歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第五節


「聖人の仰せには、『善悪の二つ総じてもて存知せざるなり 云々』とこそ」。

一、総じてもて存知せざるなり

 このお言葉は、「私は善いとか悪いとかは全然知らないのであります」ととられがちであるが、そうではない。
 「総じてもて存知せざるなり」という言葉は先ず第二章にある。「念仏はまことに浄土に生まるる種にてやはんべらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」と出ている。これは藤秀璻師によって御指摘されている。(『歎異鈔講讃』)
 第二章では、念仏が浄土に生まるる種であるか地獄に堕つべき業なのか、そのような功利的な考え、打算的な考え方を超えた世界をあらわす時に使われている。即ち、「親鸞におきてはただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」ただそれだけなのだ。亡くなられた師法然上人に「ただ念仏」と頂いた。そこにたった一つ私のとるべき道がある。念仏によって浄土に生まれようと地獄に堕ちようと結果は問題でない。仰せに従って念仏申すだけであって、結果についての打算は捨てている。問題でないのである。「総じてもて存知せざるなり」を、こういうふうに使ってある。
 知らないのではない。私の知識では及ばないと言っているのでもない。分別を超えている。そういうことを言う必要のない世界に出されている。私において道は決まっているのだということを言おうとして依ってある。功利的分別を一歩出ておられる。考えてみると我々は実に功利的であり打算的であって、それを一歩でも出ることは到底不可能である。
 念仏は浄土に生まるる種であるということはよく教えられたことであり、よくわかっている。けれども、それ故に念仏をとるというのでなしに、それが浄土に生まるる種であろうとなかろうと、たとい地獄に堕つべき業であろうとも、分別を超えて私は唯一つ、よき人の仰せを被ってその道を行くばかりでございますという趣きが出ている。それが「総じてもて存知せざるなり」である。
 藤秀璻師の『歎異鈔講讃』にはこのところに夢窓国師(禅のお方)の詩が引かれている。
  青山いくたびか黄山に変ず
  世上の紛転すべて干せず
  眼裏(ちり)あれは三界も(せま)
  心頭事無ければ一(しょう)(ひろし)し (牀=小さな座布団)
 禅宗のお坊さんらしい非常にすっきりしたいい詩ですね。「すべて干せず」ということが言いたくてこの詩を出してある。青々と茂っていた緑の山がいつの間にか黄葉して黄色の山に変っていく。それが繰り返す。人生にはあれやこれやごたごたしたことが次々に起っている。それを私は知らないわけではないが、一切そういうものにかかわらない。むしろよく知っているからこそとり合わない。眼の中に塵があると広い世界も狭く感じられ心の中に何もわだかまりが無ければ、小さな座布団の上にいても広々とした世界を感得する、という意味であろう。人生に様々なことがあるのはよく知っているが、それには執われない。眼の内に塵なく心頭事無く、広々とした世界を遊んでいるのである。「すべて干せず」。何も知らないのではない。すべて知っているのである。けれどもそれに引きずり廻されない。
 曾我量深師はすでに亡くなられたが、ご承知のように多くの人を育てられた偉い先生である。この先生は(私は又聞きだが)新聞をよく丁寧に読まれたそうである。株式欄の株価の上げ下げまで読まれたという。先生は株など一株もお持ちではなかったろうが、よく注意して見ておられたそうである。世上の紛転、色々なことを知っておられた。けれどもそれに引きずり廻されるのでなく。「すべて干せず」。『歎異抄』では「総じてもて存知せざるなり」といわれる。それを全く出ているのである。第二章には功利の世界を出ているのである。聖人のお姿があらわれている。
 損得を考えるということは生活の智慧でもあり、煩悩の世界では決して忘れることのできないものである。も一つ名聞という。名聞とは名誉心である。我々はブライドをなくすということは耐えられないことである。それに善悪の問題。自分のやっていることが善いか悪いか、人がやっていることが善いか悪いか。この利養、名聞善悪という問題は、人間が常に考えていて離れることのできない問題である。
 第二章には、「総じてもて存知せざるなり」とは利害打算を超えているのだということを言われている。この後序には、「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」と、善し悪しを超えた世界を言われている。
 それでは親鸞は善し悪しを考えなかったのか。先程の禅宗の坊さんのように、知っているけれども干せずというのであったのか。そこが大事なところである。
 損得を離れたというが、その中心になるものは何なのか。それは「念仏は」である。「念仏はまことに浄土に生まるる種にてやはんべらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」であって、「念仏」が中心であるということを知っておかねばならない。
 名聞、利養、勝他、(今は名聞、利養、善悪)を世間心という。功利的関心は人間が生きていく限り無くならない。これらは全ての人にある。どんな子供にでもある。おねしょをすると子供はしょぼしょぼしている。私の保育園の子はパンツをぬらすと、何となく悪いことをしたという顔をしているからすぐわかる。しまったことをしたと思っている。善い悪いは小さな子でもよくわかる。他の子から「お前はずるい」と言われると大変にこたえる。「あんたは嫌い」と女の児から言われると男の子はショックを受ける。また自転車に乗るのでも先に良いのを取ろうとする。小さい子でもこれはよくわかっている。すべての人にある。
 よしあしの心が無いとはどういうことか。出世間心である。出世間心とは如来心である。人生を超えた解脱心をいう。それを信心という。信心は名聞、利養、善悪の心を持たない。それを如来心という。
 『教行信証』の信巻に「大信海を按ずれば」という言葉で出ている。「凡そ大信海を按ずれば、貴賎、緇素(しそ)(えら)ばず、男女老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず」。
 大信海を信心、出世同心という。貴賎(身分の高い低い)、緇(出家)、素(在家)、造罪の多少(善悪)をいわない。
 我々は世間心に執われる。これを分別という。分別とは執われる心。損か得かを考え、損を捨てて得の方を取ろう。評判が良いか悪いか、できるだけ良い方をとって悪い方を捨てよう。善いか悪いか、悪い方を捨てて善い方をとらねばいけない、と。こういうように分別する。分別そのものは決して悪いとは言われないが、それに執われてふり廻される。
 「大信海を按ずれば、貴賎、緇素を簡ばず、男女老少を謂わず」これを機相という。「造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず」を機類という。機相とは外側から見た姿、形。機類とは内なる姿をいう。外側からわかるものと外から見えない内なるもの、我々はこれらに囚われて差別し選別する。白か黒か、大きいか小さいか、男か女か、先ず区別して選ぶ。
 今日は差別ということが問題になっている。差別をなくせというのは、相言葉のようになっているがすべてなくすは無理である。男性と女性、老若と幼い者との差別は誰もどうしようもない。それをなくせといっても誰もできない。
 毛沢東が言っている。彼は共産党のリーダーであったが、兵隊に訓示している。兵隊が言う。「皆平等にやらなければいかん。しかし将校は馬に乗っている。我々は歩いている、皆同じに歩かねばならん」と。毛沢東は言う、「そういうのを平等というのではない。怪我をした人ができたら担荷に乗せ、怪我をしてない人間がそれを担いでいく、それが平等だ。大人は御飯を沢山食べ、子供はあまりたべない。皆同じだけ食べるというのが平等ではない。将校が馬に乗り、そうでない人が歩くというのが平等なのだ」と言っている。そういうことはよく知っておかねばならない。差別は常に厳然とある。
 男女、老少と差別はあるが、人間はそれに執われてふり廻される。それを超えた所を「総じてもて存知せざるなり」という。
 超えた世界とは機類、機相に全く執われない。普く諸々の人々に対し、その外側がどうであろうと内側ががどうであろうと、すべてに平等の大慈悲がかけられている。それが如来の世界である。如来において分別がない。如来に大悲知慧がある。如来心に本当の平等がある。その如来の平等の大悲をわが身に受け取ると、差別の中にあって差別に執われる心を持ちながらそれを破かれていったその世界を、「総じてもて存知せざるなり」という。
 「念仏は」ということが大事なところであり、「如来」ということが出てこないと、超えるということは成り立たない。すべての人に分別心はあるが、念仏においてそれが超えられる。

 人には大体三種類ある。仏法について申すと、一つは仏法を聞いたが世間心が大部分で、仏法が少しの人。世間心を自力、出世間心を他力、信心という。第二の人は世間心が半分、出世間心が半分。これはすごい人。求道を遂げて大変進んでいる。けれどもどうしても世間を捨てきれぬところがある。純粋な仏法になっていない。第三はいわゆる信心の人、出世間百パーセント。こんな人は殆んどない。親鸞聖人位ですね。お前はどうか、私はまあ半々の、この辺です。それではまだつまらんではないかというと、親鸞聖人に「あなたはどれか」と問うたら何と答えなさるだろう。私は信心の人だと言いなさるだろうか。それは疑問である。

 「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」というのは、この第三の信心の人である。大信海というのは如来の心である。この如来の心においてだけ貴賤、緇素を簡ばず、男女老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、分別を超え出世間ということが成り立つ。世間が半分残っている段階では、どうしても善悪を言い、超えきれないものがある。名聞、利養、勝他が超えられない。
 三種の人の更に前、オール世間心の人がある。名利心、打算、これしかない。その中で縁に恵まれて仏法を聞く機会があった。そして真暗な闇の中に一点蚊取線香位の火がついたら少し自分の心がわかる。それがローソクぐらいになったらもう少し見えるようになる。それが第一の段階。この人を先ず育てなければならない。決してそれを怠ってはならない。先ずこの人達ができなければ次に進みようがない。だから若い時から聞くようにしたい。仏法を聞くのは若い時がいい。なぜかというと感受性が強い。昔から禅宗では「学生二十、老師四十」という。老師とは指導者。指導者は四十才が一番適している。これより若いと考え方が熟さないところがあり、これより多いと老婆心というか年寄り根性になって、あまり丁寧に言いすぎる。相手をつきとばすことができない。あまりつきとばしてもいかず、あまり丁寧すぎてもいかず、四十才ぐらいが一番指導者として適当であるという。学生二十、二十才より若いと受け取る力が弱く、それを超すと色々なことを知っておって批判的になる。丁度二十才位が一番いい時だという。
 世阿弥という人の書いた『花伝書』には、人生を七つに分けてその時期々々の修行を強調している。一番始めは七才、次に十二、三才、次が二十四、五才、三十五才、四十才、五十才、一番大事な時期は三十五から四十才である。この期間で人間はシャンとしたものにならないと、一生なれないといっている。一般論としてはそうである。曇鸞大師が信を得られたのは五十五才だったから例外ということもある。だからこれに執われる必要はない。
 要するに聞法は若い時がいい。年とると熱心に聞くが感受性に乏しい。若い人は感受性はあるが、外のことに気をとられていて仏法など聞こうとしない。これは残念なことである。先ず第一の人を育てることが大事である。そして第二段階までくる人は上等。ここまでくれば大成功。だが第三の人になる人は殆んどいない。この人は世間をすてたのだ。そろばんを捨て名聞を捨てた。昔は出家といった。出世間ということは大変なことである。しかしこの人が出なければ仏法は盛んにならない。半々の人では駄目である。
 私共の先生を考えると、先生は本当に捨てなさったなあと思う。本当に捨てなさった。自分の職を捨て財産を捨て名誉を捨てられた。そういう人に遇わなければ仏法は得られない。「念仏はまことに浄土に生まるる種にてやばんべらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」。これは実に出世間である。世間と仏法が半々の人では言い切れない。世間心が大部分の人では益々わからない。信心の人において「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」と言えるのである。善しも悪しもよくわかっているが、それに執われない。大菩提心の世界、大信海の世界に入った人の心である。
 それではこの人は、善いとか悪いとか言わないのかというと、そうではない。
 大きな世界に出た、その世界を大信海という。そこに本当の智慧、本当の慈悲がある。それが如来の世界、如来の智慧、大悲、真実にめざめたのが信心である。その信心の人においては、「念仏のみぞまことにておわします」。そこに「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」。この世の善と悪はよくわかっているが、如来真実の前にその善悪の判断がまことに浅はかなものであることを知る。そこに執われを離れるのである。
 この世界に立つと深く自分がわかる。その自己は、「よしあしの文字をも知らぬ人はみな、まことの心なりけるを、善悪の字知りがおは、おおそらごとのかたちなり」(11~42)と、善悪に執われ、ふり廻される自己のはからいを知って懺悔する。何もとらわれていないぞというのでなしに、自己の内面に深く深く執われがあることを懺悔していくのである。「是非しらず邪正もわかぬこの身なり、小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり」と、善悪のはからいを見出すのである。
 信心の人は自分で信心があるとは決して言わない。自分はお粗末な人間である、世間心の存在であると言う。世間心の自己を発見することが世間心を超えることである。そして他の人の善に対しては、本当によかったと随喜し、他の人の悪に対しては悲しみ歎き痛む、どうかあの悪をやめて本当の道に立ってくれ、どうか立ってもらいたいと願いを持つ。冷たい批判でなしに、暖かい眼で人の善悪が見れるようになる。そして同時に深く自己を懺悔する。それが「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり、南無阿弥陀仏」である。
 大きな世界、智慧、大悲、真実の大信海の世界こそ、私を大きな心で差別なく呼んで下さる仏心の世界である。南無阿弥陀仏と感謝せずにはいられないと共に、深く自己を懺悔せざるを得ない。そして他への深い随喜と悲願を持つ、それが信心の人である。その表現が「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」である。

第4節に戻る/メニューに還る/二、善悪に進む