十四、煩悩具足の凡夫

『歎異抄講読(第九章について)』細川巌師述 より

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(1)凡夫

凡夫とは、普通は平凡な人をいう。今は二つ意味がある。一つはただびと、もう一つはすべての人という意味である。

聖徳太子は十七條憲法に次のように言われている。「我れ必ずしも聖に非ず 彼れ必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫(ただひと)のみ」と。私は平凡な人、普通の人、常の人である。しかし普通の人でなく非常にすぐれた人もいるわけで、その聖に対して普通の人、ただびとという。

正信偈に「凡聖逆謗斉廻入」という言葉があるが、聖に対して凡という。まだ煩悩を断ち切ることができなくて、煩悩に引き廻されて右往左往している人達、我々を凡夫(ただびと)という。聖は煩悩を断ち切った人をいう。その断ち切り方にいくつかあって、煩悩の一部を断ち切った人を賢といい、大部分を断ち切った人を聖という。十聖とは十地の菩薩をいい、三賢とは十地以下の十住、十行、十廻向の人をいう。そうでないものを凡といい、煩悩具足という。

も一つはすべての人という意味である。一切善悪凡夫人という。全ての人、一切の人は皆凡夫である。しかしその凡夫に善凡夫と悪凡夫がある。このような表現は善導大師頃から使われた。善導大師は、人間はみな凡夫なのだということを力説した人である。善凡夫は善をする縁に遇うた凡夫であり、悪凡夫は悪をせざるを得ない縁にめぐり遇うた人である。

全ての人、一切の人はもとは皆凡夫であって、何に遇うかという縁によって善凡夫、悪凡夫となる。善凡夫とは遇大の凡夫、遇小の凡夫、悪凡夫とは遇悪の凡夫である。遇大の凡夫とは大乗の教に遇うことのできた凡夫、これが菩薩であり、『観経』で言うと上品(じょうぼん)の人である。遇小の凡夫とは声聞、縁覚といわれる人で、小乗の教に遇うた凡夫である。わが身を清潔に保ち規則正しい生活を送り、戒律を守り、やるべき事をやる人である。これを中品の人という。遇悪の凡夫とは、悪をする縁に遇うた凡夫である。下品の人である。

人間には色々な人がいて、優れた人もあり、劣った人もあるように見えるが、もとは皆凡夫なのである。その凡夫が何に出遇うかという縁によって上品(菩薩道の人)、中品(二乗(にじょう))、下品(悪人)の人となるという。

凡夫とは何かを『十住論』に見ると、「究竟じて涅槃(ねはん)に到ること能わず、常に生死(しょうじ)に往来す、これを凡夫道と名づく」とあり、聖人はこれを『教行信証』行巻(12-10)に引かれている。「究竟じて」とは、究も竟も終りということで、最後までという意味である。どこまで行ってみても涅槃に到ることができず、最後まで生死界(しょうじかい)を往き来している。これを凡夫道という。椰子の実は固い殻を被って波の上に浮いているが、どこまで行っても海の上であり、ドングリはどこまで行ってもドングリころころである。「究竟じて涅槃に到ること能わず」である。生老病死の人生を生死界という。生死界の中を殻に入ってうろうろしているのを凡夫道という。

生老病死というが、大抵の人、殆んどの人は死ということは考えない。或る女性で死を宣告された人が書いた本を見ると、どんな病人でも死を拒否するという。「私は死なない」「それはレントゲン写真の撮り間違いだ」「他の先生に診てもらいたい」という。死は他人のことであって、自分の事とはなり得ないという。しかしながら人間は必ず死ぬ。その生と死の間をうろうろしているものを凡夫という。

涅槃とは我々を包む大きな世界である。もし殻から出て発芽したならば、広い大きな世界を知ることができる。それを涅槃のみやこに入るといい、涅槃の入口に立つという。死んでから先のことではない。生きた人間が広い世界へのスタートにつくことを、涅槃に到るという。

我々は人生だけを考える。が、人生の中に老、病があり、やがて死が来る。その中を出ることができない。それが凡夫である。この存在が何に出遇うかによって善凡夫、悪凡夫となるのであり、根は皆凡夫で同じである。

この凡夫という言葉は仏の言葉である。これは仏の言葉であることを知らなければならない。我々はこの生老病死の中で行きつ戻りつしているばかりで、遂に涅槃に到ることができないなどと考えたことがない。涅槃などと思ったこともない。殼の中を唯一の人生と思っていて、その殼を破ったところに大きな世界があるなどと考えたことはない。我々は自分が凡夫であるということは到底考えることができない。

凡夫というのをドイツ語でダスマンという。マンは男性名詞であるが、ハイデッガーはダスという中性名詞を使っている。誰とでも取り替えられるような、普通の人という意味である。

ハイデッガーはこのダスマン即ち普通の人の特徴を三つあげた。(一)いつも好奇心に富んでキョロキョロしている。人のことばかり、よそのことばかりに気をとられてキョロキョロしている。(二)人生空過。今日も空しく何も得るところはなかった。連休の前には何か楽しい事があるように思うが、済んでみたら財布は軽くなっていたというところで空しく過ぎる。(三)何事も中途半端である。続かない。こうして遂に一生を終ってしまう。

凡夫とは、生死に往来して遂に涅槃に至ること能わずと、人間を凡夫と言い当てた仏の言葉である。仏の智眼にうつる人間の姿を凡夫という。

人間が自分を自嘲して俺は凡夫じゃと言い、また人を罵ってお前のような凡夫はというのが凡夫ではない。凡夫とは如来の眼にうつる人間の姿に対する痛み、悲しみの言葉を表わす。韋提に対して釈尊が痛まれたのが「汝は凡夫なり」という『観経』の言葉である。全て仏教の言葉にはそのような趣があって、悟りの世界から見られたわれらの姿を言われている。従って地獄、餓鬼、畜生とか、浄土とか極楽とかいう言葉も人間の発想ではない。仏の眼から見た人間の状態を言い当てた仏の言葉である。

我々は仏教を学んで仏教語をだんだんと知る。しかし日常の中に仏教語を使うことは、なるべく避けるようにすることが大切な心得であろう。仏教の言葉には人をやっつけるのに都合のいい言葉が沢山ある。「貪欲、瞋恚の凡夫めが!」と人に対して言うならば、これらは痛烈なひびきを持つ。けれども人間が人をやっつけるためにある言葉ではない。仏かねて知ろしめして、われらを煩悩具足の凡夫と痛み悲しまれる大悲の言葉である。これを見捨ててはおけないというお心の言葉である。先の聖徳太子の「凡夫」は、この仏心を頂いた人の自らへの懺悔の言葉である。

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(2)煩悩具足

凡夫というのは煩悩具足の凡夫である。煩悩については「煩悩の所為なり」という所で申した。煩悩とは我々の深い内面にあって我々をわずらわせ迷わせるものである。

煩は身のわずらいである。痛い、苦しいというように、わが身柄がわずらう。悩は心のわずらい、苦しみである。この煩悩の根本を根本煩悩という。このわずらいの元は我々の心の深い所にある。根本煩悩とは五鈍使(貪瞋痴慢疑)と五利使(身見、辺見、邪見、見取見、戒禁(かいごん)取見)とをいう。

貪とは我々の心の奥深く存在する執着の心である。ものに一度執われるとそれをどうしても離れることができない。瞋とは怒り腹立ちの心それが満足されないと腹が立ち憎くて仕方がない。痴とは道理に対する迷い、智慧のなさである。慢とはいつも他人と比較して、自分の方が負けていると承知出来ない心。自分を人と比較する必要はない。スミレはスミレ、タンポポはタンポポでよろしい。梅は梅、桜は桜で結構。それであるのに他と比べて、こちらが高いとか、向こうが美しいとか優れているとか言って落ちつかない。疑とは決着せずという。決断がつかずモタモタするものが内にある。

これを五鈍使という。これはいつまでたっても尾を引いて最後の最後の死ぬ時まで行動を共にし、ちょうど蓮根を切って引っ張るとどこまでも糸が続いてくるように、最後まで砕かれないので五鈍使という。使は私をこき使い、私はそれに追い廻されて、身のわずらい心の苦しみを持つ。

これだけではなく五利使がある。身見とは我見ともいい、深い自己執着である。自己中心的に考える。辺見とは物を極端に考える。有るか無いか、勝つか負けるかというように、片寄った考え、せっぱつまった思いである。人間は死ぬか生きるか、行くか帰るかというふうに一次元的に物を考えるしかない。このような片寄った考えを辺見という。邪見とは物の道理にそわない我が身中心の考え、自己肯定の考えをいう。見取見とは、私の考えに執われてそれを改めることができない。先入観を持つとそれに執われて虚心坦懐にものを見ていくことが出来なくなる。戒禁取見とは、宗教上のタブー、即ち食事の時左手を使ってはいけないとか、豚を食べないとか牛を殺さないとか、そうすると崇があるとかという宗教上の戒律に執われていつまでも引きずられる。これを五利使という。利は早いとか聰いとかいう。これは早く打ち砕くことができる。即ち仏法を聞いていけば、自己中心の思いや間違った考え方はやがて打ち砕かれる。私を追い廻しているから使という。五利使の方は打ち砕かれるけれども五鈍使の方は解決がつかない。最後まで砕かれない。これを合わせて十大煩悩という。

このような煩悩を兼ね備えて(具)足り余り満足している(足)から煩悩具足という。私には煩悩のうちこれだけはあるがあれはない、あれはあるがこれはないということがない。全部備わっている。どのような人もこの世に生を受けた人は悉く煩悩具足の凡夫なのである。

煩悩具足の凡夫と仏かねて知ろしめして、仏の眼にうつる人間の姿を言われているのがこの言葉である。

善導大師はこの煩悩具足ということを、煩悩具縛の凡夫と言われた。具縛とは、身動きならぬように縛られているのである。聖人は『唯信抄文意』に「よろずの煩悩にしばられたる我等なり」と言われた。曇鸞大師は、身は煩悩に縛られ足は地獄につながれているという表現で言われている。備わっているだけでなく、それによって追い廻され縛られている。身動き出来ない、深い束縛の中に生きている。これを凡夫というのである。

我々は凡夫ということを聞いた時にどう考えるか、三つある。

先ずこれがあたりまえだ、これより外はない、みんなこうなんだと思う。仕方がない、どうしようもないという深い自己肯定がある。お手上げである。次に、これではいけない、何とかしたい、煩悩を無くしたいと思う。も一つ、煩悩の底に仏性がある。人間は煩悩の奥底にすぐれたもの、玉のような立派なものを持っている。それを磨き出していこうとする。

これではいけないというのを定散心という。このままではいけないのであって、心を静めていく(定善)行いを正していく(散善)という二つをやっていけば何とかなるのではないかという考え方を定散二善という。煩悩の底に仏性ありというのを自性唯心という。人間は人間の深い心の奥底にすぐれたものを持っている。これをいう。

これらに共通なものは深い自己肯定である。仕方がないと居直っていくか、これではいけないが、しっかりやればよくなるのだというか、煩悩の底にすぐれたものを持っているのだというか、人間は皆自己を正当化するしかないのである。結局深い自己肯定から逃れることができない。

しかし「煩悩具足の凡夫」とは仏の深い痛み悲しみの言葉である。もしも自分の上に「煩悩具足の凡夫」という言葉が自己肯定でなしに、「煩悩具足の凡夫南無阿弥陀仏」と、懺悔の言葉、念仏となったならば、それは人間の発想ではない。人間は居直るか、落ちつかぬか、どちらかの態度しかない。それなのに煩悩具足、煩悩具縛と目が覚めてあやまり入る(懺悔)ことになるならば、それは人間の発想ではない。仏心の成立である。

われらは煩悩が根本となって迷いの心、迷いの言葉、迷いの行いが出てくる。煩悩具足(惑)が行い(業)働きとなって出てきて、苦しみとなる。これを惑業苦という。そこに生死を往来して、涅槃に到ることが出来ないわれらの現実がある。

この私の姿が「煩悩具足の凡夫、南無阿弥陀仏」「煩悩具足の凡夫、お粗末なことでございます」となるならば、それは仏の智慧の眼にうつる私の姿がそのまま私の眼にうつっている。その私の眼、私の心は、人間のものでなしに涅槃の心、如来の心を与えられたのである。それを信心といい信心の智慧という。

信心とは、何かを信ずるというのではなく、如来の悟りの世界を我々に与えられることである。如来のお心が私の心となる。念仏が私に成立して私の煩悩具足の姿を痛み悲しみ、「申しわけありません南無阿弥陀仏」となる。これが信であり、そのまま仏心の成立である。

「仏かねて知ろしめして煩悩具足の凡夫」と仰せられたこのお言葉が「その通りでございます南無阿弥陀仏」となるのを信心という。

煩悩に明け暮れして苦しんでいる姿を罪悪深重といい、一生造悪という。一生造悪と自らを懺悔された道綽禅師のお言葉は、まことに仏の智眼にうつる人間の姿を、自己の眼において自己と知ることができた仏智のお言葉である。これを仏法成就という。仏となる道である。仏となる道は、仏の眼にうつる姿を自己の姿と見ることができるところから始まる。私が煩悩具足の凡夫とわかって、頭が下がっていくことが出発点である。

『歎異抄』第九章は、初心のうちはわかりにくい文章である。唯円房が尋ねていることは二つある。一つは、念仏申しているけれども喜びの心がない。も一つは、いそぎ浄土へ参りたき心のなさ、意欲のない自分というものをさらけ出して、それでは一体どうしたらいいのだろうかという疑問が出ている。

私をしっかり叱って下さい、私の足りないところを教えて下さい。どうやって立ち上がっていったらよいのでしょうかと、答を期待しているのである。「そういうていたらくではいかんではないか」と大喝一声気合いを入れてもらうことを期待するのである。けれども、第九章の答はそうではなしに、非常に地味な答である。「親鸞もこの不審ありつるに唯円房同じ心にてありけり」というように、叱りでも励ましでもない。だから初心の人には非常にわかりにくい。けれども本当に聞かせて頂いてみれば、まことにこれ以上の答はない。実に深い答が述べられている。

「また浄土へいそぎ参りたき心のなくていささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆることも煩悩の所為なり」

「また」というのはその前の文章の続きで、唯円が二つ尋ねたことについて先ず一つを先に答えられた。「よろこぶべき心をおさえてよろこばせざるは煩悩の所為なり」と、そこに「踊躍歓喜の心疎かに候」ということの答が出ている。

「また」は第二の問いへの答である。「浄土へいそぎ参りたき心」のないということについて「また」となっている。これは第二の問いの答であるが、問われていないことの答もこもっている。

「浄土へ参りたき心」とは願生の意欲である。その心がなくて少し病気にでもなったりすると、死ぬのではなかろうかと心が滅入って淋しく思う。これもまた煩悩の所為であるとここは問うてないが、それをつけ加えられている。後の方には更に、「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里は棄て難く未だ生まれざる安養の浄土は恋しからず候うこと」というように、ここでは「浄土へいそぎ参りたき心」を、単に願生の意欲というだけでなく、あの世に逝くということへの不安とつながって述べられている。

この文章は昔から論の分かれるところであって、親鸞という人は病気をした時に、もう死ぬのではなかろうかと心細く思っておられたのであろうかどうかと、議論のあるところである。『歎異抄』は必ずしも親鸞聖人の心をそのまま表わしていないのではないか、著者の唯円の心がこもっているのではないか。親鸞を汚す唯円の『歎異抄』というように文句をつける時には、ここが一つあげられるわけである。「浄土へいそぎ参りたき心のなくていささか所労のこともあれば死なんずるやらんと心細くおぼゆる」とあるが、親鸞自身はそんな不徹底な、はっきりしない人ではないのではないか。『教行信証』にはそういうものは出ていない。だからこれはおかしいという説も生まれる。これについては後に申すことにしよう。

浄土へ参りたき心とは願生の意欲であることは間違いない。が今、死ぬ事と結びつけてある所が一つ納得のいかないことである。

願生の意欲ということについては、『教行信証』信巻末の「真の仏弟子論」の最後(12-93)に出ている。

「誠に知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑して、定聚之数に入ることを喜ばず真証之証に近づくことを快まず、恥づべし傷むべし」とあり、「浄土へ参る」ということは、正定聚の数に入り、真証の証に近づくという事に相当する。

我々は小さなドングリである。このドングリが光と水を吸収して遂に発芽する。そして太陽に向かって伸びていく。そこに願生がある。これを往相という。いよいよ聞かして頂きたい、深まらして頂きたいというものがある。これを欲生といい、願往生という。大きな世界にいよいよ前進しようという意欲、しっかりやらなきゃいかんという志願を打たされるのである。

そしてもう一つ、人生の中に深く根を張って、少しでも人々の為に働きたいという思いが生まれてくる。これを還相という。往相還相共に廻向であり、すべて与えられ賜わったものである、この往相廻向が浄土へ参りたき心、真証の証に近づく意欲ということである。殻を破って広い世界に出され、意欲を持った生き方が与えられる。これを「浄土へいそぎ参りたき心」という。

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