歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第五節


 二、善 悪

 善悪がわかっていないのではない。それはよくわかっていて、しかもそれを超えている。一体、善悪ということは非常に大事なことである。世の中には善悪ということのわからない人もかなりいる。善悪というけれど善悪の絶対の規準はないではないか、昔はあったけれども今は違うという人もある。このように時代が変れば、又、国が違えば規準も変わる。
 ある本に、外国人と一諸にキャンプに行ったところ、彼はテントの中にコンロをたいて、洗濯したパンツをそのまわりに干す。日本の人が悪い顔をしてやめろと言ってもキョトンとしている。反対に日本人がスープを味噌汁のようにズーズーとすすると、外人は顔をしかめてそんな無礼なことをするなという。こちらは目をぱちくりさせてキョトンとしている。こちらでは何とも思わない普通のことが、向こうでは大変な失礼となる。よしあしの規準が違う。だから「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」とは、善悪がはっきりしないのだろうという。が、それは違う。今の場合善悪ははっきりしている。「我も人も善し悪しということをのみ申しあえり」であってはっきりしているのである。
 善は十善業という。『観無量寿経』には、「父母に孝養し師長に奉事し悪心にして殺さず十善業を修す」。これを善(世間善)という。これらは時代を超え国を超え、どこにおいても正しいことであり善いことである。
 悪は十悪五逆という。十悪は十善の反対、殺生(むやみに生き物の命をとる)偸盗(自分のものでないものを勝手に取る)邪淫(よこしまな男女の愛)妄語……。五逆は父、母、師、友、如来に対する反逆をいう。これを一緒にして十悪五逆といい、これを悪という。そういう一番基礎的な、根本的な問題を仏法は教えている。善悪についてこれらをよく知ることは、いつの世にも大切なことである。
 そこで、善を励み悪をやめるということは実に大切である。現代は善いことをしっかりやろう、悪いことをやめようという心が非常に薄れている。これは小さい時から躾けていかねばならぬことである。放任というのがいけない。幼い暗からルールを守ることを教えこむことが必要である。
 ジョン・ロックというイギリスの昔の学者がある。彼は、自分のことは自分でやる、人に迷惑をかけない、などのことを十才までに躾けねばならない、十才をこしたら親と子がだんだんと友達になっていかねばならないと言った。ジョン・ロックの教育説を私は学生時代に学んで大変印象に残った。今頃は親子仲良く、親父は子供の相談相手ということがよく言われているけれども、十才までに厳しく育てるということをしておかないと、本当は育たない。善をやり悪をやめるということをしっかり言わねばならぬ。
 基本は、自分の事は自分ですることである。しかし日本の子供達で、自分の布団を自分で片付ける者は案外少ない。四割以下である。風呂に入る時、自分の下着を自分で持ってくる者も案外少ない。親がしてやる、持って行ってやる。善悪どころではない。も一つ手前が抜けている。
 先年、国際児童年というのがあって、各国の子供のことを調査した。日本の子供には非常にがっかりするような結果が出た。先ず第一に日本の子供は乗物に乗って、老人や障害者に席をゆづらない。それが十人中八人で世界最高である。家の手伝いをしない。十人中九人は何もしない。これも世界最高。よその国は違う。特に中近東の発展途上国では、子供は大きな戦力である。遠い所まで水を汲みに行く、物を売る、薪を取ってくる。仕事を一生懸命やる。日本の子供は布団も自分であげないという状態。自分の下着まで親が風呂場に持ってくるというていたらく。今、日本の子供は世界の子供に比べて、本当にこれでよいのかということを考えさせられる時代である。
 益々、いらぬ話だが、若者達はどうか。『興信所』という本がある。興信所の結婚調査の結果を統計が出ている。その結果は実に今日の若者像というのは、心が寒くなるようなものになっている。結婚不適格者と判定された人が、男女とも七十五パーセントという。
 善を励み悪をやめるということを、もっとしっかりやらねばならない。それが抜けておったということがわかる。

 しかし善を励み悪をやめるということには落し穴がある。これも知っておかねばならぬ。
 先ず心根が問題である。善を励み悪をやめるという心根には問題がある。それは、しからよく思われよう、結局よい事をやった方が得だ。即ち名聞、利養というものがこびりついてくる。従って善を励むにつれて善人意識を生み、優越感を持つようになる。悪をやった者は深い卑下の心、コンプレックス、遂におれは駄目だという劣等感に陥っていく。そういう心の問題がある。
 勉強するということは善であるが、勉強していったらいい子になるかというと、どっこいそうはいかぬ。深い優越感を持ち、冷たい人間になり、人間としての潤いを失ってくることが多い。学校で勉強のよくできる子は、頭はよくて理解力もあり、判断力も記憶力もあるけれども、利己的で思いやりが足りないということが多い。できない子は自信を持たぬ。人間はとてもいいのだが自信を持たず、勉強できないということが深い劣等感になっている。
 善を為すことによって憍慢心を生み、悪をなせば劣等感に陥っていく。そういうところに善を励み悪をやめるということの深い落し穴がある。それが第一の問題点である。ある所まではしっかりやらねばならない。が、それだけでは、できる子とできない子の間に問題が起ってくる。それは心根の問題である。
 智愚の毒という言葉がある。『教行信証』の信巻にある。「たとえば阿迦陀薬の能く一切の毒を滅するなり」。智愚の毒とは、人間の持つ智毒、愚毒である。智慧のある者は智毒、智慧のない者は愚毒。毒とはその人をそこない傷つけ、遂に死に到らしめる。智慧のある方は優越感、憍慢心、エリート意識。無い方は卑下、劣等感。いずれも毒である。真の宗教は「智愚の毒を滅す」でなくてはならない。
 「如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅す」である。
 人間は我見(自己中心の考え)我愛(自己愛着)我慢(自分を高く買いかぶる)を持っている。その根本を我痴といい、それを無明という。それを根源として心の働きが起る。それを識と申す。また無明の働き全体を行という。識は心の働き。心の働きは名、色に対しておこる。名は善とか悪とか徳とか勇気とか。色は物質的な物。色々な物(対象)をつかまえて心が働きかけて、触れて(触)それを受けとめて(受)愛着を感じ(愛)執われる(取)。人間は善悪何であろうとも、やっているうちにだんだんそれに執われてくる。心の働きが対象を見つけてそれに触れ、受けとめて愛着を感じ、それに執われてくるようになる。これを無明の働きという。
 私の所に鶏がいて毎日約二十個卵をうむ。四月に四十日ビナを買うと十月に卵をうむようになる。名古屋コーチンという茶褐色の鶏である。始めの計画では、二年目になったらこれを次々と一羽ずつ処分して寮の食事に出すつもりだった。ところが餌をやったり外へ出してやったりしているうちに、だんだん愛情が出てきて、処分するというのが難しくなった。愛着しているわけである。結局どうしやうもないから三代か四代飼うている。おばちゃん、おばあちゃん、大おばちゃんまでいる。次第に卵はうまなくなるからどうにかしなければならんけれど、愛、取、有になってしまった。始めはそんなつもりではないけれど、最後には執われてしまう。
 善に執われて、善をやらねばならぬと義務的に考え、やればやって憍慢となる。やらねばやらぬで劣等感、不安感となって、善悪にふり廻される。大体、やらなきゃならんと思ってやったものは、ろくなものはない。執われからきているのだから。
 無明から我々の心の働きは出ている。そこには自己中心の思い、我見、我愛、我慢がこもっていてそれが対象を見つけて働きかけてくる。そこに必ず執われがある。執われるなと言ってみてもどうにもならない。できれば智毒、できなければ愚毒。いずれにせよ自身が毒されてくるのである。

 善悪を超えるとは何か、執われを超えるとは何か。執われなさんな、善はやれる時だけやればいい、やれない時は仕方がないじゃないですか。そうではない。問題は無明にある。この無明を問題にするのが仏教である。善い事をせよ、悪い事をしてはいけないというのは道徳。仏教は道徳から出発して、最後はこの無明の解決を目指している。
 人間の無明即ち我見を打ち砕くことが執われを脱する道である。我々の心は世間心である。その人間のも一つ奥から、いや上からと言ってもいい、人間の無明に働きかけてくるもの、それを如来本願という。如来の本願を聞きひらいて、私の心の中に火が燃えてくる。これを信心という。そこに、本当に自分は無明であったなあ、執われておったなあとわかる。「如来の御心に善しと思召すはどに知り徹したらばこそ善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思召す程に知り徹したらばこそ悪しさを知りたるにてもあらめ」と、如来ということが出てくる。無明の中に如来真実の智慧が届いてくる。それが仏法。そこに我々は自分の智毒、愚毒を知らされる。
 超えるとは、如来の智慧によって(具体的には南無阿弥陀仏)信心の智慧によって私が照らされて自己の執われを発見する。執われは私の冷たい裁きの心。善いとか悪いとかで自分をも人をも切っていこうとする冷たい裁きの心を発見し、それを慨悔していくところに、如来の働きがある。それを超えるという。
 大善は如来にある。智慧も真実も如来にある。大善は如来にあり自分には冷たい裁きの心しかないことを知っていくことを目ざめという。自己には無明あるのみとわかってくることを信心という。そこに深い自己否定即ち自己に善を肯定することを全く打ち破られて、「自己には無明あるのみ、南無阿弥陀仏」と、念仏になるところに、無明の執れを超えるということがある。
 小さな小さな私が大きな大きな如来の御心を聞き知って、如来の光明、大善が私の心に届いたところを信心という。その時私の不善、善への執われを見出すのである。如来の光明を仰ぎ、「まことに如来こそ智慧にてまします、大善にてまします、南無阿弥陀仏」と合掌していく、これを往相という。私が信心を得た、わかったというのでなく、「私は冷たい裁きの心で、善し悪しと人を斬り捨てる私であった」「小さな私であった、南無阿弥陀仏」と念仏していく。その時私は罪悪生死の凡夫、煩悩無底。これを聖人は「地獄は一定すみか」と言われた。しかしそういう自覚をもって進んでいくままが、人生に向かっては還相という働きをしてゆくのである。往相の姿をとって進むところに還相が与えられる。還相は他への働きかけであると共に、そこに善が具わってくる。「師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す」。その他自分の事は自分でやり、人に迷惑をかけないというものが出てくる。それは義務感でやるのでもなく、その方が都合がよいのでもない。自然(じねん)にそうなるようになっている。それを廻向という。「南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり」(正像末和讃)無明を根っことして生きておった者が、「わが身はお粗末な者」とわかって聞法に進んでいく、その利益として同時に他への働きかけが自然に与えられて、その人に「師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す」というものが生まれてくるのである。
 この世において善がなされねばならぬ、又、できるだけ無駄を省いて節約もしなければならぬ。が、それだけならば執われに終る。やればやったで智の毒、やらねばやらぬで愚の毒。しかし本当に仏法を頂いて私が自分にめがさめ、同時に南無阿弥陀仏と念仏していくところに、この世に生きていく上に自然に善が与えられる。それを智慧という。義務感でなく功利心でなく、自然にできるようになるのである。それを「還相廻向に廻入せり」という。我々はそれを自分に肯定することはできない。他の人の上におがむ。それは如来の働きであって、自然に我々に与えられるようになっている。それは「御恩であります」と、如来の徳として感謝のほかないものである。

 善悪に執われていると、やらねばやらぬで深い心の重荷を感じ、やればやったで傲慢になる。
 善悪を超えるものは如来への合掌礼拝しかない。先に三種の人と申したが、還相の人を信心の人という。世間を超えるとか、世間を捨てるということは、言うのは簡単だが、言うべくしてなかなかできない大変なことである。この人生に生まれてどうして人生を捨てたり超えたりすることができよう。しかしながらそれができることが仏道なのである。
 超える、捨てるということが善悪の執われを離れることである。私はどんぐりころころで地面を離れられない。地面が世間である。我々は世間を離れることはできない。しかしながら離れる道が一つある。それは光と水である。燦々とふりそそぐ太陽の光を浴び水を吸収して、もしどんぐりが発芽をしたら、大地を離れて虚空界に伸びてゆく。同時に大地に深く根をおろす。上に向かって伸びていくのが往相、大地に根深く入っていくのが還相。往還は必ず同時に与えられる。大きな世界を生きさせて頂かねばならぬと上に伸びて行く。そのままに世間に深く取り組んで、そこに功利心の穀を捨て、善悪に執われる穀を破ってゆく。そこに善がなされていき智慧が成り立つ。この天地を「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」といわれる。「善は如来にあり、私には冷たい裁きしかない、南無阿弥陀仏」である。
 「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」善悪を絞ってみると「人の善し悪し」ということになろう。人の善し悪し、ということについて、私はそれを放下する(棄てた)ということを言われている。
 放下とは手を放すこと。禅宗でよくいう。先ず大きな松の木を登りなさい。そのてっぺんまで行ったら枝にぶら下がりなさい。そしてその右手を離しなさい。それから左手を離しなさい。これを放下という。どうなるか、これはもう落ちてしまうしかない。我々が振りしめているものを放せと言っている。何を放さねばならぬのか、それは沢山あろうが今は、人の善し悪しということ。もう一つ放下せねばならぬもりは、空想、あるいは妄想。我々はすぐ空想する。あの人がむこうを向いて何か言っているが、私の悪口を言っているのではないだろうか。又、学校を卒業したらああやって、こうやってと空想している。そしてふり廻されている。実際は何もないのに勝手に空想してショックを受けている。空想は妄想である。これを棄てるというのは大事なことである。
 「ドガという人の偉いとこは、空想を棄てたということだ」と、亀井勝一郎氏はその『人生論・幸福論』に書いている。「この絵を描きあげたら高く売れるだろう、いい評価を受けるだろう、ひょっとしたら……」というような空想を彼は全部棄てた。そして画自体に打ち込んだとある。成程、空想を棄てたら仕事にとり組むことができる。結果を予想し、想像して、これをやったら人がどう思うか、などの空想を棄てて仕事に取り組んだらすばらしい。この二つ、人の善し悪しと空想を棄てられたらどんなにいいことだろう。今、後序では、念仏者は人の善し悪しを放下するといわれている。妄想も同様である。
 

一、総じてもて存知せざるなりに戻る/メニューに還る/三、世阿弥に進む