十三、仏かねて知ろしめす

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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仏の眼にうつるものは、そういう現実に明け暮れしている私である。それを「仏かねて知ろしめす」という。人間我々の考えは私とその周囲に限られて、仏などは考えたこともない。狭いのである。小さいのである。また、必要がないのである。自分のことは自分で考え、実行し、失敗しても成功してもとにかく自分でやるしかないと、この程度にしか思わない。そうであるのに「仏かねてしろしめす」のである。

如来は衆生と離れない。親心は子を離れない。親があるから子といい、如来があるから衆生という。衆生がなければ如来はない。子がなければ親は単なる男女である。子という概念は親という概念とは離れない。が、我々はそうは思わない。私は人間として一人で生きているのだと思う。親がなくても子はあると思う。

如来は如より来生する。如は一如であり真如であり、道理でありロゴスである。その如が来生するから如来という。なぜ来生するかというと衆生があるからである。衆生とは生きとし生けるもの皆である。その衆生を包んでいるものが如である。如が如から働きかけてくるのは衆生があるからである。衆生がなければ如来はない。如来でなく、一如、真如で終る。衆生が如来を引きずり出したのである。如来と衆生もそのような関係にある。

如来は大いなるもの、絶対なるもの、衆生は小さなもの、有限相対なるものである。大きなものが小さなものに願いを持ち、深い働きかけを持つ、その姿を如来という。これを「仏かねて知ろしめす」という。如来は衆生と離れない。如来は衆生を見ていて下さり知っていて下さる。そういう如来がましますのである。それを今は「しかるに仏かねて知ろしめす」という。衆生がこの如来を知った時、これを転回、感動という。「しかるに」と言わずにはいられない。

仏が衆生を知って下さることを仏智(仏の智慧)という。仏智は深い慈悲である。「仏かねて知ろしめす」というところに仏智があり慈悲がある。如なるものが如来となってくるところを大慈大悲という。如なるものの働きの内容である。

慈悲の慈はカルナーといい、慈しみ育てるという。カルナーは友情を表わす。慈しみとは友よ、兄弟よと呼びかけて下さる姿をいう。悲とはマイトリーといい、悲しみ痛みである。じっと見てはおれない悲しみをいう。殼の中に閉ざされて喜びがないということを問題にして明け暮れしている姿、意欲のなさに執われている姿を痛み悲しむのを悲という。この大慈大悲の中でどれが一番我々に適切かというと大悲である。友よと呼びかけながらそこに深い悲しみがある。どうしてもこれをじっと見ているわけにはいかない悲しみがある。それを「仏かねて知ろしめす」という。これを大慈大悲という。

青年期になると親に対する反撥とか自己への劣等感とかが起ってくる。小さい時には親子は堅く結ばれた存在であるが、だんだん大きくなると反抗期になる。第一反抗期というのは三才位である。親の言うことをきかなくなり、何でもいやいやと反抗する。

これはあまり関係のない話だが、雨が降ると蛙が鳴くわけを九州の或る地方ではこんなふうに言う。子蛙が反抗ばかりして母蛙の言うことをきかない。あまり反対ばかりするので或る時母親が言った。「私が死んだら川の水際の砂に埋めておくれ」と。そして母蛙はそのうちに死んだ。子蛙は今まで反対ばかりしてきたので最後のこの事だけは母の言う通りこしようと思って、川辺の砂の中に埋めた。ところが雨が降ってくると砂が流されそうになる。それを見て「しまった、お母さんは山に埋めて貰いたかったのに、自分が反対ばかりするので川に埋めてくれと言ったのだったんだ」と気がついた。そんなことで、雨が降ると蛙が鳴くのだという。

子供がだんだん大きくなると第二第三の反抗期がある。自分に考える力が出来て自分の考えでやりたいという、これが反抗になる。青年期になると親に反撥を感じる。自分の親は何とつまらない親だろうと思う。これをもう一つ越すと親に対する思いやりというものが出てくる。これは自分が子供を持っているとよくわかる。如来と衆生も同様である、深いつながりを持つが故に衆生は如来を無視して反撥し続けるのである。

その如来の姿を善導大師は『観経疏』の中で、次のように言ってある。「娑婆は苦界なり、六賊常に随い三悪の火坑臨々として入らなんとす、もし足を拳げて以て迷いを救わずば業繋(ごうけ)の牢何によってか免がるるを得ん」と如来の姿を説いてある。如来の姿を仏像で表わすと真直ぐに立ってはいない。前かがみとなり、今や一歩をふみ出そうとするお姿になっている。これが如来の心を表わす。なぜこのように一歩ふみ出そうとしておられるのかというと、衆生を救わんが為である。

娑婆は苦しみの世界である。六賊とは眼耳鼻舌身意に賊をかかえて、それがいつもつき随って迷わせている。そこで地獄、餓鬼、畜生の三悪道の火の坑がすぐ目の前にひろがって、その中に今にも落ち込みそうになっている。これが衆生の姿である。この人生における人間は現実の中に執われて深い迷いを持っている。そして毎日々々を煩悩に追いかけられて、今や地獄、餓鬼、畜生の苦しみが大きな坑をあけて待っている。火のふき出しているその中に今にも落ち込みそうになっている。もし仏が足を拳げて迷いを救うということがなかったならば、そのような業に繋がれた牢獄の中にいる衆生は、どうしてこれを免がれることができよう。もう今にも三悪道の火坑の中に落ちようとしているではないか。従って足を拳げて一歩をふみ出そうとされるお心が如来の心なのである」。

善導大師はこう書かれている。これを「仏かねて知ろしめす」という。

「知ろしめす」とは知って下さるということである。が、ただ単に知って下さるのでなく、痛み悲しみ、それに向かって働きかけずにはいられないというその働きかけを「知ろしめす」という。その姿が身を傾けてまさに一歩をふみ出そうとする姿であり、「仏かねて知ろしめす」姿である。深い大悲を表わしている。寂静の境に静座することの出来ない仏心の転回である。

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