八、如来の発想

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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如来の発想を発願という。如来の思い、如来の考えである。

如来とは何か。小さな我々の世界を包んでいる大いなる世界を一如といい真如という。大きい小さいはスケールの問題だけではない。空間的時間的ひろがりというだけではない。高次元を言っている。この大きな世界から小さな世界へ働きかけがある。これを如来の発願という。如より来たる姿を如来という。そこに如来の本願がある。本願とは、始めから自然にあるものを本という。大きなものの小さなものに対する発想(発願、本願)は至純である。これをまこと、まごころという。如来の本願にはまごころがある。これを南無という。南無とは「来たれ」、「かえれ」、「出でよ」である。自己主張でなく自己顕示でなく、名聞、利養、勝他でない、まごころである。これが人の心を動かすのである。これに動かされたのが釈尊であり、龍樹、天親である。それは一貫して変らない、相続一貫して働きかけてくる如来のまごころは純一相続なる働きである、これが南無阿弥陀仏である。汝大いなる世界にかえれ、汝大いなる世界に出でよと呼びかける如来のまごころが一貫相続してやまない。そこには連帯と愛情と尊敬と責任感がある。如なるものにとって小さな私が自己の問題なのである。親は子に対してどうしても働きかけずにはおれないものがあるように、大きなものが小さなものと一体となろうとして呼びかけてくる。これが如来の発想であり南無阿弥陀仏である。

人間の発想と如来の発想はどこが違うのか。人間の発想はどうしても不純である。また、動揺して決定的でない。そして続かない。如来の発想は純粋であってまごころがあり、決定的であって動かない。そして相続一貫して私に呼びかけてくるのである。

「よくよく案ずる」とは、人間の立場で深く深く考えたのではない。如来の発想が親鸞の発想となった。如来の考えが人間の考えとなった。そこに深い考え方、相手と常に一体となって考えていく考え方、純一相続の考え方が出てくる。これを「よくよく案ずる」という。そこに人間の上に、万人の思い及ばないような深い考え方が成り立つ、これを信心の智慧という。

我々は喜びがない、意欲がないという問題にぶつかった時、なぜだろう、どうしたらよいだろうと考えるが、解決は出てこない。唯円も考えあぐねて聞いているのである。我々にもこのような問題が出てくる。「私は勤行をしているがどうしても続きません。どうしたらよいでしょうか」「念仏していますがなかなか純粋な心で申せません。どうしたらよいか」「会座に出ると感激するが家に帰ると薄れてしまう。どうしたものでしょうか」。よくよく考えるのだが、こうだという結論が出ない。そしてそのうちによくよく案ずることもしなくなるのである。

我々人間の発想は、表面からみると慳貪嫉妬の発想である。慳は出し惜しみ、貪はむさぼり、独占、嫉妬はやきもちである。慳とは物質や金に執われることである。子供は無邪気であるが一方から言えば慳である。人間性丸出しである。赤ん坊は握ったら放さない。これをもぎ取るには手間がかかる。貪であって皆自分の所に集めようとする。また嫉妬心が強い。うまくやっている子を見る他の子供の眼はジェラシーにかがやいている。これが人間である。慳貪嫉妬が表面にある不純さである。ところがこの底に無明(愚痴)がある。愚かさである。本当に我々は愚かさだらけである。物の道理がわからない。その愚かさの底に放逸がある。私の思い通りにしたいというものである。これが根底にあって愚かさを生んでくる。その愚かさが慳貪嫉妬となる。聖親鸞という歌があって二番の終りは「愚かさ知らぬ我をこそ」とある。正に愚かさ知らぬ私をこそ聖人が相手にして下さったのであるという歌である。愚かさと放逸の下にあるものを顛倒という。自己中心、深いエゴである。これが放逸を生み愚かさを生み慳貪嫉妬を生む。更にもう一つ下にあるものが疑である。疑いとは如来無視であり如来反撥である。如なるものなどを持ってこなくても、人間は人間の力で解決できるじゃないか、いやそうしなくてはならぬと思う。これを疑いという。

如来の発願が人間の発想となると、如来の純一無雑な考えがわれらの上に成り立って、「よくよく案ずる」という深い考えが生まれる。そのためにはこの人間の発想の一番奥深くにある疑いというものが打ち砕かれねばならない。人間の一番底にあるものが打ち砕かれて、「よくよく案ずる」ことができるようになる。親鸞聖人のお言葉で言うならば「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」である。我々がどうして弥陀の五劫思惟の願を案ずることができよう。我々は小さな殻の中にいて大きな世界のことを案ずることはできない。それは到底不可能である。彼が私を育てて、私の中にある根本的な障害を打ち砕いてはじめて「よくよく案ずる」ことができる。人間の考えでなしに如来の考えが人間の上に成り立って、「よくよく案ずる」のである。この時人間は、慳貪嫉妬に非ず、愚かさを超え放逸を超え顛倒を超えて、本当の意味で客観的に、深い考えができるようになる。そこに真に客観的、真に理性的な思惟が自然に出てくるのである。これを「よくよく案ずる」という。それが我々の上に純一相続をまき起こしてくる。

「よくよく案ずる」とは深く考えてみるという意味であるが、我々の考えではない。

蓮如上人の『御一代記聞書』(蓮如上人の晩年のすぐれた語録)の中に「思案の頂上と申すべきは弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし、この御思案の道理に同心せば仏になるべし」とある。思案の頂上とは、思案する、考える、思うということの中で、一番すぐれた一番深いもの、それは五劫思惟の本願、如来の発想以外にはない。そこに最も純粋な思惟がある。最高のまごころがある。それ以上のものはない。この弥陀如来の「思案の頂上」が親鸞の「よくよく案ずる」となる。人間が「よくよく案ずる」と、下手の考え休むに似たりといって、結局もとの所にかえってくる。最も深い考え、まことの考え、最も純粋なもの、それを「弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし」という。この御思案(如来の発願(ほつがん))の道理に同心したならば、即ち私の心が南無阿弥陀仏に本当にうなずいて領解することができたならば、人間は殼を破って広い世界に出て仏陀(本当の自覚者)の心を心とすることができるのである。

「同心とて別になし、機法一体の道理なり」。大きなものが小さなものの上に生きて一つになる。それが同心ということである。今は寒い寒い真冬であるがやがて春が来るだろう。春が来ると春という大きなものが小さなタンポポの上に生きてタンポポの花を咲かせる。小さなつぼみが開いて花となるところに、大きなものが小さなものの上に生きている。これを機法一体という。大自然が本当につぼみの上に生きるならば、つぼみは花となって咲く。人間の上に大きなものが生きたならば、必ずそこに殻を破って「よくよく案ずる」心となるのである。その時に、人はいとも小さな存在でありながら、しかも大きなものを生きる覚者となる。そこに如来の五劫思惟の本願、即ち思案の頂上がわれらの思案となる。深い深いものの考え方、高い高いものの考え方ができるようになる。それを「よくよく案ずる」という。如来の発願が人間の上に成立するところに最高の思いが成り立つのである。


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