四、「…の心の候わぬは如何にと候うべきことにて候うやらん」

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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この言葉は大変に屈曲している。ストレートにずばりと言わないで、持ってまわったというような複雑な心理を表わしている。そうでなければならないのにそうでないというこの現実は、一体どのようにしたらよいのでしょうか、どんなふうに考えたらよいのでございましょうかと、言いにくい事を苦労しながら言い表わす言葉となっている。

この人は今まで聞法してきた長い間に、ある時は感激して喜び、ある時は意欲を燃やして意気盛んな体験があった。そして今もそれがあるべきなのに、今はない。これは一体どういうことでございましょうか。どうしたらよいのでしょうかと、表現が非常に屈曲している。複雑な心がこもっている。

あるべきだ(当為)私にも昔はあった(体験)が、今はない(現実)。これではいけない、どうしたらよいかというものが、この「いかにと候うべきことにて候うやらん」という文章の中にこもっている。

高原覚正師の『歎異鈔集記』には、体験執という言葉を出しておられる。体験執とは体験の私有化である。私はかって喜んだことがあり、今まで長く聞いてきたのであるということが、私の体験としてとらえられている。私の体験とした時にはその功績、手柄が私にあるわけである。俺がやったんだ、わしがわしがという自己顕示欲の強い人が現代は非常に多い。あの橋は俺がかけてやったんだ、あの予算は私が取ってきたんだと言って、自分の手柄にする議員は山程いる。自己顕示欲の強い人はやり手ではあるかも知れんが本物ではない。本当のものというのは謙虚である。入学試験に合格して、「よく頑張った」と言われた時、自分がよく頑張ったから合格したのだと思っているのは人間として浅い。これは体験の私有化であり自己顕示である。本当は体験は私有化すべきではない。それは沢山沢山の人の協力や御恩によって出来たのである。それがわからないところに問題がある。

「念仏申し候えども」は自己顕示、自己中心、自己主張という殻のむきだしであって、念仏になっていない。かつて私は燃えておりましたというところに体験の私有化がある。本当はあなたの力でできたのではないではないか、あなたが自分のものとして主張するのではなしに、お返ししなければならない。感謝しなければならないものがあるのではないのか。この体験執という問題は、非常に今日的な課題である。自己主張に陥って、感謝すべきものを持たない。

私の体験は尊い縁を頂いて恵まれたものである。縁とは條件である。最も大きな條件を因といい、その他の條件を縁という。色々の條件を恵んで貰ってできたのである。そのことがわからない。これを二十願の世界という。「本願の嘉号をもっておのれが善根とする」これを体験の私有化といい、「念仏申し候えども」というのである。本願の嘉号とは南無阿弥陀仏。おのれが善根とは自分の手柄、体験、事業。南無阿弥陀仏という弥陀の名号を自分の手柄とするのである。これを積み重ねていくところに体験執がある。私が南無阿弥陀仏にお遇いするというまでには、沢山々々の尊い縁に恵まれていたのである。我々が日本に生まれて仏法を聞くということは、まことに簡単にできることではない。なぜなら、三千年の昔印度に生まれた教が、チベットやシルクロードを通って中国へ来るまでには、長い長い御苦労の歴史がある。経典の運搬とその翻訳だけでも大変なことである。ましてそれがまた日本に伝わるには、とてもとても大変な御苦労がある。その教が今ここにある。その教に私が遇うということは、誠に尊い縁であると感謝せずにはいられない。そうであるのに、わしがわしがということになって、私の体験としてとらえられるところに深い自己主張、自己中心、自己顕示がある。それ故本物にならぬのである。そういう世界にとどまることを二十願の世界という。

本当の世界を生きる人はどういう姿をとるか。それは自分の成功においては全てをお返しするところを持っている。「仏様のおかげ、南無阿弥陀仏」と感謝して全部お返しするところを持っている。それを執われないという。信心の世界という。失敗においてはすべてを自己の不徳に帰して念仏する。「私の業であります」と罪を背負う。これを道の行者といい求道者といい、念仏者という。亡くなられた先生(住岡夜晃先生)はそう言っておられる。我々はその逆である。失敗したならば全部それを返す所を持っている。あいつが悪いから、あそこがいけないからと、失敗したら全部向こうに責任を転嫁し、成功したらその手柄は全部自分のものにする。それはまことに自己中心と言わねばならぬ。自己主張と言わねばならぬ。この体験執というところに人間の最後の問題がある。子供っぽい大人に接していると体験執ということを強く感じる。本当の人というのはそういうことを言わない。「たまたま、行信を獲ば遠く宿縁をよろこべ」である。成功の全てをお返しして、「有難うございました」と言って自分がお礼を言うておられる。失敗したら「私の不徳の致すところでありました。申し訳ないことでありました」と言って自分が背負っていく。そういう特徴を持っている。

本当の人間の成長とは何かというと、自分が子から親になるということであろう。子供はまだ発達しない段階で、自分がやったやったという。親はそうかそうかと言って喜んでいる。が、もし子供が失敗したら親は、「わしが悪かったのう」と言うであろう。失敗においてはそれを担うのが親である。親だからこそ担うのである。失敗を担い得るというところにその人の成長がある。子から親になっているのである。その時には体験を私有化しない。全て御恩でございますとなっていく。我々は善悪に執われて、「これでよし」「これではいけない」ということに終始する。そうではない。善いも悪いもすべて私が念仏申すというとこまで育てて頂くということが求道である。喜ぼうと喜ぶまいと、意欲があろうとなかろうと、深い深い恩徳の中である。本当にお詫びをしなければならぬ、お礼を申さねばならぬ。これが成長を遂げることであり、進展することである。「本願の嘉号をもっておのれが善根とする」ところに深い深い自己顕示欲があり自己主張がある。

この体験執を法執という。法(ものがら、現実)に執われているという。言いかえると現実に執われている。現実に振り廻されて背負えない。法執は智障ともいう。現実に対して本当の智慧が働かない。現実に振り廻されてそれに勝とうとする。喜ぶべきであるのに喜べないという現実に打ち勝って、喜ぶようになりたい、意欲がない現実に対して、それに打ち勝って意欲を燃やさなければならないと思う。これを現実に振り廻されているという一信の智慧に欠けているのである。

この反対は何か。現実の前に破れ去る、現実に対して頭を下げる、頭を下げて念仏する。「長年聞かせて頂いているのに、まことに喜びのない私、意欲の起こらない私で申し訳ありません、南無阿弥陀仏」と、その前に頭を下げていくことが、法執が打ち破られることである。

第九章は我々が一生のうちに何回も頂かねばならない章である。求道における危機の内容は、喜びがない、意欲に欠けてマンネリ化することである。これは体験執であり法執である。それを打開するには具体的にどうしたらよいかというのがこの第九章である。この問題は皆が必ず通らねばならぬものであり、また何回も何回も頂きかえしていく必要のあるものである。

「親鸞もこの不審ありつるに唯円房おなじ心にてありけり」

これは実に深い言葉である。先ず「親鸞も」という時は、いつも言うように非常に大事なことを言われる時である。我々で言えば、「細川巌は」ということになるが、これはめったに言うことではない。普通は、私はとか、われとか余とか言う。それを「親鸞は」と、自分の名前を名告って言っておられるところに、非常に大事なことが述べられていると言える。

「ありつるに」。「ありつる」とは、「ほととぎす鳴きつる方を眺むれば、ただ有明の月ぞ残れる」という歌があるが、「鳴きつる」というのは「鳴く」という動詞に「つる」という完了の助動詞がついたもので、今までずっと続いて鳴いていたという現在完了を表わす。ほととぎすがずっと鳴いていた、今の今まで鳴いておった。(持続)、「ありつる」も同じである。親鸞もこの不審がずっとあった。今まであったという意である。また、「ありつる」には確認(たしかにあった)の意もあると辞書にある。親鸞も確かにあなたと同じ不審がずっとあった。それであるのに、という。「ありつる」というのを国語の解釈を離れて曾我量深師は、「ありつつあるに」と言われている。これも存続であり確認の意味である。「ありけり」というのは感嘆あるいは詠嘆を表わす。ようこそそうであったかという深い感慨がこめられている。「親鸞もこの不審が確かにあった。それであるのに唯円房も同じ心であったのかなあ、そうであったか」と嘆声を発せられたお心が出ている。

なぜ嘆声のお心があるか、それはこの「しかし」という言葉が出てくるためには、深い求道がなければ出てこないからである。観念的な聞法では出てこない。また、聞きっ放しというところでは出てこない。深い思索があればこそ出てくる言葉である。ようこそお前もそこまで求道してそのようなことを尋ねてくれたなあと言ってほめておられるところがある。この御言葉によっておそらく唯円は感泣したのではあるまいか。


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