歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第三節


二、機の深信を先に述べるのはなぜか

 二種一具というけれど、機の深信をさきに言うことが多い。ここでは「さればそくばくの業をもちける身(機の深信)にてありけるを助けんと思召したちける本願のかたぢけなさよ(法の深信)」とある。しかし第九章では、「他力の悲願は(法の深信)かくの如きのわれら(機の深信)がためなりけり」となっている。善導はいつも自分自身を先に言われている。『観経疏』(かんぎょうしょ)では機の深信の次に「二つには彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう」、弥陀の本願はこの私を受けとめて下さる。「疑いなく慮りなく彼の願力に乗ずれば定んで往生を得と信ず」と言ってある。法の深信が後になっている。善導大師はこれで一貫してある。

 信の妨げ、人間が小さな殻を破って大きな世界に出ていく妨げとなるものは何か。大いなるものの智慧真実、無為法身、南無阿弥陀仏が私に届くことが信の成立。その邪魔になるのは何か。それは我執と傲慢(ごうまん)と怠惰である。三木清の『人生論ノート』に、「個性について」という章がある。その最後の方に、「人間が自己を知る妨げになるのはこの三つである」と書いてある。非常にいいところを言ってあると思う。我執とは自己中心の執われ、自己への執われ。傲慢は高上がり。深い自己過信、自己肯定。そして本当につき進んでいこうという精進が足りない。怠惰である。
 繰り返しになるが、仏法の山を登って登って高い所に到達したいと我々は思う。それには関所が三つある。第一の関所の立て札は「継続一貫」と書いてある。あなたが深い世界、広い世界に出ようとするならば、先ず継続一貫、やめないで続なさいという。やっているけれどもなかなか進展せずマンネリ化する。そこで次には「いのちをかけよ」と書いてある。現代語で言うならば積極的聞法である。我々は何に命をかけているか、何を一番大事に考えているかというと、金である、幸福である。仏法を本当に極めることにあなたの金を殺げ出し、あなたの大事なものを捧げてゆけという強い積極性をもって進んでいくということが大事である。
 最後にある立札は「あなたにまごころはあるか」という立札である。一生懸命やってきた。そして今、まごころはあるかと問われる時、我々は千尋の谷底に落ちるほかないようになっている。「地獄は一定すみかぞかし」である。形だけは一生懸命やってきた。けれども本当は自己中心であって、私自身の名聞、利養のためである。自己中心であり、本当はまごころはなかった。転落するしかない。この転落が転回で為る。
 捨身飼虎という有名な話がある。たしか亀井勝一郎氏の著作の中にも物語風に紹介してあったと思う。法隆寺の玉虫厨子の壁面に刻まれている。もとは『金光明経』というお経の中にある物語である。
 三人の王子があって、その一番下の王子が虎を助けるという話である。一匹の大虎が息も絶え絶えに死にかけている。その傍らに七匹の仔虎がないている。母虎からはもう一滴の乳も出てこない。親が死ねば子も死ぬ。上の王子が言った。「あの虎が死んだら皮を取ろう」と。一番下の王子は言う。「あの虎を助けたい」と。上の二人は「あれを助けたら又人を食って皆に悪いことをする。助けちゃいかん」という。けれども一番下の王子は、自分の体を虎の口の所に持って行って食べさせようとする。しかし虎はもう食う元気もない。死ぬ間際である。そこで王子は自分の喉を突いてその血を呑ませる。すると虎は元気になって王子を食べてしまう。そして子供達にも食べさせて立ち去っていく。こういう物語である。
 私の所で学生の読書会をやった時、こんな虎をどうして助けるのだろうか、本当にこれが慈悲の心を表わしたものでしょうかなど話題になったが、結論が出ない。それで私は言った。「虎とは誰か、王子とは誰かということを考えなければいかん」。我々は王子側に立って虎を助けるべきか見捨てるべきかと考える。そうではない。私が虎なのだ。息も絶え絶えに死ぬばかりになっている虎なのだ。子供を七匹も連れているが、やがてこれを食べていくしかないのだ。この虎にわが血を捧げて救ってくれた人がある。それで私は助かった。が、その恩のある人を食ってしまった。「その虎が私」、これがわかったらこの物語は一遍に解決する。よき師よき友、そして親鸞聖人そして釈尊、そういう人に助けられておりながら、恩返しをするどころか、かえってその人をふみにじって生きている。これが私とわかったらこの物語は生きてくる。それがわからないのを怠惰という。
 お前は一生懸命にやったというが、本当にまごころはあったのか。この問いは自分が虎であることがわかると一遍に解決する。お粗末な者であったとわかる。ここまで来ないとこの立札が見えない。自分が何か熱心にやってきたような気になっている。それを怠惰という。そこに傲慢さがあり我執がある。自己中心に考えている。
 我執と傲慢と怠惰、このようなていたらくの私とわからなければ仏法はわからない。だから機の深信が先に出ている。自己の真の姿を教えているのである。
 前には蒲団蒸しまでしてこれをわからせようとした。しかし無理やりにわかるのではない。時機純熟である。
 時機純熟とは何か。釘にハンマーをふるっても下が砂であるとハンマーは届かない。砂が我執であり傲慢であり怠惰である。それがハンマーの力が釘に届かない理由である。金床の上でなくてはならぬ。では金床はどうしたらできるのか。金床はこしらえるのではない。蒲団で押しつけて上から「わかったか、わかったか」と言って無理にこしらえるのではない。借りてくるのでも押しつけるのでもない。聞法によって出来るのである。南無阿弥陀仏(法)によって金床ができる。故によって機が生まれる。音楽を聞く耳は生まれつきということも多少あるけれども、音楽を聞くことによって聞く耳ができるのである。良い本、悪い本を見分ける力は、沢山の本を読んでみてはじめて出来る。本が読書力をつける。古美術商がある。絵、刀、陶器等を見分ける力、鑑定力がある。それはどうしてできたかというと、幼い時から本物をいつも見てきたからである。法が機を生む。法が金床をつくる。それを時機純熟という。
 南無阿弥陀仏のまごころ、如なるものの智慧真実の教を聞いて聞いていくうちに金床ができる。まごころを至心、信楽、欲生といい、本願のお心という。三心と申す。如来のまごころ、如来の願い、如来の呼びかけが私に金床をつくり、つくると同時にガツンと南無阿弥陀仏がとどくのである。このため機の深信が先に出ている。法によって機(金床)はできるのであって、それには時機純熱が必要である。
 時機純熟によって先ずわかるのは、機の姿である。時機純熟ならば、聞いて聞いてさえいればいいのか。そうではない。頭を下げること。清沢満之氏の表現で言えば、「頭を上げることを得ざらしめられる」。つまり頭が下がるということ。頭が下がるということが成り立つには頭を下げるということ、これが必要である。
 昔は井戸水を手押しポンプで上げた。始めは迎え水を入れて押していると、最初は今入れた水が上がってくるが、遂に井戸の水が出てくるようになる。
 頭を下げることである。お粗末な私であると頭を下げること。更に頭を下げて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申すこと。これが大事なことである。そのうちに本当に頭が下がってくる。
 私は九州で会をやっている。ある熱心なお爺さんがいて、とうとう巌松会館まで話を聞きにこられた。そして言われた。「自分は何とかして信心の人になりたい。自分の子供は裁判官をしているが、子供達にも本当のことを伝えたい」と言われる。「それにはどうしたらいいでしょうか」と尋ねられる。「あなたは亡くなられた自分の奥さんに対して立派な夫であったと思われますか」、「いやそうは思わん、つまらぬ夫だったと思う」、「あなたは家に帰って奥さんの位牌の前で頭を下げて、私が悪かったと一遍あやまってみなさい」と言った。それからその人は「本当に如来の御恩がわかった」と喜びなさるようになった。それが時機純熟で、丁度いい時だったと思う。
 時機純熟というのは、柿が熟れるのを待っているというようなものでない。やはり頭を下げて念仏して、いよいよ聞いていくということが大事である。そこに必ず信の妨げとなるものが明らかになってきて、邪見、憍慢の自己に頭を下げざるを得なくなる。これが求道の上の一つの大事なことである。

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