十五、わが心の深き底

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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西田幾多郎という哲学者は昭和二十年に亡くなられたが、京大を退官後は鎌倉に引きこもり、更に色々と著作をされ、西田哲学というような独特なすぐれた哲学体系を作られた。先生は始め禅を修められたが、著作をみると後には深く浄土真宗の勉強をしておられたようである。この人の晩年の歌に、「わが心深き底あり悲しみも憂いもついに届かじと思う」とある。この先生の論文で私が心打たれるものは、最後の論文で「場所的論理と宗教的世界観」である。この論文をつくられた頃の歌であると思う。この歌の意味は無底の底ということである。深い深い心に立たされて、世の中の、あるいは自分の心の、悲しみも憂いも遂に届かないような、そういう深い深い心を与えられているという意味であろう。悲しみや憂いは日常経験するものである。難しい言葉で言えば経験的自我である。私が日頃毎日、悲しいことや心配事や、あれやこれやと種々に心を悩ますことが多い。そしてこれではいけない、もっとしっかりしなければと、安心立命という世界を求めてうろうろしている。これを経験的自我の世界という。今は悲しみや憂いにふり廻されているこの経験的自我が届かないような深い心を与えられた。「遂に届かじと思う」というところに、届かないと言い切らないで、非常に謙虚な表現になっている。非常にいい歌だと思う。「深き底あり」というと底があるように思うから、強いて考えれば「深く底なし」であろう。「わが心深く底なし悲しみも憂いも遂に届かじと思う」ということになろう。経験的自我を脱脚し、経験的自我がも一つ深いもので包まれて、悲しみも憂いも届かない、我々の日常の悲しみ喜びの経験がすべて南無阿弥陀仏になっていく世界を与えられた。経験的自我が念仏に転成される世界を賜ったのである。

転成とは悪を転じて徳を成ずる。経験的自我は私を引きずり廻わすお粗末なものである。それを転じて南無阿弥陀仏として下さるような世界を与えられた。その喜びをこの歌によって伺うことができる。

私の心が、喜ぶべきことを喜ばず、私が本当に意欲を燃やしていくべきであるのにそんな意欲もわかない。そういうことも遂に届かず、それが何も私を引きずり廻わさない。何も私を揺り動かさない世界に立たされている。言いかえると、何が起ってこようと何も心配のいらない世界を与えられて、あらゆるものを南無阿弥陀仏に転成されていく。こういう心をあらわす非常に適切な歌であると思う。

法の深信、機の深信ということを申し上げたい。法の深信とは、法に対する深い喜びである。大きな世界を賜うた喜びと感謝である。仏様に助けて頂いて本当に有難い、お聞かせ頂いて喜びに耐えないという心を法の深信という。

これに対して機の深信というのは、自分自身に対する深い懺悔である。地獄は一定すみかというような深い自覚をいう。私の罪の深さというものに対する深い自覚をいっている。

キリスト教や他の宗教はすべて法の深信を問題としている。聞いて喜びたい、深い幸福感を味わいたい。私に深い感動が与えられ、意欲が湧きあがり、安心感を与えられたい。それが願いである。そこで宗教というのは幸福感、安心感、意欲等を湧き立たせるものを得ることが目的になる。仏教も同じで聞いていたら何かしら幸福感、安心感、意欲、喜びが与えられるのではないかと期待している。

しかしながらそこに深いおとし穴がある。もしこのような安心感、幸福感というようなものが無くなったならば、淋しくなって深い動揺をきたす。法の深信を求めるおとし穴とは何かというと、

(1)        これではいけない、もっと頑張らなくてはいけないという、いつも緊張した行き方が要求される。これでは続かない。

(2)        この動揺はどうしようもない。誰もそうなんだとあきらめて前進しない。

(3)        自分はもう既に一遍幸福感、安心感を得たのだから心配はいらない。またそのうちに喜べるさというような居座り。

このように居座りや弁解を考える。そこに進展のなさとマンネリ化が生まれる。

親鸞の教は、機の深信に特徴がある、それは自分の罪の深さに対する自覚である。「地獄は一定すみか」といい、「出離の縁あることなし」といい、「いづれの行も及び難き身」というような自己に対する認識は、天理教にもキリスト教にも出てこないものではあるまいか。出ているかも知れないが、このように徹底しているものはないのではないか。ここが大変な点である。我々は安心感とか幸福感とか意欲を求めている。が、そこにはおとし穴がある。

それは感情的な火が消えると淋しくなって、色々なことを考えて自己弁解していくおとし穴に入り込む。真の問題の解決は機の深信にある。

「わが心深き底あり悲しみも憂いも遂に届かじと思う」を「わが心深く底なし喜びも憂いも遂に届かじと思う」としたらもっとわかりやすい。幸福感、安心感、意欲も、そして弁解もいかなるものも届かず、無用であるような深い心である。罪悪深重といわれ、地獄一定といわれ、いづれの行も及び難き身といわれるのは深い悲しみである。懺悔である。

このような喜びも悲しみもなお且つ届かないような深い心である。喜びも悲しみも南無阿弥陀仏になり、深い底のない、悲しみも喜びも遂に届かないような世界を与えられたのである。それが南無阿弥陀仏の世界である。寂静の世界である。

親鸞聖人の特徴は徹底した機の深信、徹底した自らへのめざめである。それは他の宗教に見られないものであろう。私は他と比較してこちらが優秀だという宣伝をしようというのではない。本当はキリスト教も徹底した罪の子という自覚を持っている。が、大体一般には神の愛の方が力説される。しかし本当の宗教者は機の自覚が徹底しているのである。

心に意欲を持ち、頑張らなくちゃといい、緊張感があり、はっきりした方向づけがあるのをたのもしく思い、そうでないと淋しく思う。それは法の深信に深い関係がある。が、これはまだまだ徹底しているとは言えない。本当は自己にめざめることが大慈に徹することである。

「松影の黒きは月の光かな」、月の光が明るく照っている、その光が本当に明るいということは、松影が黒々と見えてくるということである。機の深信という中に法の深信が入っている。私が本当に明らかにわかってくるところに、本当の法の徹底がある。自身の姿が真にわかるというところに法の深信が生きている。月の光の明るさを求めるところに本当の光はなくて、自分自身の影が黒々と見えるところにその光が照らしている事実かある。

昔の妙好人といわれる人達は法を非常に喜んだ。それは誰にも共通である。しかし本当の妙好人は必ず機の深信に徹した存在である。機の深信が徹底しているのが親鸞聖人の宗教である。

法の深信の具体的な姿が機の深信である。わが機がわかるということが大事である。わが姿がわかるということは、悪い悪い、お粗末だお粗末だと言って自分を責めつけるのかというとそうではない。悲しみも憂いも遂に届かじである。何ものも私を引きずり廻さない。このお粗末きわまる私が南無阿弥陀仏と念仏になる、浄土へいそぎ参りたき心のないのも、喜びのないのも、それが深い私の悲しみであるままが、そのまま南無阿弥陀仏である。「わが心深く底なし悲しみも憂いも遂に届かじと思う」。いかなるものも届かないという世界を与えられた、この天地には西田氏のこの歌が非常に適切であろう。


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