三、浄土へ参りたき心

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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「浄土へ参りたき心」というと、何か死にたいというように思われがちだが、これは誤りである。

浄土とは何か、清浄真実の世界という。これがどこかにあるのではない。地理的にどこかにあるのでもなく、場所的にどこか宇宙の一角にあるというものでもない。

土というのは現代的に言えば場である。磁石があれば磁場がある。磁場の中に鉄片が置かれると、磁石は忽ちこれを引きつけて磁石にしてしまう。そのように磁石が働きを持つ場を磁場という。

仏の場を浄土、仏土という。如来はどこかにあるのではない。われらの心に満ち充ちている。如来の照らすところ、心のすべてを照らしているのである。ただ我々がわからないだけである。我々は如来の大きな世界の中にいるけれども、それを感じ取ることができない。ドングリは燦々と照る光があってもそれを感じない。殻があるからである。光と水があってもそれを感じ取り、それを受け入れるという事がなければ発芽はしない。しかし、もしそれらを受け入れて発芽し殻が破れたならば、彼は光と水の場に立つ。磁場に置かれた鉄も、あまり錆びていては磁石に引きつけられない。錆が落ちると磁場が働いてくる。

浄土へまいるとは願往生心が生まれることをいう。真実に生き、仏において生きるというような願心が生まれることを願生浄土という。即ち彼の錆が落ち殼が破れて磁石に引かれるようになったのである。大きな現実の世界に立ったのである。鉄釘は親磁石の磁場の中で磁石になる。この子磁石の段階を菩薩という。仏の場で菩薩が誕生し仏に生きていく姿を願往生心といい、浄土へ参る心という。

願心とは実際にはどういう姿をとるのか。聞法しよう、しっかり精進しよう、少しでも仏法のお役に立ちたいという気持ちとなって出てくる。人間の中に本当の意味で「しっかり頑張らなくちゃ!」というものが生まれてくることを、浄土へ参りたき心と申すのである。楽をするためでなく、幸福になるためでなくて、自分自身が深まりたいというものを持つのである。


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