二十、いそぎ参りたき心なき者

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」とは、具体的にはどういうことか。

聖人のお言葉を借りると、「悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し名利の大山に迷惑して…」とある。

愛欲とは貪欲恩愛である。わが子わが妻わが夫というような、深い人間的な愛情を恩愛という。また貪欲の中に沈んでしまっている。これが先ず「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」の具体的な姿である。名利の大山とは名聞、利養の心である。人からよく思われたい、損をしないようにと思う心、迷っている心である。このように世間に引きずり廻されていることを沈迷という。迷没という。迷い溺れている。世間道に迷没しているのである。これを「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」という。

単に浄土を求めて進む心が欠けているばかりでない。それが欠けておれば必ず日常性の中に沈んでしまう。

この人生を世間道といい凡夫道といい、また、生死(しょうじ)の苦海(生老病死)という。そこに大きなものが働きかけ、深い深い呼びかけがなされている。呼びかける世界を清浄真実の世界といい浄土という。この「浄土へ参りたき心」がない時には、必ず世間道の中に沈んでいく。大きな世界に伸びていくことのない者は、必ず世間道に沈んでいる。それを「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」といい、「沈没」「迷惑」という。金がたまれば市会議員になろうとし、○○長というものになろうとする。また自分のポケットを肥やしたい。これを凡夫道、世間道という。

凡夫道とは『一多証文』に「凡夫というは、無明、煩悩われらが身にみちみちて欲もおおく(いか)り腹だちそねみねたむ心多くひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらずきえずたえずと水火二河の譬にあらわれたり」と、実によく言ってある。それが、いそぎ浄土へ参りたき心なき者の現実である。

「無明煩悩われらが身にみちみちて」。無明は愚痴であり愚かさである。自分自身がわからなくて自分をいつも正当化し、責任転嫁する。そこに深く殻に閉じ込められた姿がある。それを無明という。煩悩とは我見、自己中心の思いである。

貪欲、瞋恚、嫉妬が凡夫の道であり世間の姿であり、人生を生きていく私の実状である。その中に引きずり込まれてしまって沈み迷い、人生の上っ面を右往左往している。

水火二河とは、貪欲を水にたとえ、瞋恚を火にたとえられる善導の教である。貪欲や瞋恚は死ぬまでなくならない。が、問題はその中に沈んでしまうか溺れてしまうか、そこから立ち上がって超えていくそれが問題である。

縦糸がしゃんとしているならば、この縦糸に一生なくならない貪欲、瞋恚、愚痴が横糸になって織り込まれる。そこに貪瞋痴が大きな意味を持ってくる。横糸は縦糸によって織物の一部分となる。横糸あるが故に縦糸に意味がある。しかし、もし縦糸がなかったならば横糸は全く意味をもたない。縦糸を持たぬところに沈没、迷惑ということがある。

「いそぎ参りたき心」のない現実が、本願にたもたれて念仏になる。本願念仏が現実を支えるものになる。本願念仏と現実が離れない。私の現実が本願にたもたれる。現実が念仏である。煩悩即菩提である。

「いそぎ浄土へ参りたき心なき者」ということは、ただ単に私が念仏申さないとか、求道心がないとかいうことでは済まぬ。また聞法の意欲が失せてきたということにとどまらない。必ず世間道に沈んでゆくということである。いよいよ腹の立ち放題、悪口の言い放題。名聞、利養の中に足を突っ込んでゆく状態が深まってゆく。

「あの人は此の頃会座に出なくなったなあ」という時、ただ会座に出ないだけではない。電線を張るのに電柱が立っている。どんなにビンと張っていても真中はたるむ。私は幸せなことに到る所で会があるので、いつも色々なことを考えざるを得ない。ピンと張らざるを得ない。何を考えているかというと、飛行機の中でも汽車の中でも、今日話す内容を考えている。また、原稿を考えている。私にとっては話をすることが聞法であるが、もし私からそれを取り除いたら弛むに違いない。皆さんは月に一回や二回聞法の機会があってピンと張っている。私よりかなり間隔が長いですね。もしその一回が抜けると間は二ヵ月になる。大弛みに弛んであやうく電線が地につきそうになる。会座の間が抜けたという時はそれだけでは済まなくて、必ず沈没し迷没する、このことを心しておく必要がある。

「いそぎ参りたき心なき者」は、世間道の中に迷い、沈み、堕ち込んでいく。凡夫の本性をいよいよ発揮して貪欲、煩悩のお粗末なものが次々と出てくる。しかし縦糸がはっきりしていると、貪欲も瞋恚も、名聞、利養、勝他の心も次々と起るけれども、それらが縦糸によって保持されて念仏になる。そこに念仏生活がある。

「いそぎ浄土へまいりたき心」に似た言葉が第四章に「念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益するをいうべきなり」とある。これを、往相即還相という。

往相とは私が一本の縦糸をもって進ませて頂く、念じさせて頂く、聞かせて頂く。これを「いそぎ浄土へまいりたき心」という。いよいよ仏法を聞き、いよいよ念仏を申すという心である。具体的には自分が教(教を聞く)行(念仏申す)信(信知、自分の姿をわからせて頂き教の趣をわからせて頂く)証(相続一貫不退転)の世界を進んでいく。私の生活の中に『教行信証』を頂いていく。これを「謹しんで浄土真宗を按ずるに二種の廻向(えこう)あり、一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり、往相の廻向について真実の教行信証あり」という。私がいよいよ聞法し、いよいよ念仏し、いよいよ自分の姿を知り如来のお慈悲をわからせて頂き、いよいよ継続一貫進んでいくのを、いそぎ浄土へ参りたき心といい、往相という。

往相は必ず還相である。還相とは、人生の現実にたちかえること。いそぎ浄土へ参るということが現実の人生にたちかえるということである。往相は同時に還相である。これが浄土真宗である。

従来還相とは、一度浄土へ行って再びこの世にかえってくるというふうに言われていた。これでは何のことかよくわからない。一度死んでかえってくるとはどういうことか。具体的にはどういうことかよくわからない。

還相とは利他をあらわす。人生の現実にたちかえってきて、現実社会に働きかける。現実人生に取り組んでいく。これを還相という。それは死んでから後にこの世に帰ってくるというような非現実的なことではなく、実際への、現実への立ちかえりである。

ドングリが大地の上にある。このドングリが殼の中にある限りドングリころころである。流転である。風が吹けばころころである。もしこれが発芽をしたら、大地の中に根をおろし、岩の間に根を伸ばし根を張って伸びていく。この大地が現実人生である。虚空界に向かって芽を伸ばしていくという往相は、同時に還相(大地に根を張る)を伴う。しかし還相は意識にのぼってこない。ドングリの上に伸びるということが意識にあり、地にもぐっていくということは意識にのぼってこない。しかし、上に伸びただけ下にも伸びる。

この往相の姿が、いそぎ浄土へ参りたき心ある者である。その心は現実の大地への取り組みをもつ。往相は必ず現実に取り組む還相の働きをはらんでいる。

現実に取り組むという現実とは何か。自己自身の生活である。朝起きてから夜寝るまでの日常生活である。朝は何時まででも寝ておる、夜は何時まででも起きておるといった、しまりのないリズムのない、規律のない放逸の生活。言うていること、行い、考えていることがでたらめである。そのような自分自身の放逸の現実に取り組んでこれを改める。本当の仏法者は必ず自分の生活を規則正しくする。このことをあまり強調すると誤解する人がいて困る。誤解してはいけない。信心の人は必ず生活を考える。しかし考える人が必ず信心の人とは限らない。また、考えないから信心の人でないともいえない。考えることが信心の証明ではない。信心はそんなもので証明されるものではない。しかし、信心というのは必ず生活を考えるようになっている。

赤尾の道宗は「一日の嗜みには朝つとめにかかさじと嗜むべし」といわれた。しかし朝づとめはかかさじという心構えができたから信心だとは言えない。けれども信心の人は朝寝朝酒朝湯が大好きで、ということにはならない。そんなことはあり得ない事だろう。行い、思い、言葉を考えるようになる。人生の現実にたちかえってくるのである。いそぎ浄土へ参りたき心なき者はそうはならない。わが人生は好きなように享楽して大いに楽しもうということになりやすい。信の人は仏の前なる生活を持つから、そんな放逸な生活はできない。

また、現実とは私の家庭である。家庭における自分の立場、自分の役目、自分の責任を考えるようになる。主人は一家の長として、また主婦は主婦の役割というものを考えて家庭に取り組むようになる。そしてわが子が道の友となり、わが妻、わが夫が同胞となる。

また、現実とは私の職場である。職場でわが力をふるってそれを支えていこう、また少しでも社会のため皆のために尽したいと考えるようになる。

このように現実にたちかえるのを還相という。これを第四章には「また浄土の慈悲というは、念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益する」という。私がいそぎ浄土に向かっていこうというところに、実は現実への働きが秘められている。その表現としては、いそぎ仏になりて大慈大悲心をもって衆生を助けたいと、死んでから先のことになっている。けれども具体的にはそれが現実への深い取り組みになってくる。

ここに仏法の現実人生における意味がある。一人の人間が本当に殻を破って広い天地に出ていくということが、現実社会に本当に働く人として生まれ出る。無償の働きを人生に展開していく真の人間の誕生がある。これを還相という。これが仏教のもつ現実的な意味である。仏法にこれがなくなると個人的仏法になってしまう。ただその人が喜んでいる、ただその人が念仏しているというだけに終って、個人プレーになってしまう。従って、死んだら浄土とやらへ行って死後が幸せであるという話に終ってしまって、現実人生に対する働きを持たない。これでは個人の気休めにすぎない。仏法はそういうものではない。仏教とはもっと大きなものであって、本当に社会を支える人を生み出す働きである。

信心の人は必ず勤勉である。実によく働く。真の教育者であり正直者であり、巧まぬユーモアの持主である人が多い。善導はこれらを人中の白蓮華と言われた。

往相即還相、これがとても大事なことである。自分の願心がにぶってきたということは、ただそれだけにとどまらず、被害甚大である。その人自身がショボショボしてくると同時に、その周囲もシヨボショボするようになっている。もし逆に、一人の人が本当にシャンとしてくると、その人の周囲もまたハキハキとしてくるのである。


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