歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第四節

三、よしあしという

 よしあしという心とは自力の心を言っている。親鸞聖人は『唯信抄文意』の中で自力の心ということ言われる時に、一つには「自らが身をよしと思う心」を自力という。先にも申すように深い自己肯定の心である。二つには「身をたのむ」。わが身をたのみ、わが身の可能性を疑わない。そういう深い自己への過信である。三つには「悪しき心をさかしくかえりみる」。自分に悪いことが起ると、こういうことでは駄目だ、自分はつまらないという。これを、わが心をあつかうという。これをはからいという。最後に「人をよしあしという」。人をよしあしということは、深い自己閉鎖の心であって、人を理解する力のなさのあらわれである。その根底には深い自己中心があり自己肯定がある。その心が人をよしあしというのであって、それは本当に自分がわかっていないのである。これを自力という。
 『論註』には「衆生邪見を以ての故に心に分別を生じ、若しは善若しは悪、かくの如きの種々の分別を生ず」とある。邪見が沢山の分別、差別、はからいというものを生み出すのである。「この分別を以ての故にながく三有に沈み……」と言ってある。善し悪しを言う心のも一つ後にあるものを邪見という。人間の間違った自己中心の考えが善し悪しを言うのである。これが先ずわからなければならない。攻撃的な批判や文句をいう力はみな生まれながらに持っているのである。
 人に批判を乞うということは非常に大事なことである。人は皆批評する力を持っている。「わが悪きことを申されよ」と『御一代記聞書』にもあるように「悪い所を指摘して下さい」という時は、偉い人に聞かなくてもいい。下の人がよく知っている。子供の方が親を批判する力を持っている。自分より年の若い人、自分の部下が鋭い批判力を持っているのだということをよく知っておかねばならない。更に言うと、私を知っている人は誰でも私を批判する力を持っているということを知っておかねばならない。
 吉川英治は「われ以外皆わが師」と言った。皆から学ばねばならぬところがあると同時に、皆が私を鍛えてくれるものを持っているのである。
 しかし自分がしっかりしていないと、それに引きずられていく。そしてそれに反発したり自己弁護したりして受け取ろうとせず、自分自身は結局わからない。我々は自分自身をよく教えて貰わねばならない。
 以上のことが如来の御恩ということを知らない理由、善し悪しということだけを言う理由である。
 今この言葉は、「まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり、南無阿弥陀仏」である。自己の実状がわかるところに深い懺悔がある。その懺悔は、如来の御恩ということを知らない忘恩の私、よしあしと外へ外へと引き廻されている私、自分を忘れている私。申訳ないことであるという深い懺悔がこの結びとなっている。「善し悪しの文字をも知らぬ人はみなまことの心なりけるを、善悪の字知りがほはおおそらごとのかたちなり」と和讃にある。そこに本当の人は善し悪しということも言わない、まことの心である。それであるのに自分は……という深い懺悔が出ている。そこに真の信心がある。それが示されている。
 「お前は如来の御恩というものを知っているか」「はい知っております」。こう答える人には御恩はわかっていない。観念的である。「御恩ということを忘れてしまっている忘恩の自己、外へ外へと引きずられて善し悪しということばかりで終っている私、南無阿弥陀仏」という懺悔のところに、御恩を知っている事実がある。
 懺悔によって、忘恩や、人を善し悪しというのはもうやめたのかというと、そうではない。懺悔は日々新たである。更に粗末な自己を発見し更に発見し、日々あらたである。
 我々はある地位に昇り、ある立場に立つと、人の善悪を言わなきゃならない。人の成績をつける時などそういうことがある。信はその時に深い洞察となる。その人の善し悪しの底に何の原因があるのかという洞察、理解、そして願いがある。どうかそういう中から立ち上がってくれよという願いを持つ。そこに我々は善悪に引き廻されないで、しかも善し悪しという批判をすることができる。
 正しい批判は必要である。信がその根底に必要である。教育というのはやはり善悪を言わなければならない。善い所を褒め悪い所は指摘しなければいけない。信はその時、深い洞察と願いを持つようになるであろう。

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