歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第四節

二、如来の御恩を知らず

 仏法を続けて聞いて最後の課題は、本当に有難うございますと言えるかどうかということである。もう一つ大事なことは、「申し訳ないことでございます」と、私の真相が明らかになるということである。前の方を感謝といい、後を懺悔という。ここが大切である。特にこの聖人の宗教は、深い感謝と深い懺悔が特色である。感謝は他の宗教にもあることであるが、懺悔という点で非常に深いのが聖人の特色である。
 如来の御恩を知らないというところに、本当の仏法でないということがある。
 恩を知るということについて聖人は、二つ言われている。
 第一は『教行信証』にある。「真仮を知らざるによって如来広大の恩徳を迷失す」。真仏土巻の最後(12-159)にある。
 人間が宗教に関心を持って求道していながら感謝が出てこない。それは真仮を知らないからだ。仮仏化土に執われているから御恩ということがわからないといわれる。
 真仏とは何か、天親菩薩は尽十方無碍光如来と申された。仮仏とは『観経』の仏である。『観経』の仏とは、観ずる仏をいう。真仏仮仏も阿弥陀仏という所は同じだけれど、仮仏は私が観ずる、真仏は私が照らされるのである。仮仏は私が考える仏、私が思う仏である。真仏とは私を照らす仏、私に働きかける仏である。仏が二つあるのではない。第一段階において我々は私の知性をもって仏を考えるほかに道がない。この私が主体となって考えていく仏を仮仏という。仮とは権仮といって本当のものでない。対象化された仏である。
 問い、「如来ありや、仏様はおいでになるか」、答「あると思います」。「釈尊という人があり仏教がある。そしてそれを信じている人が沢山ある。だから如来はあると思います」。こういうのを仮仏という。心に思いうかべていく、考える。それを『観経』に出てくる仏という。こういうことである限り「御恩でございます」と感謝することにはなり得ない。
 しかし、仏はあると考えるだけでも大変な進展である。始め我々はそんな事があるものかと考えていた。無いと言いたいし、あるか無いかわからんと言いたかった。しかし「あると思う」と言う所に非常に進展がある。それだけでも恵まれた人である。わからぬというのでなく、あると思うと言えるのはえらい。その人の宿善が出ている。だから現代はこの思いだけでも、よかったよかったと大きな丸をあげねばならない。しかし、我等の先生はこれを大変厳しく言われた。「思いますは要らん」「思いますとは何事か」といって叱られた。私は大きな丸をあげたいところだが、「思いますとは何事か」と叱られる。それは更に大きな進展を念じていられるからである。
 考える仏、思う仏は私の知性の対象であって、これを対象化という。向こう側に置いて、あるとかないとか言って仏というものを論じている。客体としであるとかないとかいう。これを実体化という。対象化とは、仏を実体化して私は傍観者になっていることである。
 実体化というのは働きかけを待たない仏である。いのちを持たないものとしてある仏である。「思います」という限り如来は働きをもたない。私と関係がない。この限り御恩がわからない。
 磁石があるとき磁石が主体でそこには磁場がある。それを世界といい場という。電子がある時そのまわりには電場がある。それが電子の引力の働く場である。仏のあるところ仏の世界がある。そこには色々な物があり人がある。雰囲気がある。その世界には菩薩があり教があり空気がある。それを真仏土という。この仏土で菩薩は仏の徳を讃えている。
 この土が死んでいる。そこにあるものがみな働かない。それが化土である。私の観念の対象としてあるだけで、私がその世界から何かを受けとめるということがない。私の心を打ち割って教えられるということがない。それを化仏、化土という。これを又懈慢界という。私が懈怠、憍慢の世界にいるのである。仏が懈慢界にいるのでなく、私が懈慢界にいるのである。その段階では私に真の精進がない。仏教を求めているがエリート意識にとどまっている。この段階では人をエリート化するだけである。それを化土という。仏を対象化していると、化土に住むようになる。
 色々なお経がある。『般若心経』などを頂くと、仏を考えるようになる。向こうが働いてくれるというよりも、自分が向こうの仏に近づいていく。だんだんわかったような気になるけれども、それが懈慢界である。私は『般若心経』を読まない人と違うというエリート意識を持つようになる。これが現代の仏教をやろうとする人達の問題点である。勿論我々も同じである。現代の如来というのは必ずしも阿弥陀如来だけではない。国宝であったり芸術品であったりする。仏像を芸術の対象として求めていくという場合もある。これらに陥りやすいのがエリート意識である。これを懈慢界という。
 私が考える仏、如来を対象として私が近づいていく世界を化土という。その世界にいる限り恩徳ということはわからない。
 真仏とは何か。「如来ありや」「あると思います」でなしに、「如来ありや」「如来生きてまします、南無阿弥陀仏」である。仏様は生きて私に働きかけていて下さいます、南無阿弥陀仏。これを真仏という。
 仮仏では実体化であり対象化であると申したが、その仏は小さく私が大きい。私が考えるという場合、私が主体である限り私の方が大きく相手が小さい。私が水を飲むという場合水の方が小さい。私に今必要なだけしか飲まないのである。あまり沢山飲んだら。パンクする。思いは無限だというか知れないが、我々の次元で考えるしかない。我々の次元は低い。仏の次元は高次元である。その仏が小さく私が大きい時、それを仮仏という。小さいものは働かない。
 大きな大きな世界を広大無辺という。仏は辺りない仏である。向こうが大きく私が小さい。従って私が照らされ私が思われている。仏には小さな私の認識、はからい、色々の思いを打ち破って私に迫ってくるカがある。これを無碍光という。無辺光である。そこに如来は生きているのである。それを真仏という。この仏は私の対象化を打ち砕いて、仏ましますと私をして言わしめずにはいられない。そういう世界が出てくることを、真仏との出遇いという。そこに御恩ということがある。無辺広大の御恩がある。あるとか無いとかいうのではない。どうしてもお礼を申さずにはおれない。私が小さくて向こうが大きい時に出てくるものが御恩であり、報恩である。
 そこで問題は仮仏、化土から真仏、真土への進展ということである。真仏土は諸智土といわれている。全ての諸仏の智慧の世界である。私を照す智慧の世界である。無量光明土である。照らす力を持ち照らす働きを持つ。これを真土といい、浄土という。
 弥陀の浄土ということで表わされるものは、私を照らす根源をいう。弥陀の浄土であり、南無阿弥陀仏の世界である。即ち阿弥仏陀がその主体であり、その働く世界である。その弥陀の働きは智慧であって私を照らして下さる。私が照らされて、照らされて、照らしきられるところに自己肯定の殻を破られる。浄土に否定の原理がある。私に問題があり、私自身を考えなければならないとわかるのを否定という。自己にかえっていくもと、私が私にたちかえる教のもとを如来の浄土という。そこにはよき師よき友、よき教がある。
(2)浄土は私の帰る故郷である。そこが私を、汝来たれと呼んでいて下さる根源である。
 私がこの頃読んだ本の中に『死の瞬間』という題名だったか、人が死ぬという瞬間にはどんな思いがするのかを調べた本があった。たいていの人はしっかりした意識を持って死ぬと書いてあった。周囲の色々な人は言う。「頑張れ頑張れ」と。しっかりしてという意味でしょう。まだ生きておれということでしょうが、死んでゆく人にこういうふうに言っていいものかどうか。人間は、死ぬ人に対して何と言っていいのかよくわからないのである。『ホスピス』という本があった。癌で亡くなっていく人のためのイギリスの施設。死ぬ間際の人達の苦しみをなくして、安らかに死んでゆけるような施設である。この本には宗教はちっとも出てこない。嘔吐や幻覚が出てくると注射などで除き、痛みがあればモルヒネなどで除く。そして行き届いた看護で死の苦しみをなくそうとする。しかしこういうことで人間は安らかに死ぬということになるのかと考えた。私は、病院でリンゲルを打たれながらあそこで死ぬのかと思うとうんざりする。私は家に帰って庭を見ながら死にたいと思いますね。でも家に帰れば家族は大迷惑であろう。痛い痛いとうなって、自分の家ではどうしようもない。それだからといって病院にいてもそんな様子ではどうにもならぬ。死ぬとは一体どういうことか、それをしっかり考えねばならない。安らかに死ぬとはどういう尊か。考えてみると安らかに死ぬ必要もない。真田増丸先生は腹膜炎で「痛い痛い」と言って死になさった。弟子達が心配して「先生、どうぞお念仏を」、先生は「そういうことはもう済んでおる、今は痛いんじゃ」と言って死になさった。これが本当だ。死の苦痛がどんなにひどかろうと、我々には帰る所がある。我我は行く世界を持っている。善導大師は「願入弥陀界」と言われた。
 『阿弥陀経』には「諸上善人倶会一処」とある。倶会一処とは、共に一つ所に会いあうのである。諸々の大善根を与えられた人達が共に同じ世界に会い遇う。倶会一処というのはいいですね。帰る世界を持っている。それはすでにきまっている。すでに与えられた。そこに如来広大の御恩がある。それが私を照らす根源であって、私は甚だおぼつかない者であるけれども、倶会一処の浄土が私を迎えてくれる。こういう根源を与えられ帰る故郷を与えられ、死んでも死なない世界を賜うた。人間の臨終が安らかであろうとなかろうと、そんなことに心を砕かずにすむ世界がある。
(3)私に賜う根源である。私によき師を、よき友を、よき教を賜う根源である。そういう世界を与えられた。
 これを真土といい無量光明土といい諸智土という。そこに如来広大の御恩というものを感ぜずにはおれない。それを、真仏真土の世界から出発して、相離れてしかも相離れることのない世界に出された。釈尊といえば三千年近い昔、龍樹、天親は二千年昔、親鸞といえば七百年昔のお方である。私共の先生も亡くなられて三十余年過ぎ、先般三十三回忌の法要を営んだ。ずい分時間のへだたりがあるが触れることがない。倶会一処である。死んでから先に一処になるのではない。今も一処である。そういう世界を頂いたということが、真仏真土に立つということである。そこにあるのは広大な御恩である。これが真、仮を知るということである。

 親鸞はも一つ言われた。「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず、かるが故に彼の仏恩を念報することなし」と化土巻にある。専修は専修念仏、専ら南無阿弥陀仏と念仏申しているのであるが、心根が雑心である。雑心は雑多な心、定散の自力心が入っている。定心は正しい心でなければということに執われ、散心は善い事をやらねばならぬというはからい、そういうものが入っている。それを雑心という。念仏は申しているがもう一つ心の中に執われがある。正しくなければならぬ善い事をしなければならぬという思いが残っている。これが専修にして雑心である。これも化土であるといわれている。

 以上をみると、本当に私に御恩がわかることは、いつも申すように釘が本当にハンマーの力を受けるということである。ハンマーの力が小さくしか届いていないと、自力のはからいは砕かれない。ハンマーの力が足りないのではない。釘の置かれている場が砂の上なのである。ハンマーは如来の説法、本願の教である。それでしっかり叩かれているけれども、砂の中にめり込んでしまって広大な教が小さくしか受けとれない。私の知性でしか受けとれない。砂は知性である。知性は、やればできるという私の深い自己肯定と、自己中心即ち仏教を聞いて私が立派な人になるための道具に依ってやろうとする功利心を持つ。その知性の砂の上で聞いている。それを雑心という。砂でなく金床でなくてはならぬ。金床ができるということが聞法であり求道である。金床とは私の現実である。本当に自己を知るということが根本である。

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