が未熟であるということを忘れてはならないという。初心というと、自動車の免許とりたての人は初心者マークを貼らねばならない。これは未熟ということである。化学の実験をする場合でも、初心者というのはすぐにわかる。見る人が見たら初心者はすぐわかる。初心とは初めの志ではない。未熟さである。是非、即ち善い事悪い事、あるいは人の善し悪し等についての尺度、基準が未熟であるということを忘れてはならないという。人を善し悪しと言い人を批判する場合に、自分は善し悪しについて未熟なんだということをしっかり考えなければならない、とある。
 「時々の初心忘るべからず」。時々とは、その時その時。二十才三十才、四十五十と、だんだん年をとっていくと、その時その時に自分は大分やったなという感じを持つ。試験に合格した時自分は大分やった、カがあると思う。そういう時々に、自分は未熟だという事を決して忘れてはならないという。
 「老後の初心忘るべからず」。年を取ったならばだんだんベテランになり、充分ものがわかったような気持ちになり熟達者のように思うが、そうではない。年とったらいよいよ自分が未熟であるということを忘れてはならない。私はこれが気に入りましたね。だんだん年をとったから、老後の初心忘るべからず、これを肝に銘じました。
 世阿弥は仏教の人ではないが、聞くべき言葉であろう。これを紹介しておきます。

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