歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より

第四節


「如来の御恩といふことをば沙汰なくして、我も人も善悪といふことをのみ申しあへり」


一、人でない人(欠陥人間)

 欠陥とは、形は備わっているけれども、内容が欠けていてものの役に立たない。又はそれが危険性をもっているものをいう。欠陥自動車といえば、立派に自動車の形はしているけれど、大事な所にミスがあって、乗り廻しているととんだ故障が起きたり事故を引き起したりする。こういうのを欠陥車という。人間も同じである。大体外形は普通人のように見えるけれども、内面に大きな欠点があって人間として役に立たず却って危険である人を言っている。
 ゴールド・ファーブという心理学者は「人でない人」という言葉で言っている。(北畠道之『新しい母の本』(朝日新聞社刊))
 人でない人とは、自立できない人、社会性を持たない人をいう。ゴールド・ファーブは乳児院の卒院者の青年が院という境遇で育った為に、社会に出た時「人でない人」になる傾向が強いことを報告している。
 自立できない人とは先ず、
(1)感受性の欠如である。食事をしてもおいしいと言わず、きれいなものを見ても美しいと言わない。受けとめることができない。これを外側から見ると無表情、固い表情をしている。能面のような顔というのがあるが、顔が死んでいる。子供は一目顔を見ると、正常な発育をしているかどうかということはすぐわかる。子供らしい顔をしている。柔い顔で特に目が生きている。感受性が欠けていると無表情で無応答である。何を見聞しても無感動で応答がないというのは非常な欠陥であって、内面が閉鎖していることを表わしている。自分の中に閉じこもっていて、外側のものを受け入れない。こういうところには自己確立はない。
(2)感謝のなさ。有難うと言えない、よかったと言えない。自己中心で人の配慮がわからない。お礼を言えない。一枚の座布団、一杯のお茶でも、そこには目に見えぬ配慮があり、相手の優しさがこもっている。それを受けとめて有難うと言うことができない所に欠陥性がある。
(3)忍耐力のなさ。いわゆるこらえ性がない。駄々をこねるというか、強い自己主張をもつ。相手の立場を考えたり理解したりすることができず、衝動的に自分の思いを通そうとする。
(4)理解力のなさ。相手の気持ちを理解する、思いやることができない。又自分の置かれている立場を理解することができない。親に対する子の立場、団体の中の一員であるとかを考える力がない。洞察する力がない。
これらが自立できない内容である。こういうのは幼年時代に問題がある。こういうことが書かれている。考えねばならぬことである。
 自分が本当に独り立ちするということは、これらの反対である。ひとことで言うとナルシシズムの打破である。ギリシャ神話に出てくるナルシスは女神ビーナスの呪いを受けて自分しか愛せなくなった。泉のそばに立って名分の影を映し、それだけを見つめていた。そこから、深く自己の主観の中に閉じこもって外側のものが受け入れられない、自己陶酔をナルシシズムという。欠陥人間は結局ナルシシズムの人である。この人は又、社会性を持たない。
 人は単独で生きているのでなく、社会の中で生きている。具体的には家族の一員であり職場の一員であり、あるいは社会の一メンバーである。が、それがわからない。それは、
(1)硬姿勢。他の人とのつき合いが表面的である。心が通い合うとか深い所で結びついているとかいうことがなくて、すべて通り一遍である。
(2)攻撃的批判をする。相手のことについてぼろくそに言う。相手を責めるということになると、非常に根強いものを持っている。
(3)自分自身に対する反省のなさ。
(4)傷つきやすい。ちょっとしたことで傷ついて自己の穀に引きこもってしまう。閉鎖状態になってくる。
これらは協調性のなさと共に、他を愛する力を持たないためと言える。
このようにナルシシズムと社会性のなさを欠陥人間という。
 しかしながら、これは必ずしも乳児院で育った者だけに限るというものではなかろう。母親がいても教育を誤るとこうなるであろう。母親がいないからこうなったというものではない。現在の人間を考えてみると、ゴールド・ファーブが言う欠陥人間が私自身を含めて沢山いるのではないか。現代人の大半が欠陥人間ではないのか。
 「我も人も善し悪しということをのみ申しあえり」というのは、人の悪いことを色々とりあげて攻撃的批判にあけくれし、御恩などということば考えたこともない。それは現代に該当している。人はすべて欠陥的であるということが人間の持つ根本的なことであり、それを回復して人間になることが人間の課題である。下は家庭から上は社会まで人間造りは大切な根本問題である。
 子供の感受性のなさは、母だけでなく父も含めて親の態度に原因がある。一番大事なのは子供との触れ合いだという。触れ合いとは、先ず抱いてやること。顔をよく見てやる。子供の顔が能面のような時は注意を要する。子供らしい顔にしてやらねばならない。抱いてやる、優しくギュッと抱きしめてやるというようなことが必要である。
 ハーローという心理学者の実験では、猿にママ人形を与える。一つは針金で出来ていて、ゴヅゴツしているが、それを抱くとミルクが出るようになっている。も一つ柔らかいスポンジで出来ているが、抱いても乳は出ない。子猿は針金で出来たママ人形には見向きもしない。そして柔らかいスポンジの人形をいつも抱いているという。彼等がいかに柔らかなものに魁力を感じているかがわかるという実験がある。人間もそうかも知れんなと思う。抱いてやって触れ合いを持つ、にっこり笑って「お早う」と声をかける。すると子供らしい顔になって「お早う」と言う。応答ができる。閉じられた心が開いてくる。それは親が子に対する最も基本の姿勢である。親が「有難う」という言葉を教える。何かやった時に「有難う」と言う。感謝の言葉を教える。又忍耐力を養う。これは躾である。先ず大事なことは、自分のことは自分ですることと、人に迷惑をかけないことの二つが原則である。自分のことの一番初めは排便、次は着物の脱着。自分でパンツをはかせる。親は辛抱強く見ているがよい。時間がかかるから見ていてもどかしくなって親が手を出す。これはいかん。ボタンも自分ではめさす、靴を自分で脱がせ、はかせる。辛抱強く見ていて、自分のことは自分でやらせるようにする。人に迷惑をかけないというのは、ごみを捨てたり、置きっ放しにしたり、大声を出したり、人の話している所に割り込んできたりすることを戒める。これらも辛捧強くやらねばならぬ。理解力は語り合いである。向こうの言うのを聞いてやる。「ああそうか」「それでどうしたの」と聞いてやり、言わせて話し合って、だんだん理解力がつく。そして洞察力を持つようになるのである。質問、応答、説明を適当にやっていくと、子供の心が開けてくる。これは大事な幼児教育の内容である。最後に大切なものは仏法である。これはまた後に述べる。
 そこに理解力ができ感受性ができると、相手を理解し自分をひらいて接するようになり柔らかさが出てくる。ここにナルシシズムを超えた人間ができる。真の人間は優しさと柔らかさを持つ。尋ねられたことは考え、言われたことはすなおに聞くというものがある。これが柔軟さであって、やがて社会性につながり、広く友よと呼びかけるものを持つに至る。これが本当の人間である。人と人との間に本当の関連を持って生きていくことができるようになる。
 自立ができ社会性を持つ本当の人間になるにはどうしたらよいか。これは心理学の分野ではどうにもならない。これは教育の問題である。教育に二つの大切な対象がある。一つは小さな子供達。これをしっかり把握し、触れ合い、躾、話し合いを繰り返していかねばならぬということである。も一つは、既に欠陥人間になっている者への対処である。既に落ちこぼれ、既に欠陥人間であり、人でない人といわれる存在をどうするか。今更親が悪かったんだと言ってみてもどうすることもできない。欠陥人間を生んだ理由を説明するだけでは話にならない。この解決策について充分に答えなければならない。心理学の成果によって欠陥人間を生み出している現状はよくわかるけれども、落ちこぼれた人間に救済はないのかということになると、返答がない。
 しかし、教育に手おくれはない。も一つ打つ手がある。それが宗教の問題である。

 人でない人を仏法では、「女人と及び根欠と二乗の種」と言われている。女人とは女人性、女性的性格である。女性だけではない、男性も含まれる。女性的性格の根本は自己正当化である。私は間違いないという深い自己弁護、自己主張、責任転嫁につながる。このことは『観無量寿経』の韋提希という主人公をみるとよくわかる。
 なぜ韋提希が『観経』の主人公なのか。人生の悲劇から立ち上がって救われていく、それを教えたのが『観無量寿経』である。救われない者が三種類ある。提婆達多(ダイバダッタ)阿闍世(アジャセ)韋提希(イダイケ)の三人である。提婆は欲が深くて釈尊を殺しても仏教々団の指導者になろうとする。阿闍世は親殺しの大罪人である。親を殺して王位を奪う。父親に対する深い恨みが爆発してそういうことになる。も一人は韋提。これは女性で被害者側である。彼女には深い被害者意識がある。悪いことをしたのは前の二人、そのとばっちりを受けたのがこの女性である。しかし提婆と阿闍世は助かる。即ち提婆は『法華経』の提婆達多品や『阿含経』にも出てきて、助かっていく。阿闍世も助かる。『涅槃経』に出ている。助からないのが一人残る。韋提希が助からない。韋提が仏教を受けとめられない存在である。閉鎖的であり自己正当化である。「私は悪いことをしていない」という。提婆と阿闍世は「私は悪かった」と最後に言う。実際に悪いことをしたのだから。けれども韋提は悪いことをしていない。自分の方が迷惑を蒙っているのだという深い被害者意識がある。自己正当化がある。そして自己弁護、自己肯定である。あの人が悪いから私はこうなったのだという。この韋提が救われる道は『観無量寿経』よりほかにない。南無阿弥陀仏の本願に出遇っていくという以外に救われる道はない。
 人でない人即ち欠陥人間を仏法では女人性、根欠、二乗という。その第一は女人性である。私は何も悪いことをしていないという心が、硬い姿勢をとり攻撃的批判、感謝のなさにつながっている。これが人でない人の姿である。
 欠陥とは感受性のなさである。受けとめる力がない。根は目、耳、鼻、舌、身という五感。それが欠けている。欠けているから自己の主観に閉じこもって、外側が受けとれない。二乗とはエゴ、自分だけよければいいという利己主義。この三つを人でない人、浄土に往生できない人、本当に教を受けとめて救われていくことのできない人という。
 これらをひとことで言うと、未熟な人、未成熟の人ということになろう。これを「如来の御恩ということをば沙汰なくして我も人もよし悪しということをのみ申しあえり」と言われている。そこに救われない存在がある。人のよし悪しのみを言うところに攻撃的な姿勢の過剰、そして自分自身を顧みず自己肯定、自己正当化がある。これを自力の人という。御恩のわからない人とは感謝の心のない人である。他の人の心を受け取れない、感受性のなさ理解力のなさである。それが幼児性の人、自立していない人である。人の善悪だけを言う人は未成熟である。これらの代表として「如来の御恩ということをば沙汰なくして我も人も善し悪しということをのみ申しあえり」とある。仏教語で言えば自力の人、現代語で言えば人でない人ということになろう。『歎異抄』の著者自身はこの中に自分を入れている。私もまことに人でない人だと指摘されている。実に厳しい表現である。

 後序では真実の信心とは何かを言おうとしている。真実の信心とは深い自己へのめざめである。そこにこの忘恩の徒ということを出して、あの人がこうなんだ、あの子がこうなんだというのでなく、著者自身が自分もそうなんだと言っている。そこに唯円の深い信がにじみ出ている。「我も人もよし悪しということをのみ申しあえり、南無阿弥陀仏」であるこれが真実信心である。
 が、これだけではすまぬ。恩とは何か、恩はどうしたらわかるのか。又よし悪しを言う心の根底は何か、どうしたらそれを解決できるのかという事がわからなければならない。

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