十六、死なんずるやらんと心細くおぼゆる

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

「いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細くおぼゆる」。この文章は親鸞聖人が本当に心細く思われたのであろうかどうか。聖人の自らのことであるのか、そうでなくて、「たとえばわしでも病気の時は」というたとえ話であるのか。

禅宗の人の話を聞くと、死に対しては非常に明快な答を持っている人が多い。甲州の快川和尚(恵林寺の住職)は天正十年(戦国時代の終り)に武田勝頼が織田信長に滅ぼされて滅亡する時に、このお寺も焼き打ちにされて快川和尚も死ぬ。寺を包囲されて火をつけられたその時に、弟子達と一緒に威儀を正して山門で焼け死ぬのである。「安心必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も(また)涼し」という偈を残して死んでゆかれた。「火も亦涼し」とは男性的でまことに痛快である。

中国、宋の時代の無学禅師は元の兵によって寺を包囲された。皆逃げていった中でたった一人残って、元の兵が大きな刀をつきつけて打ちおろそうとするその時に偈をよんで、「電光影裡春風を斬る」と言われた。元の兵は恐れて斬れず、遂に助かるのである。死を前に少しもたじろがない禅者の風貌が躍如としている。

法然上人は建暦二年、亡くなられる前八十才の時、「浄土を(ねが)う行人は病患を得て(ひとえ)にたのしむ」と言われた。病気にかかってもう助からないという時、その病気が浄土へ生まれてゆく縁となり、却って楽しみとなると、お念仏して悠々と死んでゆかれた。

これに対すると、わが親鸞は第九章でみる限り「いささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細くおぼゆる」と言われるから、どうも心細い。男性的でなくさっぱりしないように思うが、こういうものであろうか。本当にこの第九章の言葉は親鸞ご自身の体験であろうか。自らのことであるのかどうか、論のあるところである。我々の感情としては、親鸞さんもも少ししゃんとして「心頭減却すれば火も亦涼し」ぐらい言うて死なれたら心強いのだがと思うし、首に刀をつきつけられても「電光影裡春風を斬る」ぐらい言うて悠々と死になさったらどうだろうかと思う。

第九章は親鸞自身のことでなくて、一般に浄土へ参りたき心のなくて、病気をしたらこういう心細いことも思われると言われたのであって、親鸞自身のことではない。唯円がここの所は自分のことを言っているのだという人もある。このことはどう考えたらよかろうかという問題である。

川上清吉というお方がある。島根県浜田の御出身で島根大学の教育学部の教授をしておられたが、後に停年を待たずに退職され、全国を廻って仏法のお話をされていた。このお方の本を見るとこの人は最後は癌で亡くなられるが、はじめ九大病院をたずね、次に阪大病院をたずねて診断を受けられた。そして最後に「あなたは癌であと三カ月しかもたない」と言われた。その時のことが『川上清吉選集』二巻のどちらかに書いてある。自分はあと三カ月のいのちという宣告を聞いて、はじめてわかった。『歎異抄』第九章のこの文は決して親鸞御自身のことではない。聖人のことではない。聖人が病気のとき心細く思われたのでは決してないとわかった。なぜかというと、自分はその宣告を聞いて何ともなかった。あと三ヵ月の命と思うて念仏して、何も心細くなかった。こう言われている。

臼杵祖山師(九州の方)も最後は癌になられた。医者は、手術したらもしかして助かるかも知れんと言ったが、それを断って悠々として死んでゆかれた。癌を私の業と受け取って死んで行かれた。

真田増丸師(仏教済世軍の創始者)は盲腸が悪くなり腹膜炎を併発して死なれた。盛んに痛い痛いと言われるので弟子達が「先生どうかお念仏を」と申したが、先生は大喝一声「そういうことはもう済んでおる、今は痛いんじゃ」と言うて、痛い痛いで死になさったという。

藤秀璻師、広島出身、東大印哲科を出て広大講師をしておられた。お寺の住職で著書に『歎異鈔講讃』がある。この本は最近復刊され、非常にすぐれた書物である。この書によると、これは聖人のお言葉であると頂いておられる。自分は若い時から体が弱くて何度も死にそうになった。その度に「死なんずるやらんと心細く思う」ておった。『歎異抄』を頂いて聖人もまたそういうお心持ちであったのかと有難く思うた。禅宗の坊さんのような快刀乱麻を断つような表現でなく、女々しいともみえる表現であるが、実に凡夫に徹しておられるのが有難いと、この人は聖人自らの体験であると見ておられる。

蓮如上人の『御文章』四帖目十三通には次のように言われている。上人の御晩年である。「夫れ秋さり春さり既に当年は明応第七孟夏仲旬頃になりぬれば、予が年令積りて八十四才ぞかし、然るに当年に限りて殊のほか病気に侵さるる間、耳、目、手、足、身体こころやすからざるあひだ、これしかしながら業病のいたりなり、又は往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり、これによりて法然聖人の御語に曰く「浄土(ねが)う行人は、病患をえて偏にこれを楽しむ」とこそ仰せられたり、然れどもあながちに病患をよろこぶ心更に以て起らず、浅ましき身なり、()づべし悲しむべきものか」とある。どちらとも言い難いがしいて言えば、心細くおぼゆる方ではないかと思う。

このように大体二通りある。「心細くおぼゆる」ことは親鸞聖人自らのことであろうという人がある。また、そうではないという人がある。我々はどう考えたらよいのであろうか。理想的にいえば、仏教者にとって死ぬということは何でもないのではないか。何もかも超越して、死ぬるも生きるもまかせはてて、心細くも何とも思わぬというふうになるのではないかと思う。そういう人もあり、また、いやそうではないという人もある。それを我々はどう考えるか。

皆さんはどう思いますか。聖人はすっかりまかせはてて心細くは決して思われなかったと思う人?そうではない、やっぱり聖人は心細く思われたのではなかろうかと思う人?わからん人?なかなか多いが正直でいいですね。これははっきりしておかねばならない。

仏法を聞いてしっかりやっていったならば、だんだん徹底していって、遂に最後は大悟徹底し、めでたしめでたしとなっていき、生活もしゃんとし、周囲にも問題が起らず、幸せになるのであろうか、どうか。先程の真田増丸師は痛い痛いと言って死になさった。弟子達は念仏をと申したが、今は痛いんじゃと言って死になさった。或るおばあさんは長年聞法して徹底した人であったが、晩年は脳軟化症になってしどろもどろになった。そして毎日毎日タンスの中から財布をとり出して千円札を数えておった。この人は本物だったのだろうか。まだ仏法が徹底していなかったのではないか。もし徹底していたならば、たとえ脳軟化症になっても朝から晩まで南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で、銭を数えるなどということはないのではないか。あの人の根性にはまだ金に執着するものが残っていて、最後の土壇場にそういうものが出たのではないか。こういう風に思われる。

私はこの時いつも思う。私はもっと徹底していて、頭がどうかなったならば必ず一万円札を毎日毎日数えておるだろう。貯金通帳を出しては引っこめ、引っこめてはまた出して毎日毎日計算していることだろう。しかし何も心配はいらない。どんな事をしても決して心配はいらぬと家内に言っている。

お釈迦様は三十五才で悟を開かれて、四十五年間釈迦教団を支えて多くの人を育て、八十才で亡くなられた。その晩年はめでたしめでたしで幸せ一杯で終られたかというと、そうではない。釈尊が一番大きな苦しみに出合われたのは七十五才前後で、亡くなる四、五年前にとてつもない二つの大きな事が起きた。一つは自分の出身の釈迦族が滅亡する。隣の国の軍に攻められて全滅してしまう。二つには釈迦教団を援助してくれたビンバシャラ王がその子阿闍世から殺される。釈尊はそれをどうすることも出来なかった。この二つをとどめることが出来なかった。特にビンバシャラ王の件は自分のいとこの提婆が、しかも自分の教団に長くおって、それが分派行動を起して釈迦教団を脱退し、新しい教団を創るためにおこした事件である。その時阿闍世を抱きこんで、その阿闍世が父のビンバシャラ王を殺して提婆側について彼を援助した。釈迦を本当に大事にしてくれたビンバシャラ王一家が悲劇の中に落ち込んでいく。それを助けてやることができない。そして教団の分裂まで起るのである。この分裂は後に舎利弗が出かけて行って、提婆が連れて行った弟子達を連れて帰ってくる。提婆は孤立し、やがて阿闍世も提婆から離れるが、こういう大悲劇が起った。我々は釈尊ともあろう人の晩年にそういう悲劇など起る筈がないと思う。仏法を聞いていけば最後はめでたしめでたしになるだろうと思うが、釈尊自らそうではない。

親鸞聖人は九十才で亡くなる五、六年前に、わが子善鸞を義絶せざるを得なかった。おそらく五十才前後であったろう善鸞と親子の縁を切りなさったのである。弟子達からのつきあげもあってどうしようもなかった。こういう悲劇が起っている。

理想主義で考えると、こんなことは起る筈がないと思う。聖人は幸せにおられるに違いないと思うが、事実はそうではない。

私は病気によって聖人が「死なんずるやらんと心細く」思われたのではないと思う。私自身においては川上清吉先生と同じく、死は私に恐怖を与えて心細く思わせるものではない。死も私の人生であり私が通過せねばならない通過駅であって、それは私において心細いことではない。川上先生と同じく、聖人は何とも思われなかったが、一般論として心細くおぼゆると言われたのであろうと思う。それでは藤秀璻先生や他の人が言われたのは間違いかというと、それも間違いではないと思う。聖人が心細く思われてもかまわないと思う。それはなぜか。

『歎異抄』の第十三章に、「さるべき業縁の催せばいかなる振舞もすべし」とある。これを頂くと、私は今はしゃんとしているが、しかるべき縁が起ったならば、どのような振舞をしでかすかわからないものを抱えている。今は死に対して心細く思うことは毛頭ない。けれども最後までそうかと言われると、そうだと断言はできない。どうなるかわからないという一面を持っている。何が起るかわからない。それはすべて私の業である。私の長い長い過去が私の深い深い煩悩、深い深い習気として残っており、それが色々な縁によってまき起されてきたならば、どんな行動をするかわからない。先程言うように毎日一万円札を数えるかも知れないし、死にたくない死にたくないと言って死ぬかも知れん。虚空をつかんで残念だと言って死なねばならんかも知れぬ。何が起るかわからない。が、しかし何が起ってもかまわない。たとえ心細く思ってもかまわない。そういうものの届かない天地が与えられている。

行いすまして悠々と死んでゆけるかも知れないし、心細く思うかも知れぬ。思ってもかまわないし思わなくてもかまわない。そういうものの届かない無底の底を与えられて、悲しみも憂いもあらゆる経験も、どのようなていたらくになろうとも、そういうものが遂にもの言わぬ天地を与えられているのである。それを平生業成(へいせいごうじょう)という。往生の業は平生において既に終って成就している。死にざまはどうなるかわからない。しかしどうなってもかまわないのである。心細く思うてもかまわないし、思わなくてもかまわない。そういう私の経験的なもの、形にあらわれるもの、あるいは心に思うものが、何ら動かすことのない世界をすでに与えられている。それを南無阿弥陀仏の世界、念仏の世界という。だからどちらでもいい。私は聖人の自らのことではないと思う。が、あってもかまわない。

大体死に対する考え、あるいは死だけでなく物事に対する考えに二つのタイプがあると思う。一つは毅然として恐れないというふうになれる人。も一つはなれない人のタイプ。ちょうどそれは血液型で言えばO型とA型の人のようなものであろう。O型が全部そうとは限らないが、割にしゃんとしていて死など問題でないというタイプとなりやすいのではないか。A型はどちらかというと優しい人で、何やかや考えてくよくよするという人が多いように思う。O型は禅僧型で「火も亦涼し」と言える人。A型は、火は熱いと言うタイプ。どちらもあるからいいのであって一方だけではつまらぬ。火もまた涼しという人ばかりでは世間はギスギスして面白くない。両方なければいけない。何事も両面が必要である。決断型と優柔不断型とある。私はどちらかというと決断型である。一直線に進みたい方である。私の家内はどちらかというと優柔不断型であって、あれやこれや考える方である。だからその言っているのを聞いていると、やはり教えられることが多い。なる程なと思う所がある。どちらも長所がそのまま欠点である。

死に対して一方は凡夫型である。死ぬのがこわい。あとに残っている者のことを思うと死にたくないと思う。そこで死なんずるやらんと心細くおぼゆることになろう。片方は聖道型であり決断型である。きまったならばやりとげようという方である。どちらが偉いということではない。どちらも「さるべき業縁の催せばいかなる振舞もすべし」である。

我々はそういうタイプにこだわり、かくあるべしという命題にふり廻されるのであるが、実はどちらでもかまわない。悲しみも憂いも届かないように、人間の持ち合わせたものが届かない世界がある。そういう人間の持ち物がものを言わない世界、いずれもいずれも南無阿弥陀仏になっていく世界がある。それがこの章である。

死が聖人自らの問題であるのかどうかを考える時、我々はも一つ死の問題をつっこんで考えることができるであろう。

私自身は「死なんずるやらんと心細くおぼゆる」ということについては、決して聖人ご自身のお考えではないと思っていた。こんなに生ぬるいことではないと考えていた。林田茂雄という人の、『親鸞をけがす歎異抄』とかいう題名の本がある。その中にあったと思うが、私もこれは唯円のあやまりだと考えていた。が、その後これは聖人の御体験でもいいのである。たといそうであっても、そのようなものの届かない世界を与えられて、「煩悩の所為である南無阿弥陀仏」と聖人が超えていかれた世界がある。聖人は真に凡夫に徹したお方であると言える。しかしこれは聖人自らのことではなくて、聖人も実は「浄土を(ねが)忻う行人は病を得て偏にこれを楽しむ」と念仏申されて、死に対して心細くおぼゆることはなかったとも言える。両者ともに成り立つと私は思う。私は聖人のご体験ではないという方が好きなのだが、ひるがえって考えてみると、両方共に成り立つと思う。そこに凡夫型であれ聖道型であれ決断型であれ優柔不断型であれ、そういうものを超えて悲しみも憂いも遂に届かない世界があることを思わされる。

「心細くおぼゆることも煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」である。死に対する問題をどう思おうと、全部許されている。問題は平生業成というところにある。本当に念仏を聞き開いて平生において往生浄土の身になるということが一番大事な問題である。そして、出てくる私の心や行いが何であろうとも、すべて南無阿弥陀仏になっていくということが一番大事なことである。こういうことを教えられている。

第九章は我々が聞法のはじめから死ぬまで一生涯頂くべき章である。何回も何回もお世話になり何回も何回も頂きなおして頂くべき章である。初心の人も、よく聞いた人も、遂に聞き貫いた人もそうである。

私の先生は五十四才で亡くなられたが、先生の看病をされた奥さんの日誌の中に、先生が死の床にありながら何回も何回も頂いておられたのは、この第九章であったと書かれてありました。ついに病床から立ち上がることのできなかった先生が、最後に何度も頂かれたのがこの第九章であった。第九章は「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」この一句に極まっている。これが九章の中心点であり、つづめである。これを頂かれたのであろう。

ついでに申しておくと、今から十数年前、私がまだこの第九章がよくわかっていなかった頃、ある長年仏法を聞かれた人が九十才過ぎて入院された。私がお見舞に参上した時はもう意識がなくてお話ができなかった。が、それまでの状態を付き添いの人から聞いた。意識のなくなる前には、「自分は長年聞いたがこういうことでいいのであろうか」と、見舞の人に対してしきりに聞かれたという。私はこの人に「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」と一言ってあげる力がなかった。それを今に至るも時々思い出すことである。大事な大事な問題である。

これに似たも一つ同じ言葉がある。それは『歎異抄』後序の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案すればひとえに親鸞一人がためなりけり」である。「かくの如きのわれらがためなりけり」というのは、「かくの如きの親鸞一人がためなりけり」ということである。


ページ頭へ | 十七、かくの如きのわれら」に進む | 目次に戻る