七、人間の発想

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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「よくよく案ずる」というのは人間親鸞が夜も寝ずに考えたことではない。人間の発想を超えた深い言葉である。では人間の発想とはどのようなものか。

人間の考えの基礎になるものは、知的立場と道徳的立場の二つである。知的立場とは、知性とか理性とかを言う。なぜこうなったか、どうしたらよいかと、原因、経過、結果と順を追うて考える。科学的というか合理的というか、そういう立場である。喜びがなくなった、意欲がなくなった、なぜだろう、どうしたらいいのだろうと考えることが大事なことである。自分の心が落ちつかない時、なぜそうなのか、貪欲か腹立ちか、愚痴かと考える。しかしながらなぜ私の心はこうなったのか、どうしたらよいかと考えてみても、人間の発想では、喜びのない自分の心に喜びや意欲をまき起こすことはできない。

も一つは道徳的な立場である。価値判断、善し悪しという。善い、悪い、こうあるべきだというふうに、善し悪しで考える。喜びの心があるはずだ、感謝の心があるはずだ、それがないのは悪い。ファイトがあるべきなのに、ないから悪い。このように善し悪しで考えるのが第二の立場である。

人間の発想には不純性をふくんでいる。人間の知的な考えにも不純さがはらまれている。不純さというのは自己中心である。自己顕示的である。

審議会というのがある。内閣の審議会とか各省の審議会のほかに地方にもある。これにそれぞれの自治体が施策を考えていく上で諮問をする。審議会では自治体が出した原案を審議して、それに対して答申をする。国の場合は法律、都道府県の場合は条例で人数が決められていて、この審議会に諮問をしなければならないようになっている。

先般、老齢年金を六十五才に引上げるという中央の審議会の答申があって、厚生省がその件を採択しているが、今もごたごたしている。その答申の内幕が私によくわかる。学識経験者を集めた審議会の人達が知的立場に立って審議をしているのだから、公正妥当な結果が出ると思うが、そうはいかない。なぜ出ないかというとサクラが居る。「原案賛成」と言うのがいるのである。根まわしといって、原案を審議会に出す前に提案側は何人かの委員に根まわしをしておいて、「賛成」と言う委員が確保されている場合が多い。で、まわりの人が賛成すると自分だけが反対したのでは具合が悪い。他の人はどうだろうかとまわりの人の顔色を見る。どうもほかの人も賛成するらしいなと思うと、反対側に立つ人はあまりいなくなる。また反対しても通らない。私にはその事情がよくわかる。福岡で県の公害対策審議会長を長くやっているからである。お前もそうだろうと言われるかも知れぬが、そうではない。私はもう一つ根をまわして、原案を持ってくる前に意見を言って修正しておくから、あまり変なことにはならない。各種の審議会は非常に形式化している面をもっている。学識経験者であるからそんなことがあるはずがないのに、どっこいそうはいかないのである。自分だけが反対すると人からどう思われるかというような名聞、利養、勝他などの心が物を言って、なかなか純粋な結果にならない。

研究室に閉じこもって研究をしている人や、学校で先生をしている人は純粋でなければならないのに、どうしても最後に出てくるものは名聞(みょうもん)(名誉心)、利養(りよう)(利害打算)、勝他(しょうた)(競争心)であって、最後の判断が不純なものとなりやすい。知性的判断が必ずしも純粋なものとは一言えない。

人間の発想の特色の一つは、動揺しやすさである。「これだ」といって決断しがたい。決定(けつじょう)しない。こうだと決めたのにすぐふらふらし始める。人間はどうしても心がきまらないのである。最後になると必ず動揺する。手相人相、星占いなどで、必ず当る点がある。「あなたの性格は、こうだと何かを決めても最後になるとふらふらと迷うところがありますね」というのは皆に当たる。誰にもあるから全部当たる。見てもらう方は自分にだけぴったり当たったと思って、占いがよく当たるなと思うがそうではない。皆に共通であるから誰にも当たる。結婚しようと思う人がある。あの人と結婚しようと思って結納も交した。確かに決断したのだが、「ひょっとしたらも少し良いのがいるんじゃないか」と、最後の瞬間まで迷う。そういうものです。これが人間の発想である。

も一つ、続かないこと。継続一貫しないのである。人間の発想は朝考えたことと昼考えたことと夜考えたことが違う。たとい朝から夜まで変らなくても次の日には変わる。だから一年、二年となるととても続かない。あなたの為ならば命もいらないと言っていた人が、三日たつともう嫌いということになる。これが人間の発想である。

「よくよく案ずれば」というのは、このような心でよくよく、考えたのではない。曇鸞大師はこのことを、人間の発想によるものは不淳であり不一(不定)であり不相続であると言われた。不純性をもつのを不淳(淳ならず)という。動揺しやすいのを不一(一ならず)という。続かないのを不相続(相続せず)という。


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