二十四、煩悩への対処

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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現在は大変な時代である。小さな子供達にまで家庭内暴力が方々で起っている。稲村博という方の書を見ると、深刻な問題であることがわかる。もとは高校生の男子が多かったが、この頃は中学生、小学生にまで至っている。また、女子にまで起っている。家の中でやるから被害者は大抵母親である。殴る、蹴る、物を投げつける、階段から蹴落とす。母親は生傷がたえないという。稲村氏によると、高校生になるともう治らないという。手のつけようがない。

なぜそうなるかという原因は大体わかったが、その治療法というのはわからない。

先年は祖母を刺し殺して自分も自殺したという有名高校生もあった。反対に思いあまって親が子を殺したという事件もある。子が両親を金属バットで殴り殺したというのもまだつい先頃のことである。色々な事件が次々と起る。

原因は煩悩の所為である。なぜそうなるかというと稲村氏によれば、父性不在、父親の責任転嫁が原因であるという。父親としての責任をとらないで、母親にすべてをまかせた。家庭における責任者でありながら責任をとらなかったことが第一因である。次に母の過保護(甘やかし過ぎ)と過干渉(世話のやき過ぎ、言葉の出し過ぎ)である。更に本人の責任。本人が内向的でショックに弱い、独立心がなく友人がない。子供の性格に問題がある、と書いてある。

暴力だけでなく子供の非行化の問題も次々と出てくる。

これらの子がだんだんと大きくなり、やがて彼等が父となり母となった時、日本は一体どうなるであろうか。今や日本は経済的には強い力があるといいながら、一方では大変な問題を抱えている。この辺でしっかり教育の問題を考えなおし、経済よりも何よりも人間が大事なのだということを知らねばならない。

このように暴力化、非行化したものをどうしたら治すことができるかといわれると施す手がない。私は小さな保育園で母の会をやっている。母親に仏教の話をするのが衷心の願いであるが、なかなかそこまで行かない。その母の会で質問が出た。「小さな子の教育の必要性についてはよくわかった。が、うちにはも少し大きな子がいて、先生のお話を聞くとその子は失敗作ですが、その失敗作はどうしたらいいでしょうか」という。その失敗作を成功作にする方法を教えてくれるとベストセラーズになりますよと言ってくれたが、確かにそういうベストセラーズはない。

そんなことではいけないというところまではわかる。が、なってしまったものをどうするかというと、もう直す方法がない。何とかしようがあるのではないかというのが、煩悩への対処ということである。

そこに打つ手は、悲しみの復権ということである。これは水上勉氏の『生きるということ』(講談社現代新書)の中にある言葉である。その中に「悲しみの復権」という項目がある。この本は紹介する価値のある本と思う。

「世の中の色々な状況を見て怒りをおぼえ、強い批判をし恐怖を持つ。今の時代は、他への批判と楽しみの時代であると人は言う」。他への批判とは、家庭内暴力や非行化、あるいは政治の問題を厳しく批判する時代である。そして自分はどうしているかというと、レジャーや旅行など楽しみを求めている時代である。

「批判と外へ楽しみを求めている時代に対して、悲しみの心を持つということが価値があるのだということに太鼓を叩く人があるならば、私はそこにもぐり込みたい。それも勇気のいる時代かも知れない」と著者は言う。

父親が悪い、母親にも責任があり社会が悪いと批判する人はある。今から失敗しないようにしなければならぬという人もたくさんいる。では失敗作はどうしたらよいのかということは考えないで、自分は楽しみを求めている。この時代の中でこのなげかわしい状況を悲しむ。そこに価値があるのだという人があるなら、そっちに入りたい。そんなことを言ってもどうにもならんではないかという人が多いから、これも勇気がいるという。

仏教はここだ。悲しみの上に立つ。大悲である。如来大悲である。人間の悲しみに先立って如来大悲がある。これを仏教という。大悲方便である。

方便はウパーヤ、接近であって、大いなるものが悲しみをもって向こうから近寄ってくるのである。この大悲方便を南無阿弥陀仏といい、大いなるものの働きかけ、自己表現という。問題の根源である煩悩に対して大悲方便していくのである。

大悲方便の始めは、煩悩を滅却せよという教である。それを十九願という。あなたの執われを除けという。深い自己愛着と疑いを除けという。大悲はここから出発する。現代語で言うと「君はそれでよいのか」である。自己自身を省みて煩悩をおさえていくことが大事ではないかと教える。これが教育の第一歩である。教育はこれが鉄則である。その根底には批判でなく悲しみがなくてはならない。

如来大悲の悲しみがわれらの悲しみとなって、そこに教育がなされるのである。「執われを出でよ、君はそれでよいのか」。

それが遂に念仏申すということにならねばならない。教育の技術としては五種正行でなくてはならない。読誦(どくじゅ)(読む、聞く)、観察(考える)、礼拝(頭を下げて拝むものを持つ)これが教育の第一である。

煩悩への対処というのは大げさな項目になったが、煩悩の燃えさかってどうしようもないこの時代に、対処する道というのは大きなことである。それに応える道は仏法しかない。こんな時代であればこそ仏法が必要なのである。仏法を次なる世代にも伝えていくのが、われらのたった一つの使命であろう。

順序は、読む、聞くというところから始まって、最後は念仏申すということにならねばならない。

もし煩悩がなければ人間に教育は成り立たない。大きな世界に出ることも成立しない。踊躍歓喜の心もなく、いそぎ浄土へ参りたき心もないという現実の上に転回があるのである。このことを反語でやんわりと言われているのがこの文章である。


(第九章了)

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