十一、「煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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「喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり」と打ち切れていること。これまでは言葉の意味を申したが、大事なことは「煩悩の所為なり」と打ち切れていることである。普通は打ち切れないで、「煩悩の所為なり」とわかったがさてどうしたらよかろうかというものが残る。打ち切れているというのは「煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」である。この南無阿弥陀仏は略してある。「よくよく案じ見れば……喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」とおさまっている。このことを、も少し申さねばならない。

「ただ念仏して」という言葉がある。第二章の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」をつづめると「ただ念仏して」である。これが第二章の中心点である。

「ただ」とは何か。ただこのこと一つである。ただこのこと一つと、二つ並ぶことをきらう言葉である。

人間の発想における「ただ」は、思考の停止である。もう考えることはやめた、ただこのこと一つと決心することである。思いこんだのである。これは非常に深い考えのように見えるが大変に危険である。もう考えるのはやめたというのではいけない。人間は最後まで考えなければいけない。最後まで選ぶ道をいくつか持ってよく考えねばならない。それを、考えるのはもうやめたというのが思考停止であり、人間廃業である。

もう一つの人間の考える「ただ」は、盲信、狂信の類である。始めから、ただこのこと一つという人にろくな人はいない。みな神憑りの状態になっている。若い人にはわからないだろうが我々は非常に不幸な戦争をして、色々の苦しい時代を経てきた。そしてその中で多くの人を失った。戦争の時代には我々は死ぬということは何とも思わなかった。ただ忠君愛国、日本の勝利の為にと思って頑張った。しかし今から考えると正に狂気の時代であった。「ただ戦争」というところに追い込まれていた。不幸な時代だったと思う。も少し沢山の選択肢を持たなきゃいけなかった。戦争をすべきかどうか、戦争をしなくてすむ道があるのではないか。戦争を中止する道はないか、徹底的に論ずることが必要だった、それが全く出来ずに「ただ戦争」と国民は皆そこに追い込まれていった。人間は最後まで思考をやめてはいけないと思う。

「ただ」があるのは如来のみである。如来の発願は「ただ」である。ただこのこと一つ、これを如来の発願という。大きなものの小さなものへの願いが「ただ南無」である。小さな殻に入って右往左往している私への、大きなものの願いは「ただ南無」と呼びかけるのであるこれを南無阿弥陀仏という。

帰れ、来たれ、出でよ、たのめである。たのめとは蓮如上人が言われた。これは人間の発想ではない。人間が、「私は何もしなくてもいい、ただ弥陀をたのむ」と言うたのでは、狂信、盲信、思考の停止にほかならない。「ただ念仏」は人間の考えではなくて、如来の本願である。これを選択本願念仏という。ただこのこと一つしかない。そこに大悲がある。大悲というのはたった一つ、ただ南無阿弥陀仏とよぶばかりである。

健康を保つためにと、人は色々の健康術を持っている。玄米食をやる人もあり、漢方薬一つという人もいる。が、私はこれ一つというのはあまり好きではない。方法は色々とあると思う。私がやっているのはその中の一つであるが、これだけがよいということはあり得ない。色々と健康法はあるに違いない。玄米食だけがよいという人はどうしても狂信、盲信の類になりやすい。もっと色々な道がある筈だというのが、人間として健全な発想と思う、「このこと一つ」と言い始めたら世の中は危ない。ヒットラーにしろ毛沢東にしろ同じである。日本でもこの次に誰かが出てきて「この人ひとり」と皆が言い始めたら我々は、よく眉に唾つけてその人の顔を見ておかねばならない。変な時代になったぞと考えねばならない。それが人間として最も健全な立場でいる。ところが「ただ」ということの成り立つ人がある。それは如来である。

如来においてのみ「ただこのこと一つ」ということが成り立つ。如来は小さな殻の中に入ってどうしようもない我々に、「ただこのこと一つ」南無阿弥陀仏とよびかけて自己自身を届けようとする。ちょうど太陽が氷にその熱を届けようとするように、南無阿弥陀仏の働きを届けようとする。これを廻向という。その働きが届くとそのまごころが我々を揺り動かして念仏させる。そのところを信という。如来の廻向が届いて廻思向道(えしこうどう、自力の思いをひるがえして道に向かう)となる。これが成り立つところを「ただ念仏」という。「ただ南無阿弥陀仏」という本願が届いて「ただ南無阿弥陀仏」という念仏になる。それを信心という。これを「煩悩の所為なり、南無阿弥陀仏」というのである。何が出てこようといかなる現実があろうと「ただ南無阿弥陀仏」で打ち切られるのである。廻思向道の思は自力のひが思い、即ち根本煩悩、疑いである。それが物を言わずに南無阿弥陀仏になる。これを「廻思して道に向かう」といい、「ただ念仏」という。それが成り立ったところを「煩悩の所為なり、南無阿弥陀仏」という。この南無阿弥陀仏の中に、如来の本願が私に届いた姿がこもっている。これが「ただ念仏」の事実であって、これを信心という。そこにはあとに残る何ものもないのである。

蓮如上人の教では、わかりやすいように少し省略されている。「阿弥陀仏われを助けたまえと弥陀をたのみたてまつり、ひしと弥陀の袖にすがる思いをなし」「ただ弥陀をたのめ」と言われた。この「ただたのめ」と言われるのは先に言う狂信とは違う。「ただたのめ」とは如来の本願である。「ただたのめ」「ただ南無」との如来の本願を聞き開いて「ただたのむ」となってくれよということを言われる。前の方が省略されている。

蓮如上人のお言葉は非常にわかりやすいが、後世にはそれがもとになって三業惑乱というとんでもない大事件が起った。わが身において身には礼拝、心にはたのみたてまつる、言葉には南無阿弥陀仏という三業を積み重ねて弥陀をたのみたてまつらねばならないという。その根拠はこの蓮如上人の御文章にある。この大問題で西の本山は大騒ぎになり、とうとう寺杜奉行の裁きを受けて智洞という人は島流し、それを訴えた大源という人も牢獄に閉じこめられてしまうような悲劇が起った。それ以来本派本願寺では非常に異安心に敏感で、少しでも従来の教義と違ったことを言うと厳しくそれを取り締まって、新しいことを言わないように、昔の通りを言うように苦心されている。そこで時代からとり残されてしまっている。そのような問題を引き起したのは蓮如上人の「ただたのめ」の言葉に発端がある。が、蓮如上人に間違いがあったのではない。

「ただ」は、ただたのむ人間の願いではなく、如来の発願である。如来の発願が「ただ南無」である。人間の発想はああもしなければならない、こうもしなければならないと思う。それが自力のはからいであるが、しかし一面から言えば最も健康な発想である。それが如来の働きによって翻される。「ただ」という如来のまごころに触れて「ただ南無阿弥陀仏」となる。これを廻思向道という。そこに生まれるものが「ただ念仏」である。従ってこれは聞法の果てに生まれる、人間をこえたものの発想である。

如来の発想とは、如来の心が私の心となって、私が「ただ念仏」となる。これを「よくよく集ずる」という。如来の心をどうして人間我々が案じ考えることができよう。人間は到底そういうことを思い得る存在ではない。しかし如来のまごころが届いたら「ただ念仏」となるのである。如来の心がわが心となった所を「よくよく案ずる」というのである。

結論は「煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」である。そこに切れたものがある。この「南無阿弥陀仏」を強いて言えば懺悔の念仏というべきであろう。「法がぼやけ自己がぼやけておったのでございます。まことに深い私の煩悩の所為でございます。申し訳ないことでございます。南無阿弥陀仏」である。

年令もはや九十に近いと思われる晩年の親鸞に「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎か」であるということがあるであろうか。唯円の為にこう言われたのではなかろうか。この辺は今の私にはよくわからない。しかし私の今の段階で言うならば、煩悩が喜びをかき消すということは確かにあると思う。一度喜んだのに、そこに雲霧がかかって喜びをかき消すことはあると思う。これを二十願というのである。従って親鸞聖人は『教行信証』には「今ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ」と、「今」という言葉が使われている。それはやはりそういう殼に閉じ込められていたものが「今」出てくることを言われたのであろう。これを習気(じゅっけ)という。本体はなくなった即ち疑いの根本は打ち砕かれているのであるが、そのにおい(習気)はまだ残って雲霧となって、喜びをかき消すということがある。ちょうど籠に入れた魚を取り除いても籠に臭いが残るように、それを習気という。従って我々は第九章を一生頂いていかねばならない。なぜならこの習気が出てきて、喜びが続かないということが一生つきまとう。その時に「煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」にならなければならない。ここが大事なところである。「ただ念仏」こそ信心の人である。

第九章は唯円の問いではあるけれども、ひとり唯円だけの問題ではない。普徧性を持っている。喜びがなくまた意欲がない中で、どう生きていったらよいのだろうかという問いは、また切実な問題である。聞法精進の中でわれらも何遍もこの所を通らねばならない。いわば第九章は一生お世話になる大事な章である。この章は師訓篇の最後をしめくくる現実的な問題解決の章となっている。

この問いに対する答が「親鸞もこの不審ありつるに」以下で、第九章の中心になっている。問いが深い問いであり答も深い答である。

 「しかるに仏かねて知ろしめして『煩悩具足の凡夫』と仰せられたることなれば『他力の悲願は此の如きのわれらがためなりけり』と知られていよいよ頼しくおぼゆるなり」。第九章の中心はこの「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」である。同時に我々の色々の現実問題が解かれていく中心になる言葉がこの「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」である。

文章の意味は、「煩悩の明け暮れである私の現実でありますのに、仏はずっと以前から知って下さって、煩悩具足の凡夫と仰せられたのであります。でありますから……」と続いている。

観経』(二−六)を頂くと韋提希(いだいけ)に対する言葉として「如来いま未来世の一切衆生、煩悩賊の害する所と為る者のために清浄業を説かん」とある。これは「煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」の依り処である。尽未来際次々と続いて生まれる一切衆生がどのような存在であるか。それは、その身に備っている煩悩の為に身心を打ち破られてその賊に害せられ、身も心も奪われているものである。このような者のために大悲の仏は、清浄真実の行業を説こうと言われる。「未来世の一切衆生」は即ち「煩悩賊の害する所となる者」であり、これを煩悩具足の凡夫という。『観経』は韋提希の為に説かれる経典でありながら、内容は未来世の一切衆生「煩悩賊の害する所となる者」のためといわれている。われら煩悩具足の凡夫が問題とされている。


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