歎異抄講読(後序について)細川巌講述 より
第二節


「聖人のつねの仰には、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思召(おぼしめ)したちける本願のかたじけなさよ』と御述懐さふらひし」。

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業を持ちける身にてありけるを……」とある。私は「そくばくの業を持ちける身」である。そくばくは無量、業は悪業。悪業とは罪造り、失敗。これを一生造悪という。又、業は長い長い粗末な過去である。お前にまごころがあるかという立札の前に立った時に、まごころをもってやってきたつもりであったけれども、実際はそうでなかった。あるのはそくばくの業が見出されてくるばかりである。長い間の罪造り、お粗末な過去が見えてくるのである。若い間は自分の罪造りとか失敗とかはあまりわからない。私もわかりませんでした。だんだん年をとり五十を過ぎ六十になると、自分の過去をふりかえった時、あれも失敗これも失敗、一時的な感情に動かされ、判断を誤り、筋道を失っておったなあということを幾つも幾つも思い出す。しかしそれが「しもうた、あの時ああしなければよかったのに……」とならないで、「申し訳ないことであった、南無阿弥陀仏」となる。業は必ず「申し訳ないことである、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と懺悔される。念仏になる。一生造悪という教を聞くと、「まことにその通りであるなあ、南無阿弥陀仏」となる。大分高い所に登っていた者が、「お粗末なお粗末なことの積み重ねであった」と落ちていく。これを機の深信という。まごころは如来にある。「君にまごころありや」と問われる時、私は深い自己にめざめていく。これを深信といい、信の成立という。それは始めに申すように、私に如来のまごころが届いたからである。成立したからである。同時に、如来のまごころを仰がずにはいられない。「有難うとざいます、南無阿弥陀仏」であるそれが「弥陀の五劫思惟の願をよくよく集ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」。深い信をあらわす言葉である。
 求道の果てに遂に如来のまごころに目がさめて、深い深い自覚の底において語られる言葉、「親鸞一人がためになりけり」を、深信という。弥陀五劫思惟の願を感謝し、深く自己自身を懺悔しての言葉である。感謝と懺悔の共なる言葉である。
 西田幾多郎氏は、これを「絶対否定の底面における直観の声」と表現されたという。絶対否定とは、私の全体が一生造悪と懺悔されること。「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞の言葉が、このような哲学的な言葉で言われる。登りつめてきた者が最後の段階において、本当に自分の姿を知らされた。私の部分を知らされたのではない、私の全体を知らされた。深い谷底において仰ぎみる天地を待ったその声を、「親鸞一人がため」という。

一、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずる」

 五劫思惟とは、『大経』に五劫の間考えぬかれた法蔵菩薩の行が出ていて、五劫思惟の本願、兆載永劫の修行という。
 「よくよく案ずる」とは、人間の上に深い思惟が成り立つことをいう。御本典には、「ひそかにおもんみれば」とか、「謹んで案ずるに」とかある。いずれも「よくよく案ずる」であろう。

 (1) 人間の思惟
 人間の考えというのは頭で考える。知性で考える。弥陀の本願とはどういうものかを本で読み、人の話を聞いて考える。その場合の考えは、分断して考える。弥陀とは何か、五劫とは何か、思惟とは何か、願とは何か。これを集めて弥陀の五劫思惟の願を理解する。それは誰のためになされたのであるか、どういう内容を持っているか。こういうふうに我々は小さく区切って考えていく。そしてそれをまとめて全体の様子がわかる。即ち全体を原因と経過と結末にまとめてみれば、大体のことがわかる。も一つは対象化、向こう側に置いて考える。感情を交えずに冷静に考える。客観的に見る。これが知性的考え方である。現代は教育の上でもこの考え方を勧めていて、これを科学的な考え方とか知的方法とか言う。
 我々はこのように考えるほかないが、この考え方には問題がある。物を分断して考え、それをまとめた時に、本当にそれ全体がわかるかどうか。例えば私の所に鶏がいる。この鶏に毎朝畑の野菜の葉っぱをやる。鶏は緑色野菜が非常に好きで大根葉が殊に好き。また、不断草とかほうれん草、キャベツの外側の葉も好む。大きな葉をやると彼等は決してそのままでは食べないで、つついて小さく引きちぎって食べる。彼等の喉を通るように小さくして食べる。その引きちぎったものを全部合わせると元の葉になると考えるが、そうはいかない。必ず残しているところがあって」自分に必要なところだけしか食べない。白い所とか真中の茎の所は残っている。彼が食べたのは全体ではない。このように我々も理解のできるところだけを理解しているわけであって、全体を理解しているのではない。引きちぎると全体のある部分だけをとるわけで、それを集めてみても全体とならない。
 こんな話もある。眼の見えない人達が象を見に行った。その人達がそれぞれ象の鼻、牙、尻尾、足を掴んで帰って来て言う。象とは葉っぱのようだった、いや細い縄のようだった、つるつるしたものだった、柱のようなものだったという。それらを皆集めてみるけれども何のことやらわからない。そのように、引きちぎって考えてみても、それが本当のものになるのかどうか問題である。私は化学の教師をしておった。有名な実験にブラックボックスというのがある。真黒い箱の中に何かが入っている。振ってみるとコロコロと善がする。傾けたり転がしたりしてあれこれ考えてみるが中の物はなかなかわからない。チョークなのか石なのか、木片かわからない。色までは勿論わからない。すべて未知のものを知性で知ろうとするのは、ブラックボックスに入っているものを当てるようなものである。
 対象化というのは向こう側に置いて考える。母が子の死を傷んで涙を流している。この母の涙は何かということになると、今一滴落ちた、あの体積は何ccで化学分析すると成分は水分が九十何%、塩分は一%……ということになる。この場合涙は物質となっている。物質化して見ているのである。その中にこもる母親の悲しい思い、無量の感慨というものは、測りようもないし知りようもない。対象化すると涙は物となり、異質な物質になってしまう。
 弥陀の五劫思惟の願を人間の思惟でどれだけ集めてみても本当の願はわからない。本願というものがあって四十八から成っていて、その十八番目に中心があるそうな、などということになってしまう。科学的、知性的なものの考え方ではわからない。
 わからなければそれを鵜呑みにして認めていくしかないのかというと、そうではない。弥陀の五劫思惟の願はわかるのである。よくよく某ずるということができるのである。深い感銘があり深い感動があるのである。それは信じているからではない。人間の信は狂信か盲信にとどまる。親鸞はそんな人ではない。本願がわかる道がある。それが「よくよく案ずる」ということである。

 (2) そのものに成る
 物を理解する道が一つある。それは、そのものになるということである。そのものになった時本当に理解することができる。今、母親の涙がある。その一滴の体積も温度も化学的成分も知らなくても、母親の身になってみるならば、その涙の意味がわかる。砂糖を知るとは、砂糖をなめてみて砂糖と一体となったらそれを知ることができる。そういう知り方を体解という。知性的に理解するのを知解というならば体で理解するのを体解という。これを「そのものに成る」という。親の気持ちというのは若い間はわからない。親を向こうにおいて考え、ちぎって考えるからである。それでは知解としてしかわからない。しかし自分が親になってみて初めて、親が自分のことをどういうふうに思ってくれていたのかということがわかる。知性で考えるのではない、体得である。私は自分の子を亡くした経験がないから、子を亡くした親の気持ちは痛切にはわからない。病気をしたことのない人には病人の気持ちはわからないだろう。自分が病気をしてみると廊下を歩く音、ドアを閉める音がどれ程響くものか、又どれ程いらだたしい気持ちになるものかがわかる。相手の立場に立てば慰めの言葉も切実なものとなる。要するに、そのものになるということが大切である。
 一般的に申して、「私が〇〇を考える」ときは、「私」が主語で「〇〇を考える」が述語である。主語が大きく、述語が小さい。「私が如来を考える」というとき、私が大きくて如来が小さい。「私が水を飲む」というときには、私の方が水より大きい。人間が思惟するとき、その相手は人間より小さい。
 しかしながら、相手が大きいことがある。例えば海の水はどえらい大きさである。この時は私は主語になり得ない。「われ海をのむ」でなくて、「海われをのむ」となる。小さいものが大きなものを考える時には、その喉もとを通るぐらいの大きさに引きちぎって考えるしかない。知性で考える限り分断が起ってくる。そして矯小化された別のものになってしまう。
 体解とは、小さな自己を小さいと知り、大きなものを大きなものと知って、大海を感じ取って海と一体になる。その時に海がわかるのである。彼と我とが一体になった時に本当の理解ができる。それが、「よくよく案ずる」という問題である。

 蓮如上人に或る人が言われた。「私は聞法の席ではいつも有難く思うのでありますが、籠に水を入れたように、家に帰った時にはからっぽになるのでございます」と。それを聞いて上人は、「その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」であると仰せられた。(『蓮如上人御一代記聞書』)

 仏法とは弥陀の本願である。弥陀の本願を聞いて南無阿弥陀仏と心に入れて、日常生活の中に念仏が生きてくるようにしたいと考える。心が籠。私の心は籠のように穴があいているから、いくら仏法を聞いてもザアザア出ていって一つも残らない。何遍聞いても役には立たぬ、とある人が言われた。「蓮如上人仰せられ候。『その籠を水につけよ』」。籠に水を入れるとは、私の心が大きくて仏法が小さい。これは対象化、分断化という知性での受けとめを言っている。私が大きく仏法が小さい。だからすぐ無くなってしまい、次々と補給しなければならない。遂にはもうやめということになる。そうではない。心の籠を水につけよ。仏法が大きいのだ。大きな大きな仏法のお心の中に小さな小さなわが心をつける。つけるというのは非常にいい所を言ってある。大きな中に私が入っていく。入る者は必ず頭を下げて入っていく。主客転換である。今まで私の方が大きいと思っていた。が、相手が大きな大きな存在。私を包み私を念じているのである、私が願われているのである、主客転換されるところに宗教がある。そこに、大きなものがわかり、よくよく秦ずるということができるようになる。そのものになるとは、頭を下げて仏法の水につかることと蓮如上人は言われた。弥陀の本願をよくよく案ずるということはなかなか難しい。何か一生懸命考えることのように思うが、いくら考えても人間の思いではつまらぬ。小さいもの、次元の低いものが、大きいもの、高次元のものを考えようとしても考えようがない真たった一つの方法は、その大きなものに私がなる、大きなものに私が生かされていく、大きなものに私が取り入れられていく。我々が凡夫から仏となった時にはじめて仏の心がわかる。弥陀の本願の中に本当に生きた時に弥陀の本願がわかる。その時「よくよく案ずる」ということが成り立つ。これを体解という。体解において、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」となるのである。
 成るとは、弥陀の本願に私が遇うことであり、生かされることであり、本願成就である。錆びて曲った一本の釘がある。錆が落ち真直ぐになるにはハンマーで叩かねばならない。この釘がハンマーの一撃をカチンと受けたならば、ハンマーと一体になる。
 釘が私、ハンマーが弥陀の本願。弥陀の本願が私に本当にわかるには、叩かれなければいけない。本当に届くことが大切である。届いてはじめてわかる。それを「そのものになる」という。そのものに遇うともいえる。それでは叩きさえすればわかるかというと、そういうわけにもいかない。今、釘をぶら下げておいてハンマーで叩いてみても、当ってはいるがぶらぶらして本当に当ったことにはならない。ハンマーの力が効いていない。本当に効くのには、金床の上に釘をのせて叩かねばならない。これがたった一つの方法である。そうするとハンマーは釘にカツンと当たる。弥陀のハンマーは釘に領解される。わかる。本当にわかる。それがハンマーを体解することである。
 大事なのは金床である。金床とは私の現実である。私の現実とは私の本当の生きざまというものであろう。金床がないとハンマーの力がとどかない。この金床はどこからか借りてくる、買ってくるというわけにはいかない。自分の現実なのである。他人のものではいけない。
 自分の現実はその人その人で違う。一般的に申せば私の現前の事実である。親に対する私の姿勢であり、自分の妻、自分の夫に対する姿勢に、具体的には表われる反抗性である。それは恩知らずとでもいうか、反撥的である。もーつは憍慢の姿勢。夫とか妻に対していつも自分が高い所におって相手を見下している。そういうのが私の言う現実ということである。親鸞聖人はそれを「邪見憍慢悪衆生」と言われた。正信偈の中にありますね。この金床がなければハンマーは届かない。この金床をはっきりして下さったのが、親鸞聖人の教である。これが親鸞聖人の仏教の特色である。普通の宗教は教が中心である。神の愛、キリストの十字架、浄土宗の南無阿弥陀仏、天理教も皆ハンマーの方をいう。親鸞聖人の宗教は金床が中心である。金床がでてこなければ本当のことはわからない。これが大事なところである。
 金床はどうしたら得られるか。それは弥陀の本願を聞いていくことによって作られる。出来上がるのである。ちょうどそれは音楽を聞いているうちに聞く耳ができ、すぐれた絵を見ているうちに見る眼ができ、本を読んでいるうちに読書力ができるように、弥陀の本願を聞いて聞いていくうちに、私における金床ができるのである。そして金床ができた時に、ゴツンと弥陀のハンマーが打ち当って、弥陀の五劫思惟の願をわが身に受けて、「南無阿弥陀仏」となる。それを他力の念仏という。従って万人に可能なのである。我々は何も信ずる必要はない。何かを思い込まねばならぬのでもなく、何かを認めねばならないのでもない。ただ弥陀の本願を聞いて聞いていくと、私に金床ができて本願と私が一体となる。本願が私に届くというか、本願と出遇うというか、本願が私において私と一体となる。これを本願成就という。その肝心かなめは金床にある。その時「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずる」ということができるのである。
 そのとき弥陀の本願に対して深い感銘、感動、感謝を感ぜずにはいられない。そして私の現実に対して深く懺悔する。感謝と懺悔の二つを感動という。私自身が感動を持つ身となる。それは知性でなったのではない。知性的なものは感動を伴わない。感動は全我の事実である。全我の事実として生まれてきた感動を、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」といわれた。この中に深い感謝と懺悔がこもっている。そこに深く弥陀の本願を知り、真に本願に遇うた人の感動がにじみ出ている。このことのために、『歎異抄』は永遠の書物である。この言葉は大きなものに遇うた人間の感動を実によく言い表わしている。曾我師が「永遠の言葉」と言われるゆえんである。

メニューに還る/二、「親鸞一人がためなりけり」に進む