一、求道における危機

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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第九章は聞法求道してゆく者が、一度は必ず出合わねばならぬ問題について述べられている。あなたも私も誰も彼もが通らねばならない求道の危機をいかに超えていくかというのが、この章の問題である。誰も必ず一度はこの章にお世話にならねばならぬものを持っている。一道を貫き通すにはいくつもいくつもの難関があり関門があるが、この第九章の問題は、それらの難関の最後のものであると言えるであろう。


一 求道における危機

求道上の危機は、外なる危機と内なる危機の二つに大きく分けることができる。外なる危機とは、一つは他の人の善が羨しく思われる時である。今自分は本願の宗教を頂いているが、それ以外の仏教やキリスト教の人達は、自分とは別の道を歩んでいるのに結構しっかりした考え方を持ち、他への働きかけもすぐれている。そのことを羨しく思い、何か自分が負けている気がする。或いは向こうの方がいいと思う。それらの人に対して劣等感に陥る。これは内なる危機であり、自信の喪失である。

また、宗教に対して疑問を持つ。同じ道を歩む人、長年仏教を聞いている人、よき師よき友と思っている人が、現実生活に色々な問題を引き起しうまくいっていない。言う事とやる事が遠い。その人の家庭は治まらない。周囲の人も善く言わない。長年聞法しているといいながら大した事はないではないか。このようによき師よき友と思っていた人に対する深い疑問や絶望を感じ、尊敬ができなくなる。これが危機である。また、宗教がなくても結構やっている人があり、世間道を要領よくやって成功している人もある。これらを見る時、宗教は必ずしも要らないのではないかと思われる時がある。これらはいずれも外からの危機である。

また、無責任な、無理解な批判や誤解を受けたり、人から悪く言われたり批判を受けたりすると動揺し自分をピンチに追い込む。

曇鸞大師はこのような問題を二千年近くも前に申しておられる。聖人はこれを『教行信証』行巻に引かれている。「難行道とは五濁の世、無仏の時におい阿毘跋致(あびばっち)を求むるを難となす、この難にいまし多くの途あり、(ほぼ)五三を言いて以て義の意を示さん」。一つの道を求むることは大変に困難なことである。特に五濁の世無仏の時においてはますます大変なことであると言って、その内容を五つあげられる。

「一つには外道(げどう)相善(しょうぜん)は菩薩の法を乱る」。これが先の、他の人の善が羨しく思われる時というのに当る。外道とは仏教以外の宗教や道徳、相善とは外側から見える善行。私がそういうものに動かされて羨しく思い劣等感に陥る。「二つには声聞(しょうもん)自利(じり)は大慈悲を()う」という。声聞とは、宗教者ではあるが小さな自分の世界に閉じこもっていてまだ徹底しない。聞法の姿勢だけはできているがその生活、生きざまは不徹底である。この人に対して疑問を持つ。この点から言えば仏教を本当に邪魔しているのは常に仏教者それ自体である。仏教を誤解するのは、仏教者の行動を見て疑問に思う時である。例えばここに人がいる。「あなたは何か宗教をやっておられますか」「創価学会です」「何年位になりますか」「もう十五年位です」。これを聞いたら我々はこの人を創価学会の代表者として見る。で、この人の生きざまが感心したものでないと、創価学会は大したことはないなと思う。本当は、その人でもって全体を評価してはならないのであるが、我々はそうは思わない。「仏教をあなたは何年やっていますか」「十年です」「ふーむ、十年やってもこの位か」という疑問を持つ。仏教を聞いているが、もし不徹底であると大慈悲を妨げている、仏教を障害しているのである。求道者にとっては長年聞いている人の生き方に対して、あれが仏法だろうかと疑問に思う時、求道に対する遅疑逡巡が起る。

「三つには無顧(むこ)の悪人は他の勝徳を破す」。無責任な無理解な人が冷たい批判や間違った批評をして私をやっつける。それに傷つけられて深いピンチに立つ。「四つには顛倒(てんどう)の善果は能く梵行(ぼんぎょう)を壊す」。要領よくやって成功している人の成功、即ち顛倒の善果は清浄の行を破壊していく、現代風に言えばこの四つになる。私共がこのような外に起ってくることに疑問を感じ、また内に自信を失い劣等感を持って崩れていく。これは曇鸞大師の背も現代も同じことである。

これらを一括して「雑縁乱動(ぞうえんらんどう)して正念を失す」という。雑多な縁が外から動いてきて私の心がゆすぶられ、これに伴って内から色々な問題が出てきて、一歩も前進が出来なくなる。これが外なる縁である。

もう一つ内なる問題がある。すべて相続一貫の為の心の支柱は喜びである。聞法、求道に喜びがある。張り合いがあり手ごたえがある。得るところがある。よかったという喜びがある。これらがあると継続できる。が、しかしやってもやっても聞いても聞いても雲をつかむようなことでは張り合いがなく悲しい。聞いているうちにわかってきて、よかったなと思うようになるのが喜びである。喜びと、も一つ支えになるものは意欲である。やる気である。よしやろう、頑張らなくちゃというものが心の支えである。この喜びと意欲が心の支柱である。

求道だけでなく我々の実際の生活もそうである。たとえ人が何といおうと、他の人がどんな生き方をしていようと私は私、私はこの道に喜びを感じ、この道を本当にやろうという意欲を持って、やらずにはおかぬというものが内にあるならば、人の事など問題ではない。たとい生活の上で貧乏であり、病気がち、家は小さい、子供は思うようにいかぬと、色々困難はあっても私はやりぬくのだという意欲があるならば、外側の条件はどんなに充分でなくてもやり貫くことが出来るであろう。反対にどんな大きな家に住み、金があり調子よくいっていようとも、何の張り合いもなく喜びもなく、暗く、心の中は惨憺たるもので何の意欲もないならば、いずれ生活自体が崩壊していくであろう。問題は心に支柱を持っているかどうかということである。

この心の支柱が感謝、明るさ、張り合い、生き甲斐というものである。それと意欲、ファイト、或いはやらずんばやまじという気魄である。意欲と喜びがどんな難関でもつきぬけてゆける原動力である。

内なる心の支柱がありさえすれば外は何であろうともやっていける。第九章はその支柱がなくなった危機を言っている。心の中に張り合いがなくなった。喜びがなくなった。それが「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎に候うことまたいそぎ浄土へ参りたき心の候わぬ」という問題である。心の中に支柱を失った私の生き方を、どうしたらよいのでありましょうかというのが第九章の問題である。これは皆が必ず一度はぶち当らねばならぬ問題である。人は順風に帆をあげてすいすいといつもうまく進んでいくというわけにはいかない。必ず二度も三度も幾度も困難にぶつかりぶつかって進むしかない。そしてとうとうこの心の難関を解決して、はじめて揺ぎない天地に到ることができる。この章の問題は非常に切実なものである。

『歎異抄』は第十章までは師訓篇、顕正篇といわれ、親鸞聖人のお心が出ている。その結びである第十章は非常に短い文章である。わずか一行、「念仏には無義をもて義とす、不可称、不可説、不可思議の故に」と、これが総まとめである。詳しい内容は第九章で終っている。

第九章は事実上の師訓の最後をかざる章、そこに我々のぶつからねばならぬ問題、心の支柱の崩壊という問題に処する道が出ている。まことによく配置されている。信仰、求道というものは連続的なものではない。連続的というのは一階から二階、更に三階とつながっていて、続けておればそのうち目標に達するというようなものをいう。が、求道はそういう連続的なものでない。非連続である。ある所までは進むことができるが、その先はストンと切れている。これを断絶という。断絶とは、絶壁にぶつかるというか、それ以上はどうしても届かない空白がある。そこに必ずぶつかるようになっている。そのぶつかりの最後は第九章の問題である。「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎に候」という問題である。「又いそぎ浄土へ参りたき心の候わぬ」という問題である。この問題が求道における最後の危機である。越すに越されぬピンチである。この問いを「いかにと候うべきことにて候うやらん」(一体どうしたらよいのでございましょうか)という。従ってそれはずっと求道し続けてきた果ての問題である。それ故に師訓篇の最後の問題として出されているのであろう。折角求道してきた者が心の支柱を失って行きづまるという問題の解決が、大きな断絶を超えて飛躍を遂げる舞台である。

喜びと意欲は求道上の支柱であり、また生活上の支柱でもある。学生は学生なりに、主婦は主婦なりに、男性は男性なりに生きぬくためには、やる喜び、張り合いと意欲がわき立ってはじめて、いかなる困難をも頑張りぬいていこうということになる。それなのに、それが無くなったとなると心は崩壊してゆく。これは誰もが経験することである。私にはそんな経験はないという人は、まだそこに行く途中にいるからである。行きつく所まで行かないからである。人はこの問題に一生のうちに何回も出合うことがあろう。第九章はその度にお世話にならなければならない章である。

信心の動揺という問題は『歎異抄』第二章に出ている。関東の国からはるばる、聖人の所へ尋ねて来た。その答が第二章である。「おのおの十余箇国の境を越えて身命を顧みずして尋ね来らしめたもう御こころざし、云々」とある。わざわざ関東の国から出てきた理由は何か。一つには日蓮上人の折伏、もう一つは善鸞の異義という問題が起って、関東に残った弟子達が動揺してたずねて来た。外側に日蓮上人や善鸞が現われて、それに困って尋ねてきた。だが、それらが信心の動揺の原因ではない。そういう外の問題は縁である。条件である。原因は内にある。動揺するのは信心の火が小さいためである。

ローソクの火は風で消える。消える原因は風であると思うが、風は原因ではなく縁である。その同じ風が大きな火ならば火を増々大きくする。焚火はいよいよ燃えさかる。ローソクの火を消す風が一方ではますます火を盛んにする。風は縁であって、火が大きいか小さいかが問題である。大きな火ならば消えない、却って風によって盛んに燃え上がってくる。

危機も同じことである。本当に内がしゃんとしていれば全てのものがピンチでなくチャンスなのだ。危機においてかえって信の火が盛んに燃えるのであって、問題は信の支柱がしっかりしているかどうかにある。


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