九、どうしたら如来の発想(発願)が人間の発想(思惟)となるか

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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人間の上にどうしたら深い考えが成り立つのか。先ず深い考え方、いわゆる思案の頂上とはどういうものかを、もう一度確認しておきたい。

(1)深い考え方(思案の頂上)

「思案の頂上と申すべきは弥陀如来の五劫思推の本願に過ぎたることはなし」。思案の頂上即ち深いものの考え方とはどういうものなのか。

第一に智慧の成立である。智慧について曇鸞大師が『論註』で言われている。「我心貪着自身の心を離れる」。これを智慧という。我心貪着自身心とは、わが心自身にむさぼりつく心である。これを離れるということが深い考えであり、思案の頂上である。我々はどれ程考えてみても自分を離れることができない。その心でいくら考えてみても純粋なものにならない。法律とか憲法とかいうものは条文化されて、それを守っていく裁判官とか警官とかは法律の番人であるという。だから誰が裁判官になってもその条文の通りにやっていけば、正しい裁判ができるはずと我々は思う。けれども決してそうではない。どんな法律があっても最後は人間である。人間が判断するのである。その時自身に貪りつく心を持っていると深い適応ができない。従って裁判官は、人間がしゃんとしていなければ本当の裁判はできない。どの法律をどう適用するかは、その人が深い智慧を持っているかどうかによって決まる。智慧を持つとは、自分自身にむさぼりつく心、即ち執われを離れねばならない。どんな執われかというと自愛である。わが身可愛いやである。いいところを見せたい、こうやった方が結局自分のためだという執われがあると、法律の適用もどうにでもなる。

ある所に税務署の人が来た。税務署というのは金持ちにはなかなか恐い存在である。重加算税というのがある。脱税の目的で申告をごまかした者には重加算税を課することができるということになっている。できるというところが面白いところで、その重加算税を取るべきか、取らざるべきかは税務署の判断にまかせられている。初めてであるとか、あまり悪意ではないから今回は免除してやろうというような配慮ができるようになっている。ところがよく注意して見ていると、相手が弱いと取り立て、強いと取らないという結果になっていることが多い。

税務署に対して申し訳ないが、私はそんな感じを受ける。法律があるからといっても、それをどう適用するかは智慧の問題である。自分の名誉心、これを摘発して点数をかせごうとか、ここで相手を負かしてやろうという勝他の心とかいうような感情が入ると、我心貪着自身心であり、どうやってみても智慧のないことになる。重加算税は取ることもでき、取らないこともできる。取られたからといって税務署に「あなたは名聞利養に執われている」と言っても何にもならぬ。向こうはちゃんとどちらでもできるようになっている。法律の適用というのは本当に智慧を働かせて貰わねばならぬと思う。

執われとは、自愛と共にも一つ法執である。イズムに固執するのである。法執は深い考え方に立っているとは言えない。相手を本当に育ててやろうということがぬきになっている。イズムを貫くことによって自己の快楽を求めているのである。自己満足しているのである。これを離れねばならない。

深い考えというのには智慧と同時に慈悲がなければならない。慈しみは人々を安堵させることをいう。安堵とは、堵に安んずるといって、一つの垣の中で安定した生活をおくることである。そういう思いやりがなければならない。

智慧と慈悲、更にもう一つ方便という。働きかけであり具体化である、具体的に相手を一歩々々高めてやる。そこに深い教育的な行き方、考え方を持っている。慈悲と方便は相手を育てるという考え方を持っている。そして智慧は深い純粋な思索、虚心坦懐にものを考え得る智慧、即ち自己の確立である。この自己の確立と教育的な考え方を合わせて、深い考えというのである。

ものを考えるのには遠く長く先を考える。そこに暖かさがあり働きかけがあり、厳しさがある。ここに具体的な深い考えがある。曇鸞大師はこのように言われている。厳しさとは、相手がどう思おうとそんなものに迷わず、虚心坦懐にものを鋭く厳しく見ることができる。しかもそこに暖かさがあり働きかけがある。そのためには先ず自分自身の名聞、利養、勝他の心を離れねばならない。

それは如来の発願を聞きぬいて、深い自己へのめざめを通さなくてはならない。

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(2)その成立

この如来の発願が人間我々の上に成立するにはどうするのか。それにはただ一つ方法がある。たとえばここに音楽のよくわかる人がいるとする。音楽に深い関心があり、音楽を理解し、それを人にもよく教えてやれる人がいるとする。そんな人がどうしてできたのかというと、それは音楽によって育てられたからである。音楽が音楽のわかる人を育てるのである。深い音楽家は深い音楽から生まれる。

如来の発想(発願、思い)は、如来の発想を聞くことによって人間の発想となる。道はただ一つ、これしかない。如来の発想とは、発願であり思索の頂上である。それが人間の上に成立して「よくよく案ずれば」となるのは、ただその如来の発想を聞きぬく時はじめて成り立つ。聞法である。法とは大きな世界、その大きな世界の心の内容を聞くことによってはじめて、我々の上に深い発想ができるようになる。その深い発想が具体的には、如来の智慧と慈悲と方便というもので表わされるのである。

聞法によって如来の発想が人間の上に成就する。これが親鸞の教の根本である。聞くということによって尊いものが人間の上に成り立つ。これを本願成就という。

如来本願の成就は『大経』の表現では「諸有衆生 聞其名号 信心歎喜」である。聞其名号、即ち「其の」(よき人の上に成立している)「名号」(如来のお心)を「聞」きぬいて、如来の発想がわれらの上に届いた姿を信心歎喜という。この信心のところに深い智慧がある。信心が「よくよく案ずる」のである。信心でなければ案じようがない。「よくよく案じみれば天に踊り地に躍るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて」とあり、「よくよく案じみれば煩悩の所為なり」である。

ここに如来のすぐれた思案の頂上が私の上に成り立つ。音楽が人を音楽家に育てる。すぐれた古美術を鑑定する人はすぐれた刀とか書画とかを見分ける力を持つ。それはどうしてできるかというと、子供の時からいつも本物だけを見て育てられたからである。良い物を見ていると目が肥える。芸術品が彼の目を育てたのである。

思案の頂上はどうして生まれるかというと、思案の頂上を聞きぬいてそれに触れるしかない。よき人の仰せを蒙って、聞いて聞いて聞きぬくところに、諸有衆生(お粗末な私)と目がさめて、如来の発想が私に届くのである。そこに「よくよく案じみれば」ということができるようになる。

仏法というものは大変なもので、二十代や三十代ではよくわからない。私自身の体験でもそうである。いやその時はその時でわかっていたつもりであったが、理屈として論理的にわかる程度である。それが私の身につくというか、本当に体解できるには四十、五十、六十にならないとわからないのではないかと思う。仏書に書いてあることが本当にわかり、親鸞聖人の仰せられたこと、蓮如上人の仰せられたことが本当に領解でき、聖典に書いてあることがよくわかる。そうなるのには時間がかかる。時々わからない文を書いてあるのがある。そんな時に僕は思う。僕にわからないような事を書いているが、この人はよくわかっていないなと。これはちょっと傲慢な表現で申訳ないが、僕にわからないような内容ではいかん。一遍読んでもわからない本はもう読まぬことにしている。深い智慧で書かれたものは、どんなむつかしい表現でも胸にひびくようになっている。

喜びのなさ、意欲の欠如という現象、このような現実の問題点を、思案の頂上で考えるとどうなるのか。

人間の発想では、これではいけない、喜びを回復し意欲のある人にならなければならない、これでは人に笑われる、人に劣っている、心配だ、不安だ、残念だということになる。また、仕方がない、これが当然だ、皆そうなのだ、こういうもんじゃとあきらめ、居直りになる。これが計らいの人間の心の状態である。「人間というのは喜びは続かないもんですなあ」「あんたもそうか、わしもそうじゃ」ということになって座り込んでしまう。これは深い考え、よくよく案じみるというものではない。浅い浅い考えである。これが人間の考え、今は自己の姿に対する唯円の考えである。これをはからいという。

思案の頂上が成り立ち、よくよく案じみればこれはどうなるのか。如来本願を聞きひらくとどうなるのか。

これではいけないのではない。これでよいのでもない。立派な人にならねばならぬのでもなく、そうならなくてもよいのでもない。

深い考えとは、これが私の本体、実体であるとわかる。これを智慧という。また、このお粗末な私の本体が如来本願を起して下さる舞台であると、如来の慈悲を仰ぐのである。これを現実が南無阿弥陀仏になるという。そこに智慧がある。そこに懺悔がある。そこに感謝がある。本願が私に働きかけて南無阿弥陀仏になるところを大慈悲方便という。そこに智慧が成立している。

この私の現実が懺悔になり感謝になり念仏になる。懺悔はお粗末な私、申し訳ない私と頭を下げてお詫びすることである。そして、有難うございますと如来に感謝し、南無阿弥陀仏と念仏する。人間の心では「仕方がない」とか「当然なことだ」というほかない現実が、「これがお粗末な私の本体、南無阿弥陀仏」となるところに思案の頂上がある。これが人間の上に成り立つ最高の現実に対する姿である。それをはからいなしという。よくよく案じみれば遂に南無阿弥陀仏である。喜びのなさ、意欲の欠如が南無阿弥陀仏となる。この結論はなかなかわかりにくい。けれども、この結論を持っていることを智慧といい、「よくよく案ずる」という。これが人間の上に成り立つ最上無上の発想である。発想というと、我々が起すように考えられてあまりいい言葉ではない。が、我々の上に成り立つ無上の智慧の言葉なのである。如来の本願が届くことにおいて「よくよく案ずる」ということが成り立つ。そこに私の現実が懺悔となり感謝となり念仏となる。それを「要道不煩(ふぼん)」という。亡くなられたわれらの先生(夜晃先生)はこの言葉を『論註』からとられて教えられた。「あるがままの現実を受けとめて念仏する」ということである。これが思案の頂上である。それを「よくよく案ずる」という。そこに最高至上の道がある。

人間は知性的に考え、善悪で考える。これを超え、これを打ち砕かれて深い世界に立つとき、「要道煩わしからず」、あるがままの現実を南無阿弥陀仏と念仏する身となる。それを「よくよく案ずる」といい、「思案の頂上」というのである。

第九章は「念仏申し候えども」ということから始まり、念仏申す者は喜びがあるべきであり、自分もかつてはあったのであるが、今はそういうものがないという訴えに対しての答が出ている。この前には「よくよく案じみれば」があり、この言葉が「よろこぶべき心を抑えてよろこばせざるは煩悩の所為なり」と続いている。この中で中心は「煩悩の所為なり」である。


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