歎異抄講読(後序について)細川巌講述 より
第二節

四、懺悔(さんげ)と後悔

 「そくばくの業をもちける身」というところで考えねばならぬことは、懺悔と後悔との違いであろう。我々は名聞、利養、勝他であり、貧欲であり、全く頭の上がらない自分である。が、何とかそこから立ち上がらねばならぬと思ったり、又どうしょうもないとあきらめたりする。「さればそくばくの業をもちける身」といわれるのは、それを後悔されているのか、改めたいと言われるのかどうか。
 後悔とは後で悔むこと。しまったと思うことである。「()せしを(にく)む」という。どうしてああいうことをしたのかと、後で(くや)むのを後悔という。そこには責任転嫁と愚痴がある。あの時あの人がこうしたからこうなったというのが責任転嫁、あれさえなければこうはならなかったというのが愚痴である。責任転嫁という所に必ず人を責める。又俺が馬鹿だったと己れを責める。それが後悔である。後悔は何遍やって何にもならず、自分が傷つくばかりである。
 懺悔は後悔とは違う。サンゲと読む。懺は漢字に無かった字で、サンスクリット(仏教語)でサンマという。これに該当する言葉が中国語になかった。だからこういう字をわざわざ作ってサンと読ませたと聞いている。
 なぜ中国にサンゲという言葉がなかったかというと、サンゲとは如来の前に自分の悪を投げ出し、お詫びをすることをいう。中国には如来がなかったから懺を訳しようがなかった。サンスクリットのままで訳さなかった。仏教がわからないと懺悔はわからない。後悔は仏教語ではない。後から悔むことで普通に使う言葉である。悔むのには如来も何もいらぬ。わが胸をかきむしって、どうしてこうなったのかと言って悩んでいる。
 懺悔とは如来の前に自己の悪を告白してあやまり入ることである。懺悔は必ず仏前でなされる。如来の前なる自己においてである。如来の前において懺悔がある。「如来の前に」というところに法の深信がある。如来に対するめざめがある。法に照らされて如来にぬかずいて、私を願って下さる本願のかたじけなさを頂き、照らされてお詫びをするのである。私が深く自己にめざめるということが懺悔であって、故に照らされなければできない。法の深信と機の深信とは離れない。如来を前にしてでなければ懺悔はない。「さればそくばくの業をもちける身」というのは、私が悔んでいるのでなく、愚痴を言っているのでもない。どうしょうかと悩んでいるのでもない。如来の前に私を投げ出して、お粗末な私である、まことに仏弟子でありながら仏弟子でない、教を蒙っておりながらこういうていらくの自己と、自己の全体を投げ出して懺悔することを磯の深信という。それを「親鸞一人」という。「親鸞一人がためなりけり」は、お粗末な私という懺悔である。
 我々は、始めどうしても懺悔ができない。始めは後悔である。後悔がだんだん昂じると居直りになる。お粗末なことをするのがあたりまえという自己肯定になる。あるいは、誰でもそうだということで終ってしまって、それ全体が自己主張になる。又自己正当化であり自己弁護である。これが後悔の最後の相である。だから人がぐずぐず悩んでいる時、人は慰める。「まあ仕方がないじゃないか、誰でもそうなんだ、あきらめよ」という。そういう慰め方しかできない。本当はどう言ったらよいか。「君はそれを仏様の前であやまるしかない」というのが徹底した答である。それが一番本当である。
 懺悔は仏の前に自己の悪をさらけ出してあやまり入る。そして信受する。その自己を受けとめるのである。「こういうていらくの私、南無阿弥陀仏」と受けとめる。居直っているのでなく、自己を主張しているのでもなく、あきらめているのでもなしに、自己を背負っていくのである。それを「地獄は一定すみかぞかし」という。「地獄は一定すみかぞかし、南無阿弥陀仏」、これが自己を背負った信受の相である。
 懺悔はこのように必ず念仏になる。念仏になるというところに南無阿弥陀仏の中に包まれている。「助けんと思し召したちける本願のかたじけなさ」という感謝がある。念仏になるところは法の深信、如来の大悲への感謝である。懺悔は必ず感謝と共にある。
 機の深信は法の深信を離れない。懺悔は深いめざめであって機の深信であり、法の深信と一緒である。
 懺悔と後悔は違う。懺悔は仏法の事実であり仏前の行である。そして必ず信受である。あきらめでなく自己主張でなく、必ず「南無阿弥陀仏」である。懺悔は信心である。如来の教を聞き開いた所に生まれるものであって、懺悔に如来大悲への感謝が含まれている。これが大事なところである。
 「さればそくばくの業をもちける身」は機の深信であり、「たすけんと思し召したちける本願の恭けなさ」は法の深信である。機の深信即ち懺悔は自己へのめざめであり、「(かたじ)けなさよ」は法の深信、如来への感謝である。順番から言うと懺悔の方をいつも先に書いてある。時々逆になることもあるのではないかと思うが、そうではない。「さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」である。しかしこの章では「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれはひとえに親鸞一人がためなりけり」と出ている。が、善導大師の二種深信を見ていると、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫」が先で、「かの弥陀の四十八願は衆生を摂受したもう」というのが後になっている。大体それが普通である。
 あと先があるのか。実はこれは後も先もない。それを二種一具という。同時である。懺悔と感謝、二つが信心一つに備わる。本当に目がさめたというところに、二つ共に備わっている。同時である。南無阿弥陀仏の中に感謝と懺悔が備わっている。同時とは、スイッチを押した、電灯がついたというように、押すと同時に電流が流れるのである。スイッチを押すのと電流が流れるのは同時だけれど、どちらが先かといえばスイッチを押す方が先である。同時であるけれども次第からいえば、法が届いて私の本当の姿を照らして下さる。その時見えてくるのは私の機である。私においては私が見えるというのが先であるが、道理から言えば法が届いて下さって私が見えるのである。
 信心というものにはいつも二つが備わっている。懺悔と感謝は離れない。これが二種一具である。順番はどうか。スイッチが入る、法が届く、これが先。本願が届いて私がわかる。本願が届いて私の中に信が生まれ、私を照らすのである。それが機の深信である。即ち法がとどいて機の深信となる。本願が私に届いて私の中に信心が生まれる。この心が同時に機の自覚である。そこで、二種一具、同時であるが、法が届くのが先である。如来のお働きが先で、それが届いて私の自覚になる。
 私から言うと私の方が先にわかる。私のお粗末さがわかる。だから機の深信の方を先に書いてある。「松影の黒きは月の光かな」。黒々と松影が見えてくるところに月の光がさしている事実がある。本願が届いて下さるというのは私のお粗末さがわかって、「お粗末な私南無阿弥陀仏」となってくるところに、法が届いているのである。
 信心とは何かを信ずることだと思うがそうではない。本願を信ずる、十八願を信ずる、あるいは如来のお慈悲を信ずるのが信心だと思うがそうではない。如来の本願が届いて私がわかることが信である。月の光を信ずるのではない。黒々とした松影が見えてくることが、月の光が照らしているという事実である。そこが大事。法が機の深信になる。本当の信心は私がわかることにある。
 本願を信ずるのではない。弥陀のお慈悲を信ずるのではない。私がわかるということが大事なのである。「さればそくばくの業をもちける身、南無阿弥陀仏」ということが大事である。それが本願が成就した姿である。懺悔の中に感謝がはらまれ、機の深信の言葉でありながら法の深信がこもっている。

 信とは信知であり信受であり信順である。前にも繰り返し申したことであるが、信知は本当にわかること、信受は受けとめるということ、信順は従うということである。如来によって自己が本当にわかる。そしてわかった自己が、これではいけないのではなく、南無阿弥陀仏と受けとめられていく。これが信受。そして信順はよき師よき友の仰せに従うことである。
 信知、信受、信順の三つは信心の内容であって、どれが先ということではないけれど、強いて順番をつければ始めは信順であろう。それは教の通りに本当に従っていく。二尊の教に従ってゆく。汝この道を行けと教えられたことに従って行くというのが最初であろう。そして本当にわかるのであり、本当に受けとめることになると思う。一つのものに順番をつけるのはおかしいけれど、強いて言えばそういうことになろう。
 「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」。そこに「さればそくばくの業をもちける身」と信知し、「助けんと思し召したちける本願のかたじけなさ」とすべてを信受して、お粗末な私が南無阿弥陀仏になってゆく。そういう相がよく出ている。ずっと前から言うと、法然上人の教に順っていかれたというところに信順があり、信知、信受になっているということができよう。

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