五、わが計らいにて作る善

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

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計らいとは何か。思議という。思いはからいである。「義は宣なり」という。宣は、どれがよいか、どれが正しいか、どうするのが本当かと考えることである。これを思議するという、計らうという。人間の思慮分別である。そこにできる善を「計らいにて作る善」という。 

計らいとは、一つは知的立場に立つことである。「われ何をなすべきか」としっかり考える。感情におぼれず論理的筋道を立てて考える。知的という。も一つは倫理の立場である。如何になすべきか、よりよい結果が出るように、より大きな善、より本質的な善をなすべきだというように考えていく。知性を根拠にして倫理的に考えていくのが私共の計らいというものである。

思議は純粋に思議すればするほど理想主義的なものになる。かくあるべきだ、こうでなくてはならないということになっていく。そこに深い落し穴がある。知性は正しいもの、論理的なことが間違いないものと思いこんでいる。現在の学校教育は大体ここに中心を置いている。筋道を立てて考えて、よいと思われる事をやり、悪いと思われる事をやめるという知性的な立場と倫理的な立場を強化していくのが学校教育である。こうして人間の思議する力をつけていこうとする。これが学校教育の中心である。理想主義的な行き方である。そこに落し穴がある。

どんな落し穴か。二つの落し穴がある。それは、

(1)人間が愚かさを持っているということが計算に入っていない。
 人間の考えは、理届が通っていれば正しいという仮定の上に立っている。ドストロエフスキーの『罪と罰』で悪い奴は高利貸しの貪欲婆さんである。皆を苦しめている。そんな奴は生きている価値はない。それを殺してしまうことが皆の幸せなんだと考える。どこも間違っていない。で、ラスコリニコフはそれを実行する。何を忘れているのか、神を忘れている。神を忘れて自分が神になっている。人間は愚かさを持っていて、神ではないのだということが無視ざれている。そこであとから考えるとどうしてあんなことになったのか、どうしてそんなことをしたのかということになる。政党の汚職でも、これが十何万票も国民の支持票を集めた人のやる事かと思われる程愚かしいことが多い。が、これが人間の現実であって我々も皆同じ愚かさを持っている。つまらぬことで非行化していく子供達、つまらぬことで右往左往する我々大人、みな愚かさを持っているということがわからなければならない。これがわからない所に落し穴がある。

(2)みんな卑しさを持っている。
 卑しさとは自己中心、打算的なものである。何とか彼とか言っているが、結局最後は我が田に水を引くように考えている。この卑しさと愚かさをみな持っているということがわからないところに理想主義の落し穴がある。

倫理という点から言えば、何が一体善なのかということは本当には我々にわからない。それでは学校教育も何も成立しないではないかと言うであろう。善いということはあるにはある。が、本当に徹底的に善とは何かを考えるとわからなくなる。親切がいいというが、親切が仇ということもある。困っている人を助けるのは親切だが、その人を助けない方が親切ということもある。我々にはその判断がつかない。今、子供が滑って転んだ。起してやった方が親切のように思えるが、親は放っている。あの子は甘えるから自分で立たせねばいけないと思うから放っている。それを他の人が来て起したのでは親切にはならない。こういうこともあって何が善かということは簡単にいかない。我々には本当の智慧がないのである。先の先まで見通す智慧がない。長期計画を立てるという。十年計画などというのは立てない方がいい。なぜなら十年間にはとんでもない変ったことが起るからである。例えば昭和十年から昭和二十年が見通せたかというと、見通した人は一人もない。昭和十年といえば日支事変がまだ始まらない前であり、昭和二十年といえば日本は無条件降伏をして徹底的に負けた年である。こんなことはわかる筈はない。昭和二十年で昭和三十年がわかるかというと、わからない。だからあまり先のことは言わぬがいい。実に智慧がない。その謙虚さを持たねばならない。

わが計らいは知性と倫理に根拠を置いて、これが善だと言っている。これを雑善という。雑多なことをやってその行く末を見てみると、よいと思ってやったことが必ずしも善い結果が出てこない。どうしてかというと、人間の自己中心の考えの入った善だからである。それを雑善という。自己主張、愚かさ、智慧のなさというお粗末なものの入った善であるからうまく行かない。

私もこの年令になり、自分のやってきたことをずっとふり返ってみると、殆どは失敗だった。人事をこうして、あの人をここに配してと、一生懸命考えてやったけれども、うまく行かなかった。長い年月で本当によかったことはたった一つ、仏道を続けさせて貰ったということだけは間違いでなかった。あとのことはよいと思ってやった事でもうまくいかないで、却ってやらない方がよかったというものが少なくない。私のいた大学は蛸の足のような大学で、本校が一つ、分校が福岡県の四箇所にあった。北九州に二つ、福岡市に一つあった。学生数は千人、教官は二百人、事務官も二百人いる。これをまとめて統一した単科大学とすれば、しっかりした中堅の大学になるだろう。五つに分かれていたのでは全部が小さなスケールで、お粗末極まるものである。ある分校の一部はもとは軍の馬小屋だったという所もある。私の化学教室は自動車修理工場であった。で、この大学を一つにまとめたならば立派な大学になるだろうと思って、ある年からその運動を始めた。五、六年かかった。分校を廻り統合運動を起して、最後に全学教授会に持ちこむのに何年もかかった。ある時は反対派が教授会に出席せず、定員に足りなくて流会したこともある。とにかく何年も苦労しながら、最後にとうとう統合が議決された。次には文部省を動かさねばならない。文部省は予算がないから統合校舎は出来ないというのを、一生懸命陳情して、やっと承諾が出るまでに合計六年かかった。で、ようやく一カ所に大学が出来た。十三万坪の土地に一万坪の校舎を建てて立派になった。私はその初代の学生部長をやらされて新しい路線を引く仕事を受け持った。初めは非常によかった。ところが人が一箇所に多く集まると悪い事がだんだん起ってくる。教官の間にブロックが出来る。何よりもいけない事は教官と学生の間がうとうとしくなった。どうしても元のようにしっくり行かぬ。もとは分校に一年と二年がいて、少人数ではあったが非常に人間的な結びつきが強かった。三、四年は本校に入ったが、それでも教師と学生の間には心の交流があった。統合して一つにしたらよかろうと思っていたが、結果は期待したほどよくなかった。どこがどうなってこうなったのかよくわからないが、どこかが違っていたんだなと今つくづく思う。大学は一箇所にまとめればいいというような、物理的な問題ではないということが、今の年になるとわかる。一生懸命やったのだが、建物はできても中味はできなかった。空しかったなあ、却って前の方がよかったのではないかと思うことがある。

殆どの人がそういう思いを持つのではなかろうか。色々な人が色々な事を沢山やるが、よかったなあというのは一時的なもので、長い目で見ると中々思うたような結果にはならない。やはり人間の考えにはどこかに愚かさがあり、考え方が単純だ。表面的なことしか考えないで、本質的なところを忘れている。これが、わが計らいにて作る善であるのではないか。

計らいで善を行じた人の行方はどうなるのか。辺地、解慢、疑城、胎宮という。辺地とは片ほとりである。孤立してしまう。なぜなら、おれがやったんだという思いが残る為に、全体からとり残されて精神的に孤立していくのである。懈慢とは懈怠憍慢の心をもって辺地に住するという。また、疑城胎宮とは、城の中に閉じこもるように閉鎖的になる。母親の胎内にあるにたとえて胎宮という。大きな天地に出られないのである。

このような世界の持つ内容は何か。善を行じたという思いがあって、行じたその善の私有化によって彼は自ら閉ざされていく。年寄りになって、私がやったんだ私がやったんだという人には深い懈怠憍慢がある。なる程その人がやったに違いないが、「お恥しいことである。私がやらせて頂いたのですが、私だけの力では毛頭ありません。あれは皆のおかげです。」とならないで、私の手柄であり私有化されたものとなる。

これが、わが計らいにて作る善の行く末である。

わが計らいにて作る善はどうしても作為的であり、その善が何らかの手段となっている。結局自分の名聞(人からよく思われたい)、利養(自分が得をしたい)、勝他(負けてはならぬ)というものが中心になっている。先に申すように大学の統合の問題も、結局よその大学に負けてはならぬ、我々が幸せになれるのだ、蛸の足大学では名前も上がらぬ、というように、どうしても不純なものが入っている。

心の底の信罪福心とは善を手段化して、自分が幸せを得るための手段として善を行じていくという心をいう。これを無明、疑いという。この心が私にあって善いことをしよう、仏法を聞こうということになっているのがわれらの実状である。

わが計らいにあらずという真の善は、自己に肯定されるものでなく、一つには慚、二つには愧という(『十住論』)。真の善は行動を持つ。それを戒行という。これだけは是非やろう、これだけはすまいと人間の生き方を守っていく。それだけでなく心の底に慚愧がある。戒行が慚愧と和合する、調和する、一緒に善となるという。慚愧、懺悔とは如来に対してあやまるということ。誠に私は愚かなお粗末なもので申しわけないことですという、如来に対して深い私自身の無智をお詫びしていくことである。慚愧とはお恥ずかしいことです、まことに微々たることで皆さんの御期待にそうことも出来なくてお恥ずかしいことであると、天にはじ(慚)地にはず(愧)という。しかしながら、これだけはやりたいというとき、戒と慚が和合するという。三つには信。信心、本当のめざめがなければ行が善にならない。

真の善は私がやったんだということにならない。作為的でなく、お恥ずかしいことであるということが出てくる。この時それを行者において非善なりという。

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