十二、しかるに

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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「喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり」という現実がある。も少し前を見ると、喜びが足りない、意欲がわいてこないという現実に対して「しかるに仏かねて知ろしめす」とある。「しかるに」というのは大事な言葉であって、このような現実に対する深い驚きと深い転回がこもっている言葉である。「しかるに」というところから仏教の転回という問題が起ってくる。

我々はいつも言うようにドングリである。厚い殻に入っていて風に吹かれるところころと転び、水に押し流されている流転の存在である。「しかるに」とは、そのドングリの現実を知って大悲したもう如来の心である。平坦な事実を打ち破るようなものを表わす時に「しかるに」という。「しかるに」という所から仏心の転回が生まれてくる。

我々は現実のみに明け暮れしている。第九章で言えば私に喜びがない、それをどうしたらいいだろうか、これではいけないのではないかと、ドングリの殻の中で明け暮れして悩んでいる。その中に閉ざされている。「しかるに仏かねて知ろしめす」とは、この現実を打ち破るような驚き、転回を表わされたものである。転回と解決は「しかるに」から始まる。この驚き、転回、平板な現実を打ち破るもの、それはこのような私の現実を見ていて下さるという仰ぎ見る世界の事実である。そこに私を見ておって下さった、私を知っていて下さったという如来に対する大きな感銘が表わされている。

我々は何かに閉ざされる。その一つは教である。こうすればこうなると説かれていると、その中に閉ざされて観念化してゆく。それを破るものは「しかるに」である。私が実際そうやってみても教の通りにはならない。この「しかるに」に現実の発見がある。求道、進展、転回は「しかるに」から始まる。従って「しかるに」を持たない人は教の中に閉ざされて観念化し、進展しない。

喜びがなく意欲がないという深い現実に閉ざされている私に、「しかるに」如来の大悲がかけられている。この転回、驚きが論註の場合と逆になっている。現実に閉鎖されて「いかにと候うべきことにて候うやらん」と歎いている。私に仰ぎ見る世界が与えられていたのだ、うつむいて自分の心だけを見つめ、あくせく自分の心だけを考えていた者が、仰いでみるとそこに「しかるに仏かねて知ろしめす」のである。ここに深い驚きと転回がある。閉鎖的現実の打破がある。この「しかるに」が我々のものにならなければいけない。こういうのを驚きをたてるという。昔から驚きをたてることが大事だという。

驚きがないのは感動がないことである。感動は私の心を揺り動かす驚きである。厚い殻の中に閉ざされていると、それがあたりまえのようになり、繰り返しになってそこから出ることができない。閉ざされている殻が教であっても、現実であっても同じく感動がない。しかし、「しかるに」という驚きがそれを打ち破るのである。そこから揺り動かされるものが生まれる。

仏はずっとずっと前からそのような私を知っていて下さるのである。この驚きを「しかるに」といい、仰ぎ見る天地を持つという。

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