歎異抄講読(後序について) 細川巌講述 より
第三節


「善導の『自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた常に没み流転して、出離の縁あることなし』という金言に少しもたがわせおわしまさず」。

 「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」
 これは善導のことばである。善導が亡くなられて千三百年経った。西歴六八三年に没した中国の唐の始めの人である。この人が、『観経疏』の中にここの言葉を書いている。「決定して深く、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた常に没み常に流転して、出離の縁あることなしと信ず」というのが原文である。
 先ず常没は、『涅槃経』(ねはんぎょう)三十二巻に次のようにいわれている。
 「身を修せず戒を修めず心を修せず慧を修せず、かくの如きの四事を修習すること能わずば、五逆の重罪をつくり善根を断ず。これを名づけて常没となす」
 『涅槃経』は中国でよく読まれた経典で、かなり大部のものであるが、今日読んでも内容の豊かなお経である。親鸞聖人も『教行信証』の中に『涅槃経』から沢山引かれている。この経の中にこんな処が出ている。
 色々な人があって岸から川に飛び込んだ。最初の人は飛び込んだきりで遂に水面に出てこなかった。沈んだきりでそのまま一度も顔を出さない。これを常没という。色々な人の中で一番程度の悪いのを常没という。川は人生を意味ずる。人生という大きな流れの中でいつもその底に沈んでしまっている者、もはや浮び上がって向こう岸に泳いでいくことの全然出来ない者を常没という。
 四つのことを修習しない。わが身を省みて少しでもよくしようという努力をしない。従って人のことばかり文句を言うけれど、わが身のことは省みようとしない。破戒、してはならないことを平気でやり、為すべき事をしない。心、自分の心を修めて立派にしようという考えがない。そこには自己主張だけがある。慧、少しでも深い智慧をもってものを深く見ていこうと努めない。智慧を修めようとしない。要するに善について何もしない。これらの四つの事をしないと直ちにそれは、五逆の重罪をつくるということにつながっている。五逆とは反逆である。逆らう、反撥する、背を向ける。父、母、師、友、如来の五つに対する反逆が忽ちに起るのである。私に最も近い関係にある人達、即ち私を育ててくれた親、導いてくれたよき師よき友に反撥し、私の根源である如来に対して深い反逆を犯し、善い事をやろうという根が断たれている。これを梵語では闡提という。これを常没というのである。
 善導は『観経疏』の中で深い信心について語った。自身は今、現に、罪を犯し悪を犯して生老病死の苦しみを重ねているお粗末な者である。長い長い過去から現在までこのかた、さきのような四事を実行する力もなく、それ故に反逆又反逆の歴史を重ねてきて、何もよい事をしなかった。これ闡提でありこれ常没で助かる手がかりのない私という。これを出離の縁あることなしという。非常に深い自己への懺悔が述べられている真次に常流転とは、流は押し流される、転は転展で、くり返しくり返しひっくりかえされることをいう。この川の中に飛び込んで人生にふり廻されている。丁度尺取虫が茶碗の縁をまわるように、一生懸命やっているけれども、同じことのくり返しである。これを常流転という。押し流されふり廻されて、くり返しを重ねているだけである。
 出離とは、出は超出、離は捨離。この迷いの状態を超えて離れるということができない。我々はどんぐりみたいなもので、生まれながらにして殻の中に入っている。そのどんぐりが風に吹かれ水に流されてころころしている。これを流という。押し流され、迷いをくり返している状態を超え離れることができない。捨て去ることができない。
 それでは超え離れるとは何か。どんぐりがどこかに行くことではない。何かに助けて貰うことでもない。出離するとは、どんぐりが光と水とを吸収して発芽し、一本の苗木となって伸びていく方向を持ち、根をおろす方向を持つことである。お浄土へ行くことでもなく天国に召されていくことでもない。穀を破って大きな世界に出て燦々と輝く太陽を仰ぎ、本当に私の大地を持つというところに出離ということがある。しかしながら今は、押し流されふり廻されて空しいくり返しをするばかりで、発芽して大きな世界に出るという手がかりが全くないのであります、という。後序には「……と知れ」とあるが、原文には「……と信ず」となっている。
 今、文章の説明をしたわけであるが、次にその意味を申さねばならない。
 この文章がどういうふうに引かれているかというと、「今また案ずるに……」である。「御述懐そうらいしことを」今また案ずるのである。何を御述懐されたかというと、「聖人のつねの仰せには……さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と御述懐された。それを「今また案ずるに」という続きになっている。

一、二種一具

(1)二種深信
 二種一具とはややこしい言葉であるが、二つのものが一つに備わっているということである。
 機の深信と法の深信の二つ、これを二種深信という。二つの深信が一つ信心の中に具っている。このことをはっきりと知っておく必要があろう。
 『歎異抄』には誰でもが読んでわかるという一面がある。従って色々な人が『歎異抄』を解釈していて、解釈書は明治以来から言えば百冊以上あるという。この『歎異抄』を頂く上で、非常に大事なことがある。一つは、背景に『教行信証』をしっかり見定めて『歎異抄』を頂くこと。『歎異抄』は親鸞聖人が書かれたのではない。唯円というお弟子が書かれたのである。親鸞聖人がいつも身近な人に語っておられた物語を、お側で聞いた人が書いたものである。従って、いわば帯ひも解いてざっくばらんに、お茶でもすすりながら言われた言葉である。それ故一面からいえば非常に生々とした言葉が出ている。けれども同時に組織的なところはなく、論理的な構成で言いたいことを欠目なく言いなさったのではない。日頃言われていたことを書いたのであるから、そのつながりは必ずしもはっきりしない。それ故親鸞聖人の主論文である『教行信証』をしっかり読んでおかないと、この『歎異抄』が断片的な、いわゆる片言隻句の累積に了る。又感情的な受取りで終る惧れがある。もーつ大切な事は、全体をよく把返することである。一章から十八章まで、そして前序と後序と、その全体をよく見ておくことである。これがないとやはり一面的な解釈に終って、全体を通して著者が言おうとしている事を把握できないであろう。
 聖人が信心と言われる時には必ず二種深信を言われている。二種深信が本当の信心である。このことを誤ってはならない。
 二つの深い信、その一つが機の深信、それが善導のこの言葉である。即ち自身への信、自己自身へのめざめである。もーつ、法の深信、これは本願へのめざめ。本願とは私にかけられている大きなものの働きかけである。それに目がさめて本当に本願の御慈悲がわかることが法の深信である。機の深信は懺悔であり法の深信は感謝である。懺悔と感謝が信心であり、これを二種深信という。この二つ、横の深信と法の深信が、一つ信心の中に備わっている。バラバラでない。一つ信心を一方から見れば機の深信、他方から見れば法の深信。一つ信心の片面が懺悔、片面が感謝、これを二種一具という。
 こう言うと、「あ、そうですか。それでは本当の信心は感謝と懺悔ですね。片方で感謝をやって片方で懺悔をやって、それを合わせれば信心ですか」という。それは違う。合わせれば一つだが、あなたのは二つの間を糊かテープで貼っている。もとが二つである。そうではない。始めから一つである。一つに二つを具している。備わっているのである。
 機の深信だけでは真実信心ではない。私がお粗末な人間だというだけでは本当の信心ではない。それは一種の自己卑下、劣等感にとどまって、こういう私ではどうしようもないというようなあきらめ、あるいは居座りであることが多い。「他力の悲願はかくり如きりわれらがためなりけり」というのでなければならぬ。「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと恩召したちける本願のかたじけなさよ」である。「そくばくの業をもちける身」が機。「助けんと恩召したちける本願のかたじけなさ」が法の深信。機法二つ、二種一具の深信である。これを真実信心という。
 第九章では「他力の悲願は」(法の深信)「かくの如きのわれらがためなりけり」(機の深信)と言ってある。機がわかっただけで「有難うございます、南無阿弥陀仏」にならないのは本当の深信でない。機の現実がそのまま南無阿弥陀仏である。それを真実信心という。南無阿弥陀仏というところに法の深信がある。これを現実が念仏になるという。現実がわかることが機の深信即ち懺悔(さんげ)であり、南無阿弥陀仏というところに感謝がある。法の深信がある。二種一具である。

 後序は『歎異抄』の結論であって、親鸞聖人の本当の信心を明らかにしようとしている所である。そこに善導の言葉があげられている。これは機の深信をあらわすもので、法の深信は出ていない。けれども機の深信に法の深信が入っている。それで今は省略されているのである。

 現代ではあまり聞かないが、昔は信心の水際を洗うといって一念発起ということを大事にし、深い目覚めを得させようとして色々の折檻をした。これを「機を責める」と言う。「お前は本当に悪いではないか」、「親に対しては不孝、実際にやっていることは間違いだらけではないか」「それを本当に知らなければいかん」といって皆で責める。そういうことがあった。が、今は親鸞聖人の言われる信心を得ようなどと思いもしない者が多くなって、「何か信ずればいいのでしょう」などと言って、本当の信心を追求する人がいなくなった。昔は、頭を下げて仏様の前にお詫びをしなければならぬと厳しく責めつけて、「私が悪うございました」と言わないと帰してくれないというところがかなりあった。
 或る所では夜中に一人だけ呼び出し、真暗くしてローソク一本だけ点し、先生が「お前は悪いではないか」と厳しく責める。とうとう「私が悪うございました」と頭を下げると、「あ~よかった、これで信心ができた」と言う。これを、そういう目にあった人から聞いたことがある。他のグループでは先達が何人もいて詰問されることもある。まだひどいのは蒲団を次々にかぶせてその上に乗る。苦しくて押しつぶれそうになって「悪かった」と言う。「わかったか、これでよし」という。このような演出もあった。これらは考え方が違っている。とにかく「私が悪かった」と懺悔すれば信心だと思う。これは違う。
 二種一具である。機を責めると気の弱い人はど私が悪かったという罪悪感が生まれる。それを助けて下さる仏様と、それに法の深信をくっつける。くっつけて一つにする。これでは本当のものではない。罪悪感と本願を合わせても本当の信心にならない。南無阿弥陀仏にならない。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」、これは第九章であり、後序では、「そくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと息召したちける本願のかたじけなさよ」である。二つあるように見えるがそうでない。一つである。
 善導のこの文は、法の深信の部分が省略され、機の深信の中にこめられている。二種一具ということをはっきり知っておかなくてはならない。

(2) 二種一具である理由
 なぜ二種一具であるのか、なぜ機の深信と法の深信を合わせたのではいけないのか。これをはっきりしたい。
 卵がある。固い殻をもっている。中に黄味と白味があってドロンとしている。この殻は自己中心であり自己正当化であり責任転化である。昨日もそうであり今日もそうであって今もそれでよいと思っている。私は正しいのだと自分を肯定して、自分が間違っているなど考えたこともない。これを自己中心という。
 仏教とは何かというと、このような殻を破って本当の人間形成を遂げていく。それにはどうしたらよいのか。直ちにこの殻を破ろうとしてはならない。直ちに殻を被れば卵は死んでしまう。殻を破るとは卵がひよこになることである。親鶏が卵を抱く、だんだんと目玉ができ嘴がつき足が生えて毛並みも揃って、卵からひよこにかえっていく時に殻は破れる。殻を破るのではない、穀が破れるのである。自分が育っていくことによって殻が破れるのである。そこに必要なのはたった一つ、親鳥の熱である。
 私の上に何が与えられるか。それは大きな大きな世界からの働きかけである。如より来たる、これを如来という。如は一如、法界。その大いなるものを真実、まことなるもの、真の智慧、真実智慧、無為法身という。一言で言えば如である。涅槃という。涅槃の世界から私の小さな小さな存在に対して深い深い働きかけが出てくる。その婆を南無阿弥陀仏という。それを無為法身に対して方便法身と申す。
 方便法身、方便とはウパーヤ、到達をいう。彼が私に近よってくる姿を方便という。睦も方便というのとは違う。如なるものの具体化、彼来って私に働きかけてくる姿を方便法身という。それを南無阿弥陀仏という。これを本願の仏という。南無阿弥陀仏に智慧、真実がこもっている。一如真実智慧が私に働きかける働きかけが南無阿弥陀仏である。丁度親鳥の熱が卵に届くように、それが私に届く。届いたところに生まれるものを信というのである。従って信の本質は智慧真実である。信心とは如来のまことの心、その智慧真実が私において私の心を深く見る。
 南無阿弥陀仏が私に届いてその智が私の現実を知る。これを機の深信という。それは同時に必ず如来を知る。これを慧という。これを明らかにされたのは曇鸞大師で、論註の中に出ている。親鸞望人はそれを詳しくそのまま『教行信証』、証巻に引かれている。智慧の智は「備に衆機を省りみる」、私の現実というものを本当に見通す。「慧は般若に達する」という。大きな世界にかえっていく。智慧が生まれて一方において私を知ると共に、一方において如来を知るのであって、前者を機の深信、後者を法の深信という。これが信の内容である。
 信の内容にはこの二つが必ず備わっている。離れないのである。如来の智慧が私に生まれて、信という。丁度卵に親鶏の熱が加わって目玉ができ(くちばし)ができていくように、人間における如来の智慧の成立が人間形成である。信心の智慧は必ず二つのものを発見する。従って機の深信と法の深信は離れない。深い自己へのめざめが懺悔であり、そこには深い深い感謝を(はら)んでいる。機の深信のところに法の深信がある。これを二種一具という。
 他力の信とは、私が信ずるというのではない。この信は私の上に生まれるものでありながら、私が信じたぞという主観的なものにならないで、必ず自己自身へのめざめとなり深い感謝になる。如来の智慧真実の成立なればこそ二種一具である。
 先にもいうように善導の言葉はこの章には機の深信しか出てないけれども、法の深信を孕んでいる。
 真実信心には一つをあげても必ず他の一つがこもっている。「松影の黒きは月の光かな」であって、松影が黒々と見えているということが月が晴々と照っているということである。本当の信心は一つあげても二つである。「お粗末な私である、南無阿弥陀仏」という所に、機の深信と法の深信が備わっている。

第二節に戻る/メニューに還る/二、機の深信を先に述べるのはなぜかに進む