六、「親鸞も」

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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個人体験を超えるとき、親鸞聖人の体験は個人体験でなく如来との接触点となった。「親鸞も」という所にその個人体験が本願に直結した姿がある。そこに個人的体験を離れて人間存在のすべてが持つ共通問題、人間の持つ深い迷いを知るにそこに「親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじ心にてありけり」という深い思やり、寛容性、許容性というものが生まれている。

内村鑑三(クリスチャン)という人が言っている、「若い牧師が信者の質問を聞いて『私はそういう経験はありませんがねえ』ということを言うのが一番いけない」と書いている。皆の経験するということを全部経験するということがなければ牧師にはなれないという意味のことが書いてあった。皆の経験がわからねばならない。自分だけの体験としてとどまっていると、自分の体験、人の体験ということになってしまう。自分の悲しみや喜びが広い世界、本願とつながってくると、皆同じ悩みを悩んでいるということがわかるのである。

それはなぜか。私の殻は理想主義的発想である。この殼の中にいる時には、よい体験をしなければならぬ、悪い体験はしないようにしなければならぬという理想主義的な考えがある。

その殼が破れて私が出てくる時、この小さい殼に閉じこもっている私に深い深いお照らし、働きかけがあったのだということがわかって、あらゆる人に対して「友よ」となる。そして相手の苦しみに対して深く同感し得るものがある。殻を破られて広い天地に出ると、人に対して「友よ」になる。色々と新聞紙上を賑わすような人がいる。その人達に対して「どうしてあんな事をするのだろう、けしからん奴だ」と思うている間は、けしからん社会になったもんだという愚痴にしかならないが、「親鸞もこの不審ありつるに」にならねばならない。私もずっとあなたと同じようなものがある。高い所からでなく「友よ」というところに「親鸞もこの不審ありつるに唯円房同じ心にてありけり」というものが出てくる。それは殻を出た者の大悲同感の声である。

それでは親鸞も喜びがなく、意欲がないのか。今までずっとその不審が続いているならば、唯円さんと同じく親鸞さんあなたも「いかにと候うべきことにて候うやらん」と言って迷っておられるのか。もしそうならば親鸞聖人も唯円と全く同じである。が、そうではない。迷っていないからこういう事が言える。

喜びがないこともあり意欲がないこともある。今までずっとそういうことがある。しかしそういうことが問題にならない。喜びや意欲がないのかと問われると、あなたと同じくそうであると言うしかない。けれども「いかにと候うべきことにて候うやらん」ということはない。『教行信証』信巻末に「まことに知んぬ悲しき哉愚禿鸞(ぐとくらん) 愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し名利の大山に迷惑して定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず真証の証に近づくことを快まず 恥ずべし(いた)むべし」とある。どうしたらよかろうかということではない。喜びがなく意欲がないという現実が南無阿弥陀仏である。「悲しむべし傷むべし」というこの現実が南無阿弥陀仏である。体験は本願に直結して南無阿弥陀仏となる。その南無阿弥陀仏が喜びである。南無阿弥陀仏が意欲である。南無阿弥陀仏以外に喜びを求めるところに問題がある。それは喜びとか意欲に執われているのである。そうではない。南無阿弥陀仏に満たされているのを「ただ念仏」するという。第二章には「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という。どのような現実が起ってこようとも、それが南無阿弥陀仏となっていくところに、感謝と懺悔と意欲とすべてが入っている、それを「ただ念仏」という。そういう天地に出されなければならない。それがこの第九章の中心問題である。

第九章は親鸞と唯円の問答になっていて、はじめに唯円の問いが出ている。そこには唯円自身の現実というものが出ている。一つは感情的な行きづまりであり、も一つは意欲がなくなったということである。

我々の生活の支柱はこの二つである。学生であろうとサラリーマンであろうと、若い人であろうと老人であろうと、生活の支柱は喜びと意欲である。どんなに貧しくとも、喜びがあるなら明るく生きていけるし、いかに恵まれた中にいても、喜びがないならば冷えびえしたものである。意欲があればどんな辛い生活の中でも生きぬいていけるであろう。けれどもどんな恵まれた中でも意欲がなければマンネリ化した生活になる。要するにこの二つが大きな柱である。しかし、時としてこの支柱が崩れる。その崩れた中からどうしたら立ち上がることができるかということを、唯円は親鸞聖人に問うている。仏弟子としての求道生活に喜びがなくなり、意欲がなくなった。それを「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎に候うこと、またいそぎ浄土へ参りたき心の候わぬは如何にと候うべきことにて候うやらん」という言葉で言っている。

「いかにと候うべきことにて候うやらん」というのは大変にわかりにくい言葉である。非常に屈曲した表現になっている。屈曲というのは、簡明率直にどうしたらいいでしょうかと言うことができなくて、折れ曲った形で、こういうことがあってはならないのにそうであるということは一体どういうことでございましょうかと、まがりくねった表現で言う。そこにこれを問うた人の複雑な気持ちがよく表われている。率直には言いにくいことである。「長年聞かせて頂いておりますのに、現実はこのようなことでございます。これは一体どのようなことでございましょうか、どうしたらいいのでございましょうか」と、胸におさめておくことができず、自分でも解決つかずに、仕様なしにおそるおそる言っている心がよく出ている。これは初心者の言葉でなくて、かなり聞法した人の言葉である。喜びがなければならぬ、意欲があるはずだ、それなのにない。かつてはあったのに今はない。そういう人の言葉である。

この第九章の問題に我々は必ずぶち当るのである。一回だけではない。一生のうちには何回もぶち当るようになっている。従って第九章は非常に大事な章である。生涯を通ずる重要な問題をはらんでいる。

「よくよく案じみれば」というのは、唯円の問いに対する親鸞の答である。「案ずる」とは考える、思案する。「よくよく案ずる」とは深い思惟である。


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