五、個人体験(私体験)を超える

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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今唯円は、念仏申しているけれども喜びも意欲もわいてこないという問題を提起した。そこには「私だけがこうなんだ」という思いがある。人はそうでないのに私だけがこうなんだという思いに閉じこもりそこを脱しきれない。これを個人体験(私体験)に了るという。

すべて私体験には二つのものがつきまとう。一つは優越感である。私だけが喜んでいるという優越感である。も一つは劣等感である。人は皆喜んでいるのに私だけが喜べないんだというところに深い劣等感がある。いずれも私的感情である。私的体験には必ず私的感情が伴っている。これを殻という。喜ぶのも殻の中、喜ばぬのも殼の中、それは本物ではない。私だけが喜んでいるというのも間違いであり、私だけが喜べないというのも間違いである。そういうものを超えねばならない。それを超えた世界が「親鸞もこの不審ありつるに唯円房同じ心にてありけり」である。

優越感と劣等感はもともと同じものの表裏である。殼に閉じこめられているのである。これは万人が持っているもので、あなたも私も、大人も子供も皆持っている。「この着物は、この靴は、私だけが持っている」ということになると大分元気がいいだろう。が、私だけが持たないということになると劣等感になる。これが一番問題である。

現代の課題はある角度からいうと、優越感と劣等感の問題の解決である。ごく小数の選ばれた金の卵だけのエリートコースを歩いて行って、国民の大半はそうでないコースに追いやられている。両者のへだたりは実に大きい。片方は深い優越感を持ち、片方は深い劣等感を持っていて、極端にいえば日本は水と油のようになっている。これでよいはずはない。現在私立の高校や大学の中には、学力が非常に落ちているところがある。私立高校の生徒に接して本を読む力、考える力をみてみると、実に寒けがするような実力のなさを感ずる。私立大学に何回か行ったことがある。私立といっても一概には言えないが、Bクラス以下の私大で講義をすると、大体共通点は講義を聞かずにざわざわしている。前の方に居る者だけが聞いている程度である。全部がそうではないがそういう所が非常に多い。学力が非常に落ちている。そういう中で劣等感の中に落ち込んでいくのである。世の中が大きく色鮮やかにこの二つに分けられている。劣等感と優越感を打ち砕いて、皆友達なんだとお互いに呼びかけるようにならねばならない。エリートコースを歩いている人は優越感ばかりかというと、そうではない。同じ国家公務員上級試験に受かっても、その中で優越感と劣等感とがある。この二つのものが水と油のように相混ざらない状態で、色々な問題を巻き起している。大抵の問題は優越感、劣等感から起る。暴走族というのがあるが、あれも深い劣等感から起るといわれる。バババババーッと走ることによりそれをまぎらわせようとする。ギャンブルもそれに打ちこむことで劣等感による精神のひずみを緩和しょうとするのであって、ギャンブルが繁盛するのは心の歪みによるものが多い。心の異常な緊張で人間的な情緒を失ってしまう。これらが現代の大きな課題である。

これは自分だけがこうなんだというところに問題がある。即ちあらゆる体験が私体験に終り、個人体験としてとらえられている。「念仏申し候えども」というところにも、私だけが――というものがある。

すべての体験は因縁業果報である。もと(因)があり條件(縁)が加わり一つの行為、体験(業)がなされてくる。どのような私的体験でも、それがなされてくるには深いたねがある。しかし種があるだけでは発芽はしない。必ず土の上に置かれ、水があり光があり、適当な温度があって始めて発芽する。縁によって体験ということが出てくるのである。

私のよい体験(喜び、意欲、決意)は必ずもとがある。われらのよい現実、よい行為には必ずよい因と縁がある。私がやったというのでなく、私というのは因か縁の中のごく一部であって、ほかに大きなもとがある。多くの条件が整ったのである。私がたとい世に認められるようになったとしても、私一人が勉強し努力したというぐらいでどうしてそうなることができよう。色々の條件によって与えられてきたのである。その因は親であり仏様である。如来の御加護であり、沢山沢山の人の引き立てであり守りである。そういうものがあって私の現在は成り立っている。従ってどうして私は優越感を持つことができよう。因と縁があってこうなったのだということがはっきりしなければならない。私の悪い体験(悪い現実、悪い行為)にも因があり縁がある。因は私の無明にある。私自身の甘さにある。私自身の迷いにある。それに多くの條件が揃い、しかもその條件を私が無批判に受け入れたところから起っている。

従って、よい体験の因は御恩であり、悪い体験はすべて私の責任である。これがわかる所に信心がある。信心というのは、よいことはすべて如来にお返しし、悪いことはすべて私が引き受けることができることにほかならない。それを道の行者というのであろう。

問題は、私だけがこうなんだという考えを離れること、そこに体験の普遍化、客観化がある。

体験の普遍化、客観化とは、よい事はすべて大きなものに返し、悪い事はすべて私が引き受けることである。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」と、その悪い体験もまた大きなものにかえっていく。これを、個人体験を超える、私体験を普遍化されるという。これが小さな殻を出た姿である。

すべてが大きなものにかえる。南無阿弥陀仏にかえる。すべてが念仏にかえる。これを、体験を普遍化する、客観化するという。あるいは私的体験を歴史的体験とするという。歴史というと我々は徳川家康とか豊臣秀吉とか考えるがそうではなく、御苦労の歴史である。こういうお粗末な、喜べないという私的体験が、本願の御苦労の歴史とつながっている。これを歴史的体験という。「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」である。「かくの如きのわれら」というところに、あらゆる私の体験がこもり、しかもその体験が普遍化されている。

喜びとか意欲とかいうと我々は、何かホカホカするような喜びが出てくることと思い、意欲というと何か突き上げてきて頑張らなくちゃといった、ファイトに満ちた姿と思う。が、そうではない。喜びとか意欲が別にあるのではない。念仏である。すべて念仏である。念仏以外に喜びがあるのではない。南無阿弥陀仏に喜びがあり、南無阿弥陀仏に決意がある。それ以外の喜びや決意は長続きしない。一時的なものである。念仏が感謝であり、念仏が懺悔である。すべてが念仏にかえるというところに、個人体験を超えるということがある。


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