歎異抄講読(後序について)細川巌講述 より
第一節

三、他力には義なきを義とす

 「大切の証文」というのがこの後序に出ている。が、普通は、大切の証文とは何かな、前十章のことかなあという程度で読み過して放っておく。私もそう思っていたのであるが、了祥師の『歎異秒聞記』を読み返しているうちに、そこに力を入れて書いてあり、又、藤秀璻師の『歎異鈔講讃』に了祥師の着眼を非常に賞讃してあるのを見て読み返してみると、大変に大切なところがあるを知った。
 何が大切かというと、「他力には義なきを義とす」、これが一番大切なところである。「他力」とは如来の本願である。「如来の本願におきましは、自力のはからいを打ち砕かれるということが正しい道理であります」、これが一番大切な所である。中心点である。南無阿弥陀仏の念仏が頂けるということにおいては、自力のはからいがなくなるということが、本当のわけがらであり正しい道理である。ここが中心なんだという。
 自力のはからい、現代語で言えば人間の発想である。発想とは、どんな人も、男も女も、老いも若きも、自然に物を考える基礎になるものである。三つある。知性的発想、倫理的発想、功利的発想の三つである。
 知性的発想というのは、知性的に物を見ていく。対象化、物質化である。仏教とは何かという時、仏教というものを向こう側においてこちら側から眺める。そういう考え方、我我はこれしかない。仏教というものを考える。ものとして考える。親の恩について考える。親の恩とは何かと向こう側において考える。親の恩というものを考える。こういう考え方を人間の発想といい、自力のはからいという。自力とは人間の持っている自然の考え方を言っている。
 それがなぜいけないのか。これでは本当には物がわからないからである。いつも言うように、母の涙を考える。子供の病気を案じて母が涙をこぼした。今一滴落ちた。その一滴をとってその比重を計り温度を計り、化学成分を調べ、どこから出たか、どこにどのようにしてたまっているかを調べる。それは全部物として調べている。自分とは切り離して考える。母の涙の体積も温度も、成分もわかった。わかったけれども、母親の涙にならない。違うものになっている。しかし人間は、それでわかったと言っている。が、全然わかっていない。
 今、癌が一番問題だと医師はいう。だが私は、一番問題は精神病だと思う。軽い人は治るし、よく効く薬もある。だから治った人もいる。けれどもなかなか治らない。社会復帰した人というのはどれ位いるだろうか。非常に少ないのではないか。私は何人もそういう人に関係した。精神的な病気というのは治りにくい。再発しやすい。結局治らない人が圧倒的に多い。
 なぜか。人間の精神の病を人間の知的な立場で治そうとするから治らないのではないか。この人達は社会的には死んだも同然である。どうしようもないから放置されている。何とかしなければならない。精神薄弱者ならば施設もある。精神障害者には福祉施設がない。なぜないかというと、治るのが難しい。殆んど絶望的である。試みに今、家庭内暴力、登校拒否の子を治そうとしてもなかなか治らない。専門家も手のつけようがないという。
 私の所にも何人かそういう人を預かったけれども、なかなかうまくゆかない。「親子一緒でないと治りませんよ」と私は言う。親も教育、子も教育である。発想をかえねばならないと思う。
 倫理的発想、人間の発想は善し悪しに執われ、自分を飾る。やっぱり善でなければいけないのではないか、人から悪く言われるようではいけないのではないか等々、善し悪しに執われる。
 もーつは功利的発想。何としてもプラスにならねばいけない。そこで打算的に考える。損だ得だ、役に立つことがあればそれを利用しようと、宗教を手段に使おうとする。厭だけれども役に立つなら聞いておこうというのを功利的発想という。
 これらを自力のはからいといい、人間の発想という。これは男でも女でも、小さい子も年寄りも、学歴があろうがなかろうが誰も持っていて、それが人間そのものなのである。人間ならば一人として功利的に考えない者があろうか。善悪ということを考えて、少しでも自分を善くしようとしない者があろうか。誰も彼も全部、知性的、倫理的、功利的発想で行動している。
 しかしながら仏教では、これを問題にするのである。これを超えることが浄土真宗であり仏教である。なぜか、これらは人間の殻である。その中に閉鎖されている限り本当の人間になれない。初め卵として生まれた時はその穀の中で自身と黄身、それと胚が殻に保護されているが、しかし、いつまでもそうである限り、中身は遂に朽ち果てて腐ってしまう。それで終ってしまう。けれども卵は親鶏が抱いてやると育っていく。目玉ができ足ができ、ひよこになって殻を破って出ていく。そこに卵からひよこへという進展がある。穀を破って出ていくことを教えるのが仏教である。死んでから先ではない。それでは何の役にも立たぬ。生きているこの身において、人間の発想を被って大きな世界に出ていく存在になる。それが実際にできるのである。
 他力においては人間的なはからいが殻である。その殻を破って広い世界に出るということが一番大事であり、それが正しい道理であり、そのことの為に仏教は存在するのである。
 こういう教は現代世界中で日本にだけしかない。印度にも中国にも韓国にも、もう無い。大半は迷信、祈祷に陥って、こういうことを説く仏教は存在しない。この日本にしかない教を日本人が聞かないというのは悲しいことである。こういう教は、ある年齢になって聞き始めてもなかなかわからない。小さい時から聞いておかないとわからない。学生時代が限度である。学生時代はまだわかる。なぜかというと、本当にそうかなあという好奇心を持っている。損得を離れても少し聞いてみようかということがある。しかし、ある年になると、金がもうかるとか、病気が治るとか、死ぬ時の心構えとして聞こうとか、そういう打算を持って聞くから、なかなか進展しない。
 自力のはからいとは七百年前の言葉である。現代語で言えば人間の発想。その内容は知性的、倫理的、功利的発想である。これが超えられることが大事である。
 「他力には義とす」ということ、即ち自力のはからいを超えるということは、現実人生における人間の生き方、いわば殻を破った生き方を可能ならしめるものであって、それこそ生まれ変わりと言わねばならぬ。真の人間形成であり、そこに仏教の目標が達成されるのである。そういう根本的な命題を含んでいる。それを「他力には義なきを義とす」という。
 それ故「他力には義なきを義とす」ということが『歎異抄』の中心点である。如来に対し人生に対し、はからいなしということが本当の仏法である。浄土真宗の中心である。本願の生き方の中心点である。
 この「無義為義」ということは『歎異抄』十章に出ている。それを保証する(親鸞の言われたことに間違いない事を証明する)文をつけておく、そのことによってこれが親鸞の独断でなく、法然から頂いたものであるという「大切の証文」なのである。それが書かれたのもが「大切の証文」なのである。
 従って了祥師が言われた「他力には義なきを義とす」、及び「現生不退」ということを柱とした親鸞聖人のお手紙を書簡集の中から抜き出して書き写し、それをこの書に添えた。それが「大切の証文ども少々ぬきいでまいらせ候うて目安にしてこの書に添えまいらせて候うなり」であるという。この了祥師の主張には内容的にも人をうなずかせるものがある。
 「大切の証文」とは、現在は独立している『親鸞聖人血脈文集』であって、それが「大切の証文」として添えられたものであるとした解釈が正しいと息う。
 この了祥師の説は前記の藤秀璻師の解明によって明らかにしえたものであることを特に附記したい。

 後序では、本当の信とは何か、真実信心とはということが答えられている。その中心は、如来より賜りたる信ということであり、その内容は法の深信と機の深信である。法の深信とは仰ぎみる天地をもち感謝の心をもつことであり、機の深信とは自己への深い目覚めであり懺悔である。
 「親鸞一人がためなりけり」とは機の深信である。
 かつて申したように曾我量深師は、「『歎異抄』が永遠の書であるということは、この一文があるためである」と言われた。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」。これはまことに『教行信証』にも他の書にも出てこない、『歎異抄』にしかないお言葉であり、人の心を深く打ってやまないお言葉である。曾我先生は続けて「この言葉は何らの解釈も要しない、また解釈のできない言葉である」と言っておられるが、その通りだと思う。以下私の感想を述べたい。

 (1) 深い信
 先ず本当の信とは深い信、深信である。本当の信は深い深い信である。

 ①深と浅
 深というのは浅いの反対である。浅いとは『教行信証』化土巻に、「浅とは定敢自利の心これなり」とある。定心散心自力の心である。
 定心とは定善に執われる心。定善の定は三味、くだいて言えば正しい心。正しい心に執われる心。散善は正しい行い。散善に執われる心、それが散心。正しい心でなければならぬ、正しい行いができねばならぬという心にふり廻されている。それを定心散心という。人間の理性をいう。人間の理性は理想主義的な発想を持つ。それを浅いという。
 浅いとは又、狭い心である。理想主義は両刃の剣とも言える。自分をしっかり向上させねばならぬと思うと共に、もし出来ないとなると、こんなことではもう駄目だと深い劣等感をまき起こし、自分自身を傷つける働きを持っている。又、人に対してもこうならなきゃいかん、こうならなきゃいかんといって勧め励ます心が、もしそうならないとあれはつまらん、こんなこともできないと言って、それを非難し排斥し憎む心になる。両刃の剣である。これを浅いという。浅いとは狭いことである。
 私の所には巌松寮がある。ここ東京にいずみ寮があり、広島に清明寮があって、それぞれ学生を預かっている。なかなか大変である。どうしても生活的なことが目につく。私共の寮生も夜おそくまでなかなか風呂に入らない。一時や二時になってからやっと入る。自分の都合に合わせて入るわけであるが、寝ている者にとってはザアザア音がしてさぞ困るだろうと思う。又、御飯を食べない。ちゃんと人数分作っているのに朝いくつも残っている。きちんと食べないと健康上悪い。こちらはこういうことが気になる。まして毎晩おそく帰ってくるというようなことが重さなると、あれはあんまり感心した子ではないな、となる。こういうのは浅い心である。小さなことに執われ、ふり廻されているのである。その人に念仏だとか聞法だとかを求めるよりも、遅く風呂に入ることの方が気になる。仏法を聞かせたいということよりも、毎朝飯を食べないことの方が問題になる。我々はそのように何かに執われる。ふり廻されるそういう心を浅い心という。
 自利の心とは何か。これには二つあり、一つはエゴ、自利中心である。利己である。又もう一つは自力の心、自己中心の心を浅いといい狭いというのである。
 自力の心とは、『唯信鈔文意』に四つ言われている。自らが身をよしと思う心。私自身は間違いないんだという自己正当化、自己弁護。これを浅いという。身をたのむ、自己の可能性を信じてうぬぼれ、わが身をたよりにしている。自己過信である。又、悪しき心をさがしくかえりみる、深いはからいの心。そして、人の善し悪しをいう。人を冷めたく批判する。
 自力の心とは世間心、誰もが生まれながら持っている心、それはあなたも私もみんなが持っている心であって、それを浅い心という。
 浅いとは、相対的に深いというのに対して浅いのである。普通はこれを浅はかな心とか、浅ましい心とかいう。
 吉川英治が書いた『宮本武蔵』の最後、「波にまかせて雑魚は踊り雑魚は唄う。誰か知らん百尺下の水の心を水の心を」、とある。浅い所にいる雑魚は波にまかせて唄い踊っている。何で踊るかというと、あれが悪い、こいつが悪いと言い。はからいばかりして唄ったり踊ったりしているのだと吉川さんは言っている。我々は雑魚だなあと思う。狭い浅いところで人を裁いているのである。又、自己中心的で、いわゆる世間心でふり廻されているのである。

 深いとは何か。深いとは広いということである。『教行信証』化土巻には、「深とは利他真実の心これなり」とある。利他とは他力、他力は如来本願の働きをいう。真実とはまごころ。真実まごころとは具体的には南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏というところに利他真実がある。具体的なまことがある。南無阿弥陀仏と私に呼びかけてやまないところに如来のまことがある。それを利他真実といい、深というのである。これがわかることが深心(信)である。
 『大無量寿経』の東方偈に、「如来智慧海 深広無涯底 二乗非所測 唯仏独明了」とある。如来の智慧海は同時に大悲海である。それは深く広くしてはとりなく底がない。我々の考えは小さな小さな、狭い狭い、浅い浅い考えである。小さな殻の中に入っているのである。
 如来智慧海が私の所に来るところに本願がある。私を広い広い世界に出さずばやまない、深い深い世界に出さずにはおかないという如来の本願が、具体的には南無阿弥陀仏である。ここに如来の智慧と慈悲がある。如来の智慧、大悲の海はまことに深くして底なし、それが具体的に南無阿弥陀仏となって私の上に働きかけてくる。その南無阿弥陀仏に智慧の海、大悲の海、深い深い広い広い心がある。それが私の浅い心をつき破って、私の中に南無阿弥陀仏となって届けられる所に、私の上に深い心が成り立つ。如来の智慧海が人間の上に届かないならば、深い心は絵に画いたぼた餅であって、どこにも成り立たない。人間の上に深い深い心が成立してそれが人間の心となる。そこに如来の働きがあり南無阿弥陀仏の働きがある。その深い心が成立したところを信という。
 信即ち深い心が私の浅い心を照らし出す。深いものが成立してはじめて浅いものがわかる。人間の理性だけでは浅いも深いもない。理性に立つ限り結局、すべて浅はかでありながらしかも浅はかとわからない。深い心が成り立ったならば浅い心がわかる。自覚される。浅い浅い私を知らせて貰う。浅い浅い私を懺悔する。
 かつて申しましたが、西田幾多郎氏が、「わが心深き底あり悲しみも憂いも遂に届かじと思う」という歌を作られた。この方は京都大学の哲学の先生で、日本人として独創的な哲学体系を作られ、『西田幾多郎全集』二十巻がある。私はその中のわかる所だけ読んでいるが、特に晩年のものがいいですね。「場所的論理と宗教的世界観」というのでしたか、わかりやすい。それは親鸞の天地にふれて書いてある。この人は奥さんを亡くし、子供を亡くし、肉親の幸せには恵まれなかった。東大の出身ですが本科でなく選科出身で出世も遅れ、はじめは地位も不安定だった。そういう色々な苦労があった人である。「わが心深き底あり悲しみも憂いも遂に届かじと思う」。深き底ありというのは無底の底、底なしということであろう。わが心に深い深い心が与えられて、表面では悲しみに打ち沈んでいくのであるけれども、心の深い深い底には遂にそのような悲しみも憂いも届かない。本当に動かない心、寂という天地を与えられた、ということを言われたのであろう。
 我々の心は浅い心であって、人の誤解、悪口非難等々に色々とふり廻されている。色色なことにぶつかって悲しいという。けれども心の底には深い心を与えられて、悲しみも憂いも誤解も悪口も一切の世間的な問題が心底を動かすものにならない。すべて如来の智慧海、慈悲海に統一せられて、南無阿弥陀仏となっていく。こういう意味であろうと思う。「悲しみも憂いも遂に届かじ」というところがすぐれている。
 深い心が浅い心をつき破ってそれを南無阿弥陀仏にする。悲しみも憂いもみな南無阿弥陀仏になっていくような深い深い心を与えられた。色々なものを包むことのできなかった狭い狭い心が、遂に広い広い世界に出されて多くのことを南無阿弥陀仏で包んでいけるようになる。
 我々は浅い所にいる。それが深いものを与えられるのだ。深いものが私に生まれる、それを深信という。その深信が一つには仰ぎみる天地を持って拝まずにはおれない、感謝せずにはおれない。も一つは私自身の浅い狭い心を知る。それを自覚という。前者を法の深信、後者を機の深信という。深いものが成立してはじめてこの二つがわかるようになっている。
 ② 信
 信という問題は、『歎異抄』の第一章から問題になっており、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」とある。更に「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とある。従って、第一章で頂いたのであるが、も一度言葉を変えて申してみよう。
 今日、仏教に関する言葉は非常に誤まられている。誤まった解釈がなされている。信もそうである。普通一般には信仰という。信仰と、仏教でいう信とは違う。信仰とは、キリスト教ではFaithという。これを訳して信仰という。Faithそのものは信頼という意味で、『バイブル』に書いてあるキリストの言葉、エホバ神の心を信頼してそれに従っていこうというのをFaithという。faithfulという形容詞は、信頼できるとか、忠実なという意味ですね。神の言葉への信頼が信仰の中心になっている。仏教は信頼と違う。その辺がよくわからないと仏教がよくわからない。
 仏教では信ということを次のように言う。『華厳経』に、信について詳しく出ている。それを親鸞聖人は信巻に引かれてある。(21-73)
 「信は道の元、功徳の母となす」。信の働きという面から言ってある。我々が世間道(家庭、社会、職場)で生きていく上での人間の踏み行うべき道の根本、それが信である。「信は垢濁なく心清浄なり」。これが信の定義である。
 三垢とは貪欲、瞋恚、愚痴である。人間としての欲求と、怒り腹立ちと、愚痴をかかえている。信はそれがない。心清浄は人間煩悩の混じらないものをいう。これを真実と申す。真実清浄の心を信というのである。神を信じ『バイブル』を信ずる心が垢濁なしということかというと、そんな事はあり得ない。
 我々の信ずる心には常に不純なものが入っている。信ずることを手段として助かりたい、困っている問題を解決したい、不安動揺する心を信仰によって安定したいと思う。これらは純粋ではない。深いエゴが入っている。信仰を手段として自分の確立をはかりたいという所に清浄でないものがある。煩悩具足といわねばならない。従って我々が起す心は、信心であろうと、不純なものが入っているのを否定することはできない。それをどれ程純化しても、どうしても不純分が残る。なぜかというと、純化しようとする心に、既に不純なものがあるからである。
 いつも言うように、勉強しようとすると眠くなる。手で膝をどんなにつねってみても、どうしても眠りこける。そんな時は思い切って寝た方がいい。つねってもなぜ眠るのか。つねる方も私。つねられる方も私寝たいという者と寝てはいけないという者が同一人であるから、結局どっちも眠って了う。
 信は濁りがなく清浄である。それは我々がはじめから得ようとして得られるものでなく、備えようとして備えられるものではない。従って信は出発点で要求されるべきものではない。求道の果において実現するもの、得られるものである。これが信について一番初めに知っておかねばならぬことである。一般に宗教は、信ずるというところから出発すると思われている。信ずる者は救われる、信じない者はどうしようもないという。だから先ず信じなさい。そして行じなさい。信力、行力を人間がしっかり待ったならば、必ず仏力、法力が与えられる。これが宗教全般に通ずる考え方である。キリスト教では神様の愛を信じなさい、そうすると力が与えられます。祈りなさい、そうすると救われますという。南無妙法蓮華経と題目をとなえると力が与えられるというのが創価学会の教である。天理教も金光教も、言葉は違うが信ずることが出発点だと言っている。即ち信力、行力が出発点、法力、仏力が到達点である。ここに現代人が宗教に近づかない理由があると思う。なぜかというと、信ずるということが一番初めにあるということに抵抗を感じる。又、神とか仏とかが一番はじめから出てくるということに問題がある。少なくとも私は抵抗感がありますね。神とか仏とかをはじめから設定されていて、それを信ずるかどうかが宗教であるとすると、私には宗教は無用である。初めから神を持ち出されると、私は動きがとれない。「はじめに神があった」では私は納得できぬ。ましてそんなのを信じろと言われても、私はお断りです。
 本当の仏教(大乗仏教)では、信は到達点である。それでは何が出発点かというと、出発点は問いである。
 問いは二つにいえる。一つは、私はこれでよいのか。も一つは、釈迦は、親鸞は何を言われているのかということであろう。三千年の昔から仏教が伝わって生きている。それが一体何を言おうとしているのか、それを聞こうというのが出発点である。これが最も現代的な宗教への出発点だと私は思う。釈迦、親鸞という人に対する質問が出発点だと思う。私はこれでよいのかと自ら問うてみると、私はこれでよいと言い切れない。これでいいと断言したいのだが、言い切れない弱点を持っている。又、釈迦、親鸞という人はどんなことを言われたのか全く無知である。われらの民族の先輩であり、われらの先祖の一員である親鸞は一体何を言われたのかを聞いてみよう、これが現代における求道の出発である。この出発点から始まって、最後に到る所が信である。信において我々の上に、垢、濁り、煩悩の汚れがなく、清浄真実なものが成立する。そこに人間の確立がある。そこにあらゆる場、家庭、職場、社会で生きる根本が成り立ち、私において本当の徳が成立する。そういう根源を与えられる。これが信である。
 信に至る求道の第一段階を資糧位という。ここでは信ずるということは要求されない。あなたの元手になるもの、糧になるものを集めなさい。仏教とはどんなものかを聞いてみなさい。そしてそれが本当かどうかを考え、わからない所は質問しなさい。それを資横位という。そして、これはと思うものを実行しなさい。これを第二段階の加行使という用そこにも信は何ら要求されていないのである。聞いて考えることが願われている。
 私は初めキリスト教に非常に関心があって、中学四年頃に何回か教会に通ったことがある。又、日曜学校というのがあった。私は福岡で生まれて育ったが、あそこに西南学院というクリスチャンの学校がある。そこの学生達が日曜毎に近所の家でカードを配って讃美歌を歌っているのを小学校以来聞いていた。そこから関心ができて教会にも行った。が、とうとうやめた。どうしてやめたかというと、お話は一応わかるけれども、途中で箱が何回となく廻ってくる。何かと思うと中に金が入っている。お金を入れる箱ですね。私には金がなかったからそれが厭だった。もしあの箱がなかったらキリスト教に入っていたかも知れない。僕が学生からは金を取らないということにしているのは、この時の体験に由来している。学生は大体金を持たないですからね。
 資糧位、加行位の果てに信の確立がある。これを通達位という。聞思修の果てに到達するのが通達位である。そしてそこから本当の生活行がはじまる。生活の上に信心が生きてくる。これを修習位という。そして遂に仏の世界を究める。これを究竟位という。現実人生は通達位、修習位。そして死を境として仏果を得る(究竟位)。信の確立は求道の結果である。そして信が本当の仏道への出発点となる。世間道の出発点は聞であり、聞の到達点が信である。信の確立が出発点となって仏道が展開してゆくのである。
 信の本質は何か。それを「真実誠満」という。まことであって実があり、まごころにおいて一つも欠けるものがない。真実誠満、これは親鸞聖人が『教行信証』信巻に言われている言葉である。
 又、「審験宣忠」という。信の働きは物の本質を本当に明らかにしようとする。審はつまびらか、明らか。験もあきらか。宣もあきらかにすることである。験は、わが身において本当に体得しようとする。宣は、言葉に述べて体得したことを表現しようとする。忠は正しくのべる。口と心を貫いたのであって、本当の思いをのべようとする。信の本質はそれを如来心という。信は人間の心の一部ではない。又、人間が心理作用として信ずるというのでない。人間を超えた真如の心が人間に到り届いて、深い深い働きを持つものである。

 私という存在、それはだんだんと老化して遂に命果てるもの、当然のことだが、もしそれがはっきりわかったら、大分生活が違ってくるかも知れない。この世に自分はあと五年しか生きられないとなったら、あまりボヤボヤしておれないだろう。いつまででも生きるように思うから、つまらぬことに明け暮れしているのである。
 いつかは死んでいかねばならぬ私。それを包む大きな大きなもの、それを永遠といい無限という。私はちっぽけな有限者である。永遠なるもの無限なるものを光明無量、寿命無量という。アミタユース、アミターバーという。これを南無阿弥陀仏という。信の本質はここにある。南無阿弥陀仏の心を信という。それを真実誠満という。審験宣忠という。そしてそれはじっとしている静的なものでなしに、私を見届け私を明らかにしようと働きかけてやまないもの、それを南無阿弥陀仏という。ここが非常にわかりにくい。人間が有限であるとか、人間に煩悩が満ち満ちているとかいうことは大体わかる。が、南無阿弥陀仏というと、とてつもないものがポンと出てきたように思えてなかなかわかりにくい。そこは聞き続けるしかない。聞法によってはじめてこの道理がわかる。
 永遠とか無限とかいうものは抽象的なものでなしに、働きかけてくる。それを南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏が届いたところを信という。信は南無阿弥陀仏をいよいよわが身に明らかにしようとする働き(審験)となり、南無阿弥陀仏と口から出てくださる根源となる(宣忠)。

 (2) 信に到る過程
 親鸞は他力廻向の信といわれた。その信に到るプロセス、道ゆきはどうなるのか。大体三段階に分けて考えることができよう。
 何かの縁によって出発する。出発しても道は平坦ではない。峠がある。その第一の峠には大きな立札が立っている。「継続は力なり」とある。最後までやめないこと、やりぬくこと。これが第一の旗印、これが大事である。
 亀井勝一郎氏は、第一の峠まで行きつくところを詳しく書いている。『愛の無常について』(角川文庫)の初めの方にあるのがそれである。先ずは考える、そして迷う。そして、かくあれかしと願う一念を持つという。考えて、どうしたらよいのかと迷い、最後に、いや私はこうありたいという一念を起して進んで行く。
 そして「継続は力なり」、最後まで続けること。やめないことである。
 第二の峠はマンネリ化である。それを越えねばならぬ。そこにある立札は「いのちをかけよ」であろう。いのちがけという言葉は現代では殆んどわかりにくいものになった。何か危険な事をすることのように思えるが、そうではない。飛行機に乗るのも新幹線に乗るのも危険ではない。昔は、求道は文字通りいのちがけの旅であった。
 今の時代に、求道にいのちをかけるとは何か。いつもいうように、一つは時間を捧げることである。我々は忙しい。やらねばならぬことが沢山ある。時間が惜しい。その惜しい時間を捧げることである。何に?、聞法につぎ込むこと、これが具体的ないのちがけである。もう一つは力を捧げることであろう。若い人には若い人の能力があり、年とった人は年とったなりの能力がある。それをあなたが仏法の為にさし出すことです。
 具体的には色々なことがありますね。例えばこのような会をする。まずこの公民館に会場の申し込みをせねばいけない。市の公報に案内を出すということもあるだろう。記録をとり、受付をし、案内状を出し、会報を出す。それはもう大変なことですね。誰かが力を出しているから出来るわけですね。力も出さないでただ聞いているうちは本物にはなれない。
 もう二つは金である。これは又大変に言いにくい。あまり強調すると先程も言うように、金を出してまで聞かなくてもいいではないかということになって、虻蜂(あぶばち)取らずである。で、最後の方で言わねばならぬ。いのちは出すが金は出さないという者はいない。ここまで来る交通費から其の他色々要る。本当に聞こうと思うならば金を惜しまないことだ。このようないのちをかけるということは、今日の求道においてはほとんど見失われている。人間が小さな世界から穀を破って大きな世界に立ち上がっていくには必ずこの二つの峠を突破しなければならない。
 最後の峠を登って行けば、遂に高い所に到達すると思うかも知れぬがそうではない。そこに最後の立札が一つ立っている。「常にまごころはあるか」と書いてある。求道とは、エスカレーターのようにだんだん上がっていって、遂に高きを究める事だと思う。そうではない、断絶である。そこで切れている。なぜ切れるのか。私は継続一貫やってきた。時間をさき、力を注ぎ、金を費して五年十年とやってきた。だんだんと高い所に登ってきた。が、「君はまごころでやっているのか」と問われる時、千尋の谷底に落ち込んでいく。それは、われにまごころなしとわかるからである。これを「地獄は一定すみか」という。まごころは如来にある。真実まごころは私になし。

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