『仏の教えに出あうということ』 寺岡一途
はじめに


 今日から三日間お話をさせていただきます。このJBAという会はスケジュールの中に楽しい事がいっぱいあります。特に最後の日にある「自然に親しむ会」という行事を楽しみにしている人も多いと思います。しかし、その盛りだくさんのスケジュールの中に仏さまのお話を聞く時間があります。これはちょっとしんどいなと思っている人もいると思いますが、この時間は会にどうしてもなくてはならないものなのです。それは、この会は仏さまのお話を聞いてもらうために設けられたものだからです。この会は今年でもう二十三回の歴史を重ねていますね。そのうちの何回かは私も参加したことがありますが、話し手として参加するのは今回が初めてです。
 今回お話を担当することになって、題をどうつけようかとしばらく考えました。そうして「仏の教えに出あうということ」としました。現在、仏教は多くの人にとってはお盆とお葬式のときぐらいにしか縁のないものと思われています。つまり、死んだ人にしか縁のない教として受け取られています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 鎌倉時代の親鸞聖人という方は仏さまの教えに出会ったことを「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と深い感動とともに喜ばれています。
 また、住岡夜晃という方は「わが生涯は如来聖人の真実教を聞信させていただくための一生であった。ただこの事一つのための一生であった」また「人の一生は、その人が領解した教えの深さによって決定します」と書かれています。
 いったい、この方たちは仏さまの教えを聞くことを通して、何に出会われたのでしょうか。
 三日間という短い時間ですが、仏の教えとは何なのかということを一緒にたずねてゆきたいと思っています。

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