二十一、ことに(あわれ)みたもうなり

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」とは、人のことでなく自分のことである。

私は次のうちどれに当るか。

いそぎ浄土へ参りたき心の持ち主

いそぎ浄土へ参りたき心なき者

現実に取り組んで努力精進している者

現実無視の存在

私は親孝行者

私は親孝行という程ではないが、不孝という程でもない。

私は不孝者
 私は親孝行者と言いたい。少なくともやる気は持っていると言いたい。だが本当にそうであろうか。あなたはどう思いますか。孝行だと思う人?不孝だと思う人?中間だと思う人?なかなか正直でいいですね。中流意識といって、この辺が多い。前の問いも同じ。いそぎ浄土へ参りたき心の持ち主とまではいかぬが、心のないという程でもない。その中間であるという人が多い。

現実に取り組んで努力精進しているかといわれると、それ程ではないが「いつも無視」でもない。その中間だと思う。中途半端である。自分はやっているというのは自己肯定である。

問題は心の根である。心の根を問題にしているのが宗教である。心の根はどっちを向いているのか。よき師よき友の教、弥陀の本願というものに心が向いているのか。いそぎ浄土へ参りたき心、この心が心根にあるのか、これが第九章の問題である。我々は行いとしては、親に対してこれだけのことをやってきた、精一杯やってきたという思いがある。

親孝行ということについて自分のことを言って申訳ないが、私は親孝行息子といわれて、写真入りで新聞に出たことがあります。小さい時から多少評判になっていたとみえて、新聞記者がわざわざ私の所に来た。近所の人もあんたは孝行者じゃと言ってくれました。が、お前はどう思うているかと問われると、私は本当に親不孝だったと思います。それは親に対して孝行せねばならぬという義務感があった。

厭々ながらやったのではないが、義務感でやったというところがあって、本当の心の根というものは、親の恩を感じてその親の恩に報いようとか、こうするのが私の道だとかいうのでなしに、浅い浅い所にいた。心の根は親の方を向いていなかった。これが、私が親不孝だと思う一番の根拠です。親が私を思うてくれたことは考えずに、自分がこうあるべきだということのみに執われて、本当の心根は親の方を向いていなかったというのが偽らざる私の感じである。本当に親不孝だったなあと思う。

「浄土へ参りたき心」はないのかといわれると、「ある」と言いたい。こうもした、ああもしたと言いたい。が、その心根はどうか。「心根はどうか」といわれると、あるとはいえない。中間とも言えない。やはり心根は反対を向いている。名聞、利養というか、愛欲の広海に沈没するというか、名利の大山に迷惑するというか、世間の方を向いている。これが偽らない私の本当の姿である。このような問いを自ら問うてみると、自分の姿がだんだんわかってくる。

自己を肯定するところに信心はない。永遠の否定道に立つ、即ち私の心根を考えた時に、そこに「真実の心なし」「清浄の心なし」と言わざるを得ない。この永遠の否定道に立つというのが仏道の内容であり親鸞の道である。これを「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」というのである。これを凡夫性の自覚という。群萠とめざめるという。道端に生えている名もなき小草のように、本当に立派なもののない衆生われの自覚、凡愚のめざめを、永遠の否定道という。

この反対を菩薩としての自覚という、求道者としての自覚を持つという。しかし仏は十方衆生よと呼びかけられている。衆生としてめざめることが如来の本願を信知する者の思いである。菩薩にあらず求道者にあらず、学者にあらず物知りにあらず、一文不知の愚者悪人である。凡愚の衆生としてめざめるこの人を「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」とめざめた人という。これを「ことに憫みたもうなり」とわかるのを信心という。

私はかって菩薩という言葉に非常に関心があった。ちょうど龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』を頂いていた頃である。それをまとめて『龍樹の仏教』というのを書いた。少しどえらい名前をつけすぎましたが、副題をつけて『十住論における人間形成』という本にまとめた、この頃は非常に元気盛んな四十代で、われ菩薩たらんとして張り切っておった。菩薩という文字が出ると非常に嬉しかった。ここに私の行くべき道がある。ここに我ありというわけで、意気軒昂として自分を叱咤激励し、人も励まして張り切っていた。が、だんだん「衆生」の方が懐かしくなった。今は十方衆生よ、諸有衆生よという文字を見ると、ここに私がいると思うようになった。そこにりきみ、気負い、善人意識がだんだんと溶かされてきたのであろうと思う。否定道に立たされたのである。我菩薩に非ずと知らされたのである。

「真実清浄の心なし」とは、「弥陀の本願まことにおわします」ということである。『歎異抄』第二章に、「弥陀の本願まことにおわしまさば…」とある」「おわします、されば」である。この「おわします」というところに、深い深い尊敬の心が出ている。「まことである」のでなく「まことにおわします」のである。こういう表現は英語やドイツ語にはない。彼等には敬語がない。「おわします」である。「何事のおわしますかは知らねども、(かたじけ)なさに涙こぼるる」とは西行法師の歌であったか、そこには深い謙虚さがあり、深い深い愛情があり、深い深い感銘があり感謝がある。ありがとうございますという心がにじみ出ている。一言でいえば感動がある。

「まこと」は真であり実である。誠である。真は偽ならず、実は虚ならず、誠はまごころである、弥陀の本願に深い深いまごころがこもっており、それは決して変らない真実である。その如来の清浄真実の心の前に立たされた者が、「弥陀の本願まことにおわします」と感動に、揺り動かされて表白する。そこに「清浄真実の心なし」という凡夫の自覚がある。如来の呼びかけの中にむいて始めて凡夫の自覚というものがある。これを永遠の否定道に立つという。我々は最後の最後まで「浄土へ参りたき心の候わぬ」という心根を問われている、相、形ではなく心の根っこを問われるのである。これを如来の前に立つ者といい、「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」という。「申し訳ありません、長い長いお育てを被っておりながら、私の心の根っこは全く反対の方向を向いている者であります。本当に真実の心、清浄の心で仏の方を向いているのでは決してありません」と言わざるを得ない、これを諸有衆生、聞其名号といい、一切群萠のめざめという。これを永遠の否定道に立つといい、信心というのである。信は必ず否定道である。善導は出離の縁あることなしと言われ、聖人は地獄一定と言われた。極楽一定でなく、地獄一定というところに、無限の自己否定がある。

いそぎ浄土へ参りたき心なき者とは誰であるのか、私である。

永遠の否定道に立つところに、ことに憫みたもうなりということがある。そこに私の姿(清浄真実の心あることなし、出離の縁あることなし)がある。照らされて照らされて照らしきられて生きるところに、いよいよお粗末な私の姿がある。同時に、ことに憫みたもうなりということがある。これが「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」である。私の姿が照らされていくそのままが南無阿弥陀仏と念仏申すのである。

私の姿が現実、現実がそのまま「ことに憫みたもうなり南無阿弥陀仏」である。現実が念仏である。現実が念仏になる。これを永遠の否定道という。

これが「いそぎ参りたき心なき者をことに憫みたもうなり」ということの大筋の意味である。

弥陀の本願という縦糸に貫かれて我々は粗末な自分を知らされるようになる。このお粗末な姿こそが横糸である。それが「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」である。こういう者にこそかけられた本願であったとわかるのを「ことに憫みたもうなり」という。ここは前の文章の「かくの如きのわれら」の内容を「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」という相で表わしている、

仏法が本当にわかるきっかけの一つは、恩知らずということであると私は思う。これを問いにしてみると次のようになる。

「私は恩知らずではなかろうか」。これは素朴な問いでピンとこない人もあるだろう。が、これが深い転回を生むきっかけではないかと思う。「私は恩知らずといわれる人間ではなかろうか」。ここから宗教は始まるのではないか。

このような問いを持つことから仏法は具体的にわかっていく。このような具体的な問いを持たない限り、人はいかに熱心に聞法しても、結局うわすべりをして空しく過ぎていくのではなかろうか。

「これにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく往生は決定と存じ候へ」というところに、聖人の喜びがあふれている。

「これにつけてこそ」とは、前の文章の「いそぎ参りたき心なき者をことに憫みたもうなり」「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけりと知られていよいよたのもしくおぼゆるなり」とあり、「これにつけてこそいよいよたのもしく」となるのである。

まことにお粗末なこの私が本願のお目あてである。このような私のためにこそ立てられた本願である。このような現実を思うにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく、現実が念仏される。

第九章には、たのもしいという言葉が二つある。たのもしいとは信頼できるとか、本当に頼むにたることをいう。私が全幅の信頼をかかげて私全体を託すことのできることをたのもしいという。本当に託すことのできる、本当にたのもしいのが大悲大願である。

しかし、いつも私が頼もしいと思っているのは大悲大願でなしに私の心、私の行い、其の他である。これを普通は信頼している。私の心に喜びが生まれ、努力精進の意欲がまき起り、私の行いが継続一貫して今日も続いて勤行し今日も続いて聞法して、いよいよ自分がたのもしくなる。これを頼んでいる。

蓮如上人は「弥陀をたのむ」と言われた。弥陀にたのむでなく弥陀をたのむのである。依憑(えひょう)である。依はよりどころ、憑はたのむ。依憑とは信心をあらわしている。信心とか安心とかいうとわかりにくいので、わかりやすく「弥陀をたのむ」と言いあらわされたのが蓮如上人である。この「たのむ」は「たのもしい」から出た言葉といわれる。

我々は私の心、私の行いをたのみとしていて、弥陀をたのまない。だから喜びや意欲がなくなると真っ暗になり意気阻喪して、これは一体どうしたことでしょうか。どうしたらよいのでしょうかとお尋ねしなければならなくなる。

我々はわが心わが力をたのみとして本願をたのまない。そのような自分であることを知らして頂くと、このようなていたらくであればこそいよいよたのもしい、南無阿弥陀仏である。

わが心わが力をたのみとする者は必ず行きづまる。しかし行きづまってもかまわない。そこから始めて「いそぎ参りたき心なき者をことに憫みたもう」本願である。南無阿弥陀仏である。念仏を称えるところに転回がある。


ページ頭へ | 二十二、行巻のことば、信巻のことば」に進む | 目次に戻る