『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
おわりに
 とうとう最後の時間になりました。三日間、なんだかみなさんと一緒にたいへん長い旅をしてきたような気がします。みなさんはどうだったでしょうか。
 今回は「仏の教えに出あうということ」という題で、お話してきました。ともすれば、現代において、仏教というものはお葬式の時にしか縁がないものと一般的には受け取られています。しかし、そうではないのです。仏の教えを深く尋ねてゆくと、その中を永遠をつらぬくようなもの、切れば血のでるような生き生きとしたものが流れていることがわかります。亀井勝一郎という方が言われるように、仏の教えは人間が人間になるための教えなのです。さらに言うならば、人間が生まれ変わり、本当にこの人生を生ききるための教えなのです。
 最初にバーミアンの石仏の話をしましたが、たとえあの巨大な石仏が崩れ落ちても、なお虚空にそびえ立ちつづける大きな仏があるのでしょう。永遠に崩れ落ちることのない仏、それを阿弥陀如来と呼ぶのです。光明無量、寿命無量、阿弥陀如来は永遠に現在という時間の中に立ち続け、人間の心の闇を照らし、名を称えるものを浄土に摂取してやまない仏さまなのです。
 しかし、その阿弥陀如来は、その名を称える諸仏がたのおはたらきによってのみ、わたしたちに知られ、私たちに至りとどくことができるのです。諸仏とは時間の中でこの阿弥陀仏の名を私たちに届けるために、いのちをかけてはたらきかけ続けられている方々なのです。
 今回のお話の中では、釈尊、龍樹菩薩、親鸞聖人などの著名な方の名をあげましたが、諸仏とは決して有名な方々ばかりではありません。阿弥陀仏のみ名はかえって、目立たない、名もない人々によって歴史の底流で、受け継ぎ、伝えられつづけたものなのです。なぜなら、この阿弥陀仏のみ名は低い低い世界にしか届かないものだからです。
道ばたの一茎の花、それはいと小さいかも知れぬ。
しかし彼の上には春がおどっている。
小さく生まれた恵まれぬ一人の人間、それはいと小さいかも知れぬ。
しかし、愚者の上にも、凡人の上にも如来はおどる。
桜の上におとずれた春も、小さいすみれの上におどる春も、春は春である。
高僧聖者と、名もない老婆と、形こそちがえ、太さこそ変われ、
如来回向の春には寸分の差異はない。
そこに平等の世界がある。          (住岡夜晃
 今回、はじめてこの会に参加され、仏法の話を聞かれた方もおられるでしょう。その方をはじめ、これから三界に歩みを進めようとしておられる若い方々に、何とか仏の教えというものに出会っていただきたいと思い、お話してきました。仏の教えとの真実の出会いがあってくれればと願ってやみません。

             了

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