<下巻> 第五章 法 語

3
 生命を継ぐ者は 生命を捧げてゆく




5
 宿命を転じて使命に生きることを自由という
 これを横超という




6
 真実のみが末通る―とは、
 念仏のみが末通るということである。




 南無阿弥陀仏は如来の生命であるとともに 
 煩悩に燃えあがる人間のいのちである。




 如来は絶望の彼岸から大悲の御手を我らの上にのばしたもう。




7
 聞ける日に真に聞け。そして今日一日念仏に生かされよ。




 人の一生は、その人が領解した教えの深さによって決定します。




 わたくし一人が聞く。わたくし一人が求め、わたくし一人が歩み、
 わたくし一人が、照らされて、照らしきられて生きる道。




8
 貪欲は明日に大望を抱き、念仏は今日一日に満足する。




 生死海は、浄土の光の輝くところ、煩悩は如来正覚の華の開くところ、
 苦悩は、如来大悲の生きる舞台。




 沈黙の工夫あって、言葉を選ぶべし。
 自己を培って、はじめて金玉の言葉生まるべし。




9
 人の一生は、命の捨て場所のみつかるまでのもがきです。




 一言尊重すべし。行住坐臥尊重すべし。言語はほとんど人格のすべてである。




 一切人に臨末あり、精進せざるべからず。




10
 我、如来を見いだすにあらずして、如来、我を見いだしたもう。




 如来は必ず現在に対する眼を開く。




 歓喜必ずしも信心ではないが、信心は必ず歓喜である。




11
 小人は小人にほめられることをのみ求め、偉人聖者は、自己の衷心の声に忠実である。  




 小人は後悔が多い。後悔を懺悔にまで転回せよ。




 後悔の世界は狭い。しかし懺悔の天地は広い。




12
 戦々競々として己を省み、しかも大胆に念仏する。これ念仏行者の本領である。     



 だれにでも誤解することがある。しかし、誤解の方向がその人を決定する。




 高慢は凡夫の持つ不治の病である。百千の善根功徳も一つの高慢によって亡ぶ。




13
 ただ大法によってのみ、わたくしは人と一如一体を観ずる。




 ただ、大法のごとく歩んで恐れざれ。真実のみ末通りたもうがゆえに。




 真仏は絶対の権威をもって君臨し、無条件に衆生に内在し顕現して、その人格の本質となる。




14
 一期一会。一碗の苦味に托して、愛憎善悪のこころを浄土に流し、念仏するを茶の湯という。




 合掌して食う心になれ。合掌して食うとは、恩を知って正しく食うことである。




 お念仏申して、おらんようになろう。




15
 如来の本願力は、浄土より人生に、仏より衆生にはたらきかけて、
 衆生の迷妄を限りなく全否定し、その全否定を通して、如来の真実を全肯定し、
 我及び人生の内容となろうとする。




 一切の生命は如来に帰し、一切の命は如来より出る。




 生命の充実とは如来の大信に生きることである。




16
 我如来に生きるにあらずして、如来 我にあって生きたもうのであります。




 飽くことなき真理への思慕、それは合掌の旅であります。




 よく生死の苦悩をこえようとすれば、くるしみに随順せねばなりません。
 よく生死に随順する者のみが、生死を超えるのであります。




17
 生死に随順する者のみ、よく生死を超えて、如来の本質を衆生と共に生きる。




 内に燃ゆるものは外に輝く。信は如来の徳の自然の輝きである。




 私は鬼じゃ。この鬼を受け取って下さるのは、親さまだけだと、本当にわかった人は、
 世界一の智慧者である。




18
 「明日はない」生活とは、
 まことにお念仏の生活のことである。




 お念仏してくれ、お念仏申すところが、自分の遺跡である。




 お念仏申すことをぬきにして、聞くことばかりをあせり、聞くだけの宗教になってはならない。




 大法を聞くことは難い。念仏の生活に入ることは難い。それのみ思われることである。




551
 凡夫は、怖るべきき死を怖れず、怖るべからざる死を怖れる。弱さはそこから生まれる。
人間は、真に滅ぶものが滅ぶとわかり、滅ばぬものが滅ばぬとわかれば、大いなるおそれから出ることができる。




 私は幸にも、滅ばぬものと、滅ぶものとの見分けを、微にではあるが、明らかにしていただいた。本来小心者の臆病者をそのままに、少しは強くしていただいた。ありがたいことだと思わずにはいられぬ。
生死の一大事ほどの問題を解決して下さる宗教である。真実教である。真実の宗教は、腹の奥の奥底の病源に当って下さる。末梢的おそれが解決つかないであろうか。



 恐れは、自覚によって転換されていく。名利の煩悩にものを言わせると、如来の御冥見よりも、世間の無責任なる毀誉の方が恐ろしくなる。それを恐れて浮き足が起ち、右往左往浮身をやつすことがその人の全体となれば、いよいよおそれは深くなる。
無明も、おそれを転換してゆく。しかしそれは、外へ外への流転となる。
しかし智慧による自覚は、内へ内へと転換してゆく。
信心の智慧は、遂に、汝自身の中に、おそるべきものを発見せしめたもうであろう。



552
 私は近ごろ、大地の上から去っていく人の、あまりにあわただしく、相続くのを見るにつけて、ことさらに「去りゆく人の残すもの」ということが、思われてならなくなった。残すものは何かということは、今日の、今の生活が何であるかということであるがゆえに、私にせまって来るのである。




 腹の一番底にあるもの、それが一番、明らかに、大地の上に残るものである。
人は衷心の願い、心の底より求め愛楽したものを此の世に残して去るのである。道を好む者は道を残し、徳を好む者は徳を残し、法を好む者は法を残す。ゆえに、聖者とは、法を好んで、法を生き、法を残してこの世を去る人である。
下下の凡夫も、大法を信楽すれば、正定聚の菩薩と讃えられ、如来と等しと名づけられる。




 一人の人が、大きな理論で動いている。しかし実際に当ってみると、小さい感情問題が、真の動機となっている。小さい一つの悪感情をも重大視して、自己を清算し、培うことを忘れる時、小さい感情で大きなものを失うことになる。
一つの小さい苦にすら堪え得ないものが、社会改造を叫んで見たところで、何にもならない。




553
「この度の聖講一週間において、賢くなって帰るかわりに、知ったはずのものを本部において、無智になって出て行って下さい。」とは、昭和十年夏の聖講における開会の語の一節であった。学んで無智に至るもののみ真に学ぶというべし。




 人間がもし「人に知られよう、名を挙げよう」という欲を超えることができたら、人間の生きることはとても楽になり、その肩の荷はとても軽くなる。
心内に巣食う煩悩が何と言おうと、有名にならなくてもいいのだ。名高くならなくてもいいのだ。ただ、真実なるものを求め、真実なるものに求められ、真実を念じて一歩一歩、精進してゆくことが許されてあるだけだ。




 終始一貫は平凡であるが、平凡な道によってのみ、非凡が築かれる。いつも一足飛びに非凡な空想ばかり描いていたり、そういうことにのみ手を出そうとする人を野師というのである。いかに厚い書物でも一ページ、一行、一字ずつ読んでゆくより外に道はない。  




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 二乗は人の助かる世話はするが、自らの第一義の問題については、卒業してしまっている。だからカニの横ばいをして、限りなき深さに歩みきり、徹しきろうとはしない。念仏とは、自己の第一義の問題を放ってしまうことではなくして、永劫かけて、第一義の問題を抱いて生ききることである。




 二乗は名利を追う。
 二乗は如来召喚の一道を精進しないで、ウナギのように泥の中を名利愛欲のままにおよぐ。二乗は教法によって己を折り、己の手元を下げて生きさせていただこうとはしないで、我を張って法をまげるがゆえに、自ら世に害毒を流していることを知らない。二乗は人をも二乗に誘う。




 自分に欠陥が見える。他人を責めていられないほどの醜さが見える。尊いかな、その自覚。




 社会に大きな醜さが横たわる。国家の現状に戦慄に価する状態がある。皆知らぬ風、いいえ安価な事なかれ主義、自分さえ損にならなければまあまあ、手を出すな。そう言っていられない心が動く。時にはおさえきれぬ公憤さえ感ずる。




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 机の引き出し・押入れ・台所、… その気で見たら、至る所、醜さだらけ、さながら自分の内部をまる出しにしたような醜さ。眼をおおって見ないことにするか。すぐ整理に着手するか。



 今日御正忌、いよいよわたくしには厳かなるみ声が聞える。行かねばなら
ぬ、歩まねばならぬ。いよいよ純粋にあの御声を聞いて歩まねばならない。
恐ろしいのか、うれしいのか。深い感動がわたくしの胸に満ちわたる。
「聖人よありがとうございます。九十年の悲願一道の御旅路は、わたくし一人のための御苦労でございました。ほのかにわたくしの胸底に光りたもうみ光、それは聖人の御苦労のすべてによってともされたものであります。」
外には雪が降っている。広間にはお念仏の声が聞こえる。一人だと泣いた旅路に多くの人を与えられた。だがわたくしは、ただ一道をより純粋に歩ましていただかねばならぬ。




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 今一度言わせてくれ。お浄土まで、念仏が相続するということ、これが一番一大事、これがお他力である。摂取不捨である。    




 老病死よりほか何ものも持たないこの私と、永遠常住なるみ仏と、一体になりきるのが信の世界である。それは、わたくしがなるのではなくて、南無阿弥陀仏がわたくしになり切って下さるのである。
だから手ばなしで念仏申せるのである。わたくしになりきって下さる御慈悲の中で、身も心も投げ出して、南無阿弥陀仏。煩悩業苦は、南無阿弥陀仏の御宿である。




 若き教育者よ、御身はこの世の自然の泉でなくてはならぬ。自然の浄土は、その水源である。




 教育者であることに、最大の喜びと、最深の悲しみとを発見することができた日、この人は人間として本質的な自覚に入りはじめ、真の人生を生きはじめるであろう。




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 如来は法界の正しい良心である。これを智慧という。衆生の良心は迷妄そのものである。信心とは、如来の智慧光、衆生の心になりきって、その全情意となり、理性となりたもうことである。
されば、念仏の子とは、法界の正しい良心を生きる人である。かるがゆえに、信心のみが清浄といわれ、真実といわれる。されど念仏の子にも八万四千の煩悩がある。如来はこれをとがめたまわず。 
ただ一生相続して念仏不退なるものは、法界の良心を良心とし、如来の真実を真実として生きるがゆえに、等正覚の菩薩と讃えられるのである。
世尊聖人が万人の親となり、その崇敬を一身に集めたもうゆえんは、法界の良心を良心として生きたもうがゆえである。世の極悪極苦を見聞して法界の良心、南無阿弥陀仏をいただける、身の幸を思うこと切実である。




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本気になって念仏申せ。
しかし、本気になっても本気になっても、心が本気になってくれない。本気になろうとすればするだけ、妄念妄想が出てくる。それでこそ本願の正機である。きれいな心をあてにするな。きたない心を気に病むな。よろこんだのもだめ、よろこばぬのもだめ。
ただ本願の力強さに気がついて、機のよしあしをすてて念仏するのが、本気になって念仏するということである。




 今日も毎日、涙の子がわたくしの前に来る。こみ入った悲しい身の上を訴えて、人の世の矛盾に泣いて。形の上をどうしてあげようもないわたくしである。
しかし、御念仏の教えが耳に入ると、昨日まで泣いた人が、今日はほほえんで来る。ほんとうの悲しみではなかったのである。人はみな、正法で洗えば消える悲しみを抱いたままで、自己を肯定して立ち止まっているのである。
深い悲しみを悲しみたい。
大いなる悲しみを悲しみたい。
深い大いなる悲しみとは何であるか。
法蔵菩薩の御悲しみである。
大いなる悲しみにのみ、大いなる喜びがある。
深い悲しみにのみ、深い喜びがある。




559
 念仏の心は、今まで人生を楽園にすることができもするように考えた考えを、根底から打ちくだいて劫初より未来際にわたって、無明生死の荒涼たる大砂漠であることを自証する。しかるに、この荒涼の旅路にも、清い泉は湧き、念仏の浄華は咲いている。
しかし、止まってはならない。
さようなら感激の花よ。泉よ。
大地の果てからしきりに喚びたもう声が聞こえる。
私は新しい旅路に発たねばならない。