十、煩悩の所為なり

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

(1)よろこび

我々は思いがけない幸せが手に入ったりすると喜ぶが、この喜びは長くは続かない。次の瞬間には不安になって、こんな事があっていいのだろうかと思い、いつまで続くのだろうかと心配する。今ここでいう喜びはそういう喜びではない。この喜びは感謝であり感銘、感動である。これが念仏申して喜ぶという喜びである。

喜びということについて詳細に言ったのは龍樹である。『十住論』に喜びとは何かということについて言われているのを、親鸞聖人は『教行信証』に引用されている。「信心歓喜」の歓喜がそれである。

龍樹は、「法を見、法に入り、法を得、法に住す」ところに喜びがあるという。感謝というか感動というか、本質的な喜びは人間が持っている煩悩の喜びではなく、法に出遇った喜びである。法は仏法、具体的に言えば弥陀の本願、広く言えば教法である。教法に出遇って教を行ずる、そして教を本当に体得し、教の中に安住する時に、そこに喜びが生まれてくる。それは煩悩の喜びではない。「見諦(けんたい)所断(しょだん)の法を断ず」、見惑が断ぜられるところに喜びがある。見惑とは人間の持つ自己中心の思い(我見、邪見)で、これが打ち断たれた時に内面的な喜びがある。「法を見、法に入り、法を得、法に住し」と、根本的に見惑が断ぜられた時に、人間は本質的な喜びを持つのである。これが本当の喜びである。

私が小さな殻(自己中心の思い)の中に入っている限り本質的な喜びを持たない。たとえ喜びがあっても続かないで、不安や恐れに変っていく。一時的なものにとどまる。本質的な喜びは殼が打ち砕かれる所に生まれる。

法は仏法、教法、具体的には南無阿弥陀仏。この法に私が出遇い、これに触れて仏の真実が私に届く時に喜びがある。法が私に届いて生まれるものを信という。この信が真実を体得していく。と同時にこの信は必ず内を観るようになっている。私というものの本体を見る智慧になる。そこに私に対する深い目覚めが生まれるのである。第二章にはそれを「地獄は一定すみかぞかし」と言い「いづれの行も及びがたき身」という。

卵が殻の中に入っている限り喜びははかないものである。この卵が親鶏に温められて、殻を破ってヒヨコになる時に広い世界に出る。それを「法を見、法に入り、法を得、法に住す」という。大きな世界に出ると同時に、ピヨピヨとヒヨコは喜びの声をあげる。

喜びが生まれるのは目覚めがあるからである。目覚めは、法に対する目覚めと自己に対する目覚めであり、これが喜びの起ってくる中心になる。

「喜ぶべき心を抑えて喜ばせざる」ものは何か。それはこの目覚めを妨げるものである。

喜びはいかにして起るかというと、憶念を持つからである。憶念は如来に対する思いであり、教に対する思いであり、よき師よき友に対する思いであり、深い御苦労の歴史に対する感動、感銘である。これらを一言でいうと、すべて法を憶念するという中に入る。法の内容が如来であり教であり、よき師よき友であり、御苦労の歴史である。

喜びがなくなるということは非常に大事な問題である。初心の人は今までに喜びがないから、この問題にはあまり関心がないかも知れない。が、将来必ずこういう問題が出てくるので聞いておく必要がある。長く聞いている人は必ずいつかぶつかる問題である。そこで、なぜ喜べなくなるのかということを知らなければならない。それが「煩悩の所為」である。

喜びは大きな世界がわかり自己がわかる時にある。なぜ喜べなくなるかというと、法に対する思い、即ち如来に対し教に対し、よき師よき友に対し御苦労の歴史に対する思いがぼやけてくる。と同時に私に対する思いがぼやけてくる、そこに信の固定化というものがある。固定化とは自閉である。法に対する思いが曇り濁ってくると同時に、自己に対する思いが曇り濁ってくる。これを二十願の世界といい、信が固定化しているという。この人は自分が悪いとは決して思わないで、自分は立派だと思っている。が閉ざされている。小さい所に閉ざされている。「私は念仏を申しています、私は仏法を聞いています」というけれども、法に対する思いと自己に対する思いが曇ってしまった。そこに喜びがなくなるのである。これを親鸞は「専修にして(しか)して雑心なるものは大慶喜心(だいきょうきしん)()ず」と言われた。

専修とは、念仏を大事にして申している人である。ただ単に念仏しているのではない。五専修即ち読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養(五種正行)を一生懸命やっているのである。勤行も聞法もしっかりやって何も欠けていない。が、心の中に曇りが出て法が響かなくなり、自分が見えなくなっている。かつては「地獄は一定すみかぞかし」であり「いずれの行も及びがたき身」であったのに、それがぼやけてきて、同時に法がぼやけてきた。やることはやっているのだが、信心が固定化し閉鎖してくる。自閉しているのでありマンネリ化しているのである。流動していない。生き生きと動いていない。そこに生まれてくるものが喜びのなさである。「専修にして而して雑心なるものは大慶喜心を獲ず」である。雑心という所に喜びのない原因がある。雑心が問題であり、煩悩の所為なのである。

ページ頭へ

(2)雑心

雑心とは雑多な心である、それが雲霧になる。雑心とは定善散善に執われる心であり、これを自力のはからいという。定善とは心の正しさ、散善とは行いの正しさ。正しい心、正しい行いに執われる心をはからいという。自力のはからいが雲霧となる。すると上は法を見ず下は自己を見ない。喜びは大きな世界に通じ自己に通ずるところに生まれてくるのであって、喜びのなさはその二つが遮断されるからである。一方が遮断されれば他の方も遮断される。これを信の固定化、自閉化という。それを仏法語では疑城胎宮(たいぐう)といい辺地懈慢(けまん)という。懈慢というのがよくこれを表わしている。懈怠憍慢というところに固定化された信心の特色がある。憍慢というのは、私こそが最もすぐれた人間であり自分位の人はいないと思い、悪人愚者と目覚めていくことがない。自分が出来上がりになってしまって、お粗末な私であるとひざまずくことにならない。憍慢であるが故に本質的な精進にならないで放逸(ほういつ)懈怠(けたい)になる。言いたい放題を言い、したい放題のことをして、真の精進の姿からはずれていく。定善散善に執われて懈怠憍慢に陥っていくところに喜びがなくなるのである。これが原因である。

しかるに「専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず」という言葉を聞いて、これを他人のことと思えるかどうか。「大慶喜心を獲ず」とはまことに厳しい言葉である。お前は本当に喜んでいるか、喜びが足りないのではないか、実に厳しい問いかけである。本当に人は「大慶喜心を獲ず」というところに居るのである。本当に喜べるようにならねばならない。本当の人には必ず喜びがある。喜びは感謝であり感銘であり感動である。信の人は必ずそれを持っている。感謝があるから私の信心は本当だとは言えない。信の証明として感謝を要するのではない。しかし本当の人は必ず感謝、感動を持つ。我々は大慶喜心を頂いているかどうかを考えねばならない。

ページ頭へ

(3)煩悩

「煩悩の所為なり」とは具体的には雑心であるが、煩悩についても一度考えてみよう。

煩悩は一般的には二つに言える。一つを我執(煩悩障)、も一つを法執(所智障、あるいは智障)という。

我執は我愛ともいい、自己愛着の心である、その心が信心を曇らせる。なぜ曇りができるのかというと、信の体験を私有化するからである。大きな世界に出させて頂いたことを私の手柄にして自己体験に取り込むのである。経典には「己が善根とする」とある。念仏の教を己が善根にする。長い長い間の多くの方々の御苦労のおかげで今日の自分があるのだという御恩を忘れて、私が私がと自分の手柄にして体験を私有化する。そこに「煩悩の所為」がある。

法執(所智障)とは、私が知るもの見るもの即ち現実への執われである。我執は私の内面に対する執われであるのに対し、法執は私の外側の現実に対する執われである。一度雲がかかって喜びがなくなると、これではいけない何とかしなければいけないと現実に執われる。現実を対象化して定散心に振り廻されるのである。執とは執われであり、現実を向こうにおいて(対象化して)それに自分が引きずられている。執われが二重になっている。内における執は自己愛着、これはやがて憍慢になる。また、外においては「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎か」であるという現実にふり廻されて、これではいけないということになる。かつては「念仏して地獄に堕ちたりとも更に後悔すべからず」であり「悪をもおそるべからず弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故に」のように、善にも悪にも、また地獄行きの自分の姿にもふり廻されなかった。現実に執われなかった。現実がそのまま「ただ念仏して」になっていた。ところがそうではなくなって、これではいけないということになる。定善散善という理想追求の心にふり廻されて、かくあるべし、これではいけないと理想主義になるのを法執という。

煩悩を我執と法執に分けて申したが、その根本は疑惑である。

煩悩を非常にうまく言っているのは『涅槃経』梵行品である。梵行品には天人五衰という話がある。帝釈天が釈尊にお遇いして教を請う。帝釈天が天人五衰という重い病気にかかってどうすることもできなかった。そこで釈尊をたずねてその教を聞いて助かってゆく。その時釈尊は教えられる。

煩悩の表層は慳貪、嫉妬である。慳は出し惜しみであり、貪は取り込みである。慳貪がうまくいかなければ腹を立てるということになる。従って慳貪につけ加えるならば瞋(怒り)である。怒りの一つの表現が嫉妬である。相手へのねたみである。も一つ言いかえると名聞、利養、勝他である。これが煩悩の表面である。慳貪嫉妬というと私には無いと思うかも知れないが、貪瞋、名利ということになると、それから離れ得ない自分であることがわかる。ことに名利は自分ではわかりにくい。色々なことを思っているが結局それは名利心、嫉妬心だったという場合が多い。相手を批判するのも嫉妬心だったという場合が非常に多い。

帝釈天はたずねた。「たしかに私は慳貪嫉妬でございました。それ故このような天人五衰という目にあったのです。が、その慳貪嫉妬は何から生まれるのでございましょうか」。「それは無明からである」。愚痴、人間の持つ愚かさであると釈尊は答えられた。「(ひじり)親鸞」という歌に「愚かさ知らぬ我をこそ」という句があるが、まことにその一句は胸を打つ。聖人が高き額の下に澄める眼をもって、愚かさ知らぬ我を見つめておられるという詩である。本当に愚かさ知らぬわれである。愚かさが煩悩の底にある。

「まことに愚かな私でございます。よくわかりました。が、その愚かさは何から生まれるのでございますか」と問う。

「それは放逸からである」と釈尊は答えられる。放逸とは私の思い通りにしたいという心であって、それが愚かさを生むのである。我々は言いたいことを言い、したいことをし、自分が束縛されることを嫌って勝手放題にしたいというものを持っている。

ひと頃の鶏は小さいゲージに入れて育てられていた。毎日決った時間に餌と水を貰って卵を産んで記録をとられ、成績が悪いとチョンになる。廃鶏になるのである。私はそのような鶏を貰ったことがある。まだ私が鶏を飼い始めた頃であった。ゲージからその鶏を出した。すると鶏は羽をひろげて一直線にまっしぐらに走って行って塀にぶつかった。私はびっくりした。外に出た鶏は先ずそこら辺の草を食べるだろうと予想していたところが、真直ぐに走った。鶏にとって今までずっとたまっていた思いは精一杯走ることだったに違いない。狭い中で飼われていたから広い所を一目散に走りたいと思っていたんですね。私はそれを見てとても哀れみを感じた。可哀そうになあ、ああいうことを一生懸命思っていたのだなあと、鶏に同情しました。そして、決して鶏をあんなものに閉じ込めてはならないと思った。

我々も何かしたいというものがある。そこから愚かさが生まれてくるのだとお釈迦様は教えられる。人間は何かしら束縛をされていて、言いたい事も言えずしたい事もできずに、内にうっ積したものがある。それをしたい放題にする時、そこから愚行が出てくるのである。

こうしたいという放逸の思いはどこから出てくるのかというと、その底にあるものを顛倒という。顛倒とは自己中心の思いである。顛倒の妄見という。

その顛倒はどこから生まれるのか。それは疑いである。如来を如来と知らず、如来を無視して生きているということである。それが根本となって顛倒を生み、更に放逸となり愚かさとなって、表面に出て慳貪嫉妬となる。

これは煩悩を立体的に教えてある。その根本は如来無視であるという所に、深い指摘がある。喜びがないということ、即ち教に対し、また自己に対し雲霧がかかってぼやけてくるのは、その根本は如来無視にある。如来を無視し、如来に背を向けて生活している私というものが問題の根本である。それが喜びをなくするのである。自己を閉鎖的にするのである。そして必ず?慢心を生んでくる。憍慢心は貪、瞋、痴、慢、疑と共にある。

それが更に擯罰(ひんばつ)を生んでくるのである。擯罰とは自業自得という。自分の憍慢、自分の煩悩、自分の疑いが働きを起して、その結果を自分がかぶるようになっている。その結果を擯罰という。罰当たりという。誰かが罰を当てるのではなく、自分が蒔いた種子を自分で苅取るようになっている。これを自業自得という。

その罰はどのようなものか、聖人は『教行信証』の化土巻に擯罰を次のように説明されている。擯は一言でいうと、のけものにされて孤立することをいう。「諸根をして欠減醜陋(けつげんしゅる)ならしめ」とある。諸根とは眼、耳、鼻等で、一言で言えば感受性ということである。眼、耳などを通して我々は色々なことを感受する。受け取って感激したり深く反省したりする。よい音楽を聞いて感動したり、教を聞いて感動したりするのは、諸根がすぐれているからである。その感受性が欠けてくる。欠は欠乏してくる、減は減少である。醜は醜悪、醜くなる。陋はいやしく下劣である。下劣にものを受け取るのである。正しく受け取る力が減少し欠乏してきて、悪く下劣に受け取るようになる。そこに孤立が生まれる。そして自閉、閉鎖となる。一諸に食事をすることも笑って一緒に遊ぶこともできない。それが孤立化ということである。人間は一人でいなければならないこともある。が、一人だから孤独だとは限らない。一人であろうとも心は広く開いて多くの人と語り合っているということがある。逆に多くの人と一緒にいても孤立ということがある。それは諸根の欠減醜陋というところに問題がある。擯罰を受けているのである。

なぜ擯罰を受けるのか。それが煩悩の所為なのである。ものを受け取るのに悪く悪くいやしくいやしく受け取って、本当にその事の持つ意味が正しく受け取れなくなる。そこで「喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは煩悩の所為なり」といわれるのである。


ページ頭へ | 十一、「煩悩の所為なり南無阿弥陀仏」」に進む | 目次に戻る