二十二、行巻のことば、信巻のことば

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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教行信証』行巻(12-39)を頂くと、御自釈に「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」とある。これが行巻全体のまとめである。「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶ」とは、大悲大願をたのみおまかせすること。「至徳の風静か」とは「寂静」である。至徳の風は信心をいう。畧文類(13-7)には「大悲の願船には清浄の信心を順風となし、無明の闇夜には功徳の宝珠を大炬となす」とある。信心の風である。

衆禍の波転ずとは、諸々の不幸の大波小波が打ち寄せてきたのが功徳に変ってしまう。功徳とは南無阿弥陀仏である。なかなかいい文章ですね。

信の巻を頂くと(12-17)一切群生海が出されている。「一切群生海、無明海に流転し(欲生釈には(12-57)「煩悩海に流転し、生死海に漂没して」とある)諸有輪に沈没し衆苦輪に繋縛せらる」。迷いの海におぼれ沈んでいるとある。

海が二つ出ている。光明の広海と一切群生海の二つであるが、実は一つである。一切群生海をおいて光明の広海はない。無明の海をおいて大悲の願船はない。それに乗じたならば無明の海が光明の広海となり、生死の海そのものが波静かな徳海となるのである。

一切群生海は現実である。この現実をおいては南無阿弥陀仏も本願もない。人生が本当に無明の大海であり生死海であることは、大悲の願船に乗じて始めてわかることである。

深い深い煩悩無底の海がある。この海は無明の海であり煩悩海であり生死海である。これが一切群生海即ち人生である。この中に流転、漂没し、迷いの考えに縛られ沈んでいる私である。

この海に大悲の願船がある。この船は一切群生海の中につかっている、と同時に海から出ている。大悲大願の船は煩悩の海を除いては無いのであるということ、これが大事なことである。

大悲の願船とは南無阿弥陀仏である。私に対する大きなものの呼びかけである。南無は来たれ、帰れであり、阿弥陀仏は無量寿、無量光である。私を命あらしめるもの、私に光を与え、無量寿無量光たらしめる働きを阿弥陀仏という。大いなるものわれに帰れという。この南無阿弥陀仏に乗託する、これを大悲大願をたのむ、大悲大願はたのもしいという。南無阿弥陀仏が私において南無阿弥陀仏と念仏になることである。

南無阿弥陀仏に乗託するわが身とは、無明の海に流転し、煩悩の海に沈み、生老病死の中を漂う私、この私が南無阿弥陀仏に乗託する。私の力をたのむのでなく私の力にたよるのでなく、南無阿弥陀仏である。そこに生死海がそのまま光明の広海になる。無明の黒闇に光が与えられる。

無明の海は光がないと見えない。光がないと闇ということがわからない。暗いということがわかるには明るさがなくてはならない。南無阿弥陀仏がわかると、私が無明の海に流転しているのがわかる。光を頂いて無明の大海にあることを知る。二つが一つである。

煩悩の発見が信心の働きである。生死の苦海とわかることが既に生死の苦海を超えている。衆禍の波転ずである。

迷いの人生において私が念仏申す身となるということが、そのまま迷いの超越である。大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶとはこれである。それがそのまま生死海に沈没している自己の発見である。

それを随順という。現実の発見である。現実に取り組むのである。現実に懺悔し念仏申していくことである。迷いの人生に念仏を得ることが大悲の願船に乗託することであり、超越の天地を与えられることである。これを、大悲大願はたのもしいという。

愚禿抄』(14-33)は聖人の晩年に、善導の教を中心に書かれたものであるが、その中に、「白道の巾四五寸」ということを解釈しておられる。白道とは信心である。四五寸とは、四大(我々のからだ)五陰(ごおん)(我々の煩悩、心)である。白道即ち信心は、我々の体と心の上に成り立つものであって、体と心をおいて信心はない。四大五陰の上に大悲の広海が成立するのであって、ほかにあるのではない。「大悲の願船に乗託して」といわれるが、譬に迷ってはいけない。乗るとは託すということで、大悲大願のたのもしさを言っている。南無阿弥陀仏がたのもしい。南無阿弥陀仏が成立することを言ってある。南無阿弥陀仏は我々の心と体の上に成立するのである。お粗末な心を良くして信心になるのでもなければ、体を改造してよくなるのでもない。この身このままである。このようなていたらくであればこそ大悲大願がかけられているのである。

私共の持っているこの『島地聖典』の『歎異抄』では第十八章に(23-12)「一紙半銭も仏法の方にいれずとも他力に心をかけて信心ふかくばそれこそ願の本意にて候わめ」とある。蓮如上人が写された蓮如本(岩波、角川文庫、金子大栄先生)には、「他力に心を投げて」となっている。『島地聖典』は「他力に心をかけて」となっている。色々の書物を読んでみると、「心を投げて」が正しいと書いてある。はじめは「投げて」だったのが、意味が通らないから「かけて」に変えたのだろうとある。

「心を懸けて」とは、そちらの方に心を向けてという意味。「心を投げて」とは帰投、投げ出すこと。たとい仏法の為に少しの寄附も出来なくても、他力に心を投げ出すのだという、この方がよくわかる。それをたのむ、託すという。仏の前にわが心を投げ出す、わが全体を託すのである。本願の前にわが心を投げ出すところに、大悲の願船に乗託するということがある。本願の名号にすべてを託して南無阿弥陀仏となる。一切群生海がそのまま光明の広海である。

「踊躍歓喜の心もありいそぎ浄土へも参りたく候わんには煩悩のなきやらんとあやしく候いなまし」。踊り立つような心もあり、いそぎ浄土へ参りたいという心も燃え立っているということならば、煩悩が無いのであろうかと疑わしい。あり得ないことだろう。「なまし」は、きっと……だろうの意。


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