二十三、煩悩のもつ意義(働き)

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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第九章には煩悩という言葉が多く出ている。「煩悩の所為なり」「煩悩具足の凡夫」「心細くおぼゆることも煩悩の所為なり」「まことによくよく煩悩の興盛に候うにこそ」「煩悩の無きやらん」というある。更には、念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎かであるとか、浄土へいそぎ参りたき心のないということも全部煩悩で、九章には煩悩というものが一貫して流れている。この章は煩悩の意味を考えるようになっている。煩悩がないならば本願もないのである。

加賀乙彦氏の『生きるための幸福論』(講談社現代叢書)の中に譬がある。加賀氏は精神分析学者で、はじめは刑務所の精神医であった。最後は上智大学の教授であったが先年やめられて、現在は文筆をとって立っていられる方である。

その譬は、あるカトリックの尼さんから聞いたという形で述べてある。

「一人の敬虔な修道女がいました。その人は大変にやさしくて、困っている人に物を与え、苦しんでいる人を慰め、大変徳の高い人でした。神様が大層ほめられて『おまえの望みは何でもかなえてあげよう』と言われました。修道女は『一つお願いがあります。神様、私の心を見せて下さい』と申しました。神様は困って、それだけは見せてあげられないと言われました。『それではもう何もいりません』。神様は困ってとうとう彼女の心を見せてあげました。ところが、自分の心を見た修道女はびっくりして卒倒した。そして遂に発狂してしまいました」。

自分は神を信じ教の通りに行い、世の人の力となって一生懸命やってきた。だからきれいな心と思っていたが、自分の心を見て驚いて発狂した。いい譬ですね。

お前は神様に(仏様に)自分の心を見せて貰ったら卒倒するか、発狂するか。長年聞法してきてもう煩悩はなくなったと思い、尊いものにあふれていると期待し予想してはいないか。

私達は神様から自分の心を見せて貰う必要はない。念仏して自分の心を見るようになっている。知るようになっている。それが救いであり自覚である。本当にわが身に目が覚めるところに救いがあり信心がある。だから卒倒したり発狂しなくてすむ。煩悩は無くなるだろう、少なくとも小さくなっているだろう、そしてきれいな心が多くなっているだろうと期待している。が、全くそうではない。だからびっくり仰天するのである。煩悩がなくなることが宗教ではない。煩悩がなくなることが進展ではない。

宗教とは仏教語で、宗はむねであり、一番高い所、一番深い、一番中心、根源をいう。あらゆるものの中の中心で、それがなければ教というものは悉く成り立たない。倫理も道徳も、日常生活における常識も成り立たない。そのような根源の教を宗教という。煩悩がなくなることが宗教ではない。煩悩が明らかになることが宗教である。

煩悩がなくなるとは自覚において煩悩無底を知ることである。私において煩悩がはっきり見えてくることが、客観的には煩悩が消滅することである。私共は自分の主観の天地において煩悩がなくなることを求める。それはできない。煩悩が私において明らかになって懺悔されるとき、仏の眼から見ると煩悩がなくなるのである。醜いものがなくなるのが宗教だと思うと、なくならない自分を見るとき発狂せざるを得ない。

煩悩の意味は、煩悩が念仏になるたねであることにおいてある。これを煩悩即菩提という。菩提は無上道である。私の心に煩悩を見出して念仏していくところに道がある。

煩悩は第九章では二つに言われている。一つは、踊躍歓喜の心なしということである。喜び、感謝がないのである。これにふり廻されている。

も一つは、いそぎ浄土へ参りたき心のなさである。意欲のなさである。日常性にふり廻されて道心を失った姿である。自己愛着と仏智疑惑の二つが煩悩としてあらわされている。

煩悩があるが故に仏法がある。煩悩が内に見出されてくることがそのまま南無阿弥陀仏と道に立っていくことである。これが煩悩即菩提である。

日々新た、日々是好日という言葉がある。毎日毎日がいい日だ、よい気持ちだということではない。気持ちのいいのは続かない。日々新たとは毎日毎日が煩悩であり、それ故に毎日毎日が念仏である。マンネリ化がない。昨日の煩悩と今日のは同じというわけにいかない。いつもいつも次々と新しく出てくるから日々是新たである。煩悩が日々新た、従って念仏も日々新たである。日々是念仏ということになる。煩悩に意味があるということがわからなければならない。

煩悩を断ち切って大きな世界に出るのを小乗仏教といい、また聖道門という。これは理想主義的ないき方であって、人間が考える最初の道である。その行きづまりによって大乗仏教が出てきた。大乗仏教は煩悩を断ち切ったところに道があるとは言わない。煩悩即菩提という。煩悩が菩提とイクォールではない。煩悩が明らかになるところに道に立つということがある。日々是あらたである。日々是念仏、日々是求道ということが生まれてくるのが大乗仏教である。

昨日も悪く、今日も悪く、明日も悪いのである。我々は、昨日は悪かった、今日はも少しよく、そして明日はいよいよ善くならなければならないと思う。が、そうではない。昨日も煩悩今日も煩悩、明日も煩悩、遂に煩悩である。そこで昨日も念仏今日も念仏、明日も念仏、遂に念仏である。いよいよ新しい念仏となる。これを煩悩即菩提という。もし煩悩がなければ念仏もない。煩悩がなければ大悲もなく本願もない。

煩悩は言いかえると現実である。現実の意味を明らかにしなければ、イデア(現実の反対)も明らかにならない。現実を見失ってはならない。


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