二、第四章から八章までのつながり

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

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第四章から八章までを考えると、第四章には慈悲の問題が出て「慈悲に聖道浄土のかわりめあり」とある。我々の考える慈悲は理想主義的な慈悲で、かくあるべし、かくあるべからずと考えるが、本当はそれは続かないのであって、慈悲は最後は念仏申すということに極まる。「浄土の慈悲というは念仏していそぎ仏になりて大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益する」といわれる。我々には愛情がなければならない。社会に対して、家族に対して、あるいは周囲に対して愛情がなければ人間として成り立たないのである。けれども、本当の愛情というのは浄土の慈悲である。それは深い如来浄土の慈悲、私に注がれている如来の世界からの深い働きかけに目がさめて、そこに深く心の方向が決まって念仏していく。その時不思議にも私の背後に慈悲というものが展開する。しかし慈悲は自分においては肯定できない、私が愛情をもって人に働きかけているのだとは到底思えない。私自身の行き方は如来の慈悲にめざめて念仏していくという方向であるのに、不思議にもその後ろ姿の中ににじみ出てくるものがある。人は前を向いて進むしかない。が、その後におのずから愛情がにじみ出てくる。それが如来のお慈悲である。「念仏申すのみぞ末徹りたる大慈悲心」という文章が第四章の中心であった。慈悲は念仏に帰結するのである。

第五章は孝という問題である。親子の関係、広く言えば家庭。結局それは念仏に帰着する。「ただ自力を捨てていそぎ覚をひらく」という具体相が「念仏していそぎ仏になる」ということである。念仏のところに本当の孝が成り立つ。

第六章では、真の師弟関係は念仏するところに成立すると教えられている。

第四、五、六章は、つづめて言えば念仏である。これらの念仏が無碍の一道であり、何ものにも障えられない自由自在の天地であるというのが第七章である。念仏の徳が念仏申す者の上に成り立って、慈悲となり孝となり深い人間関係の成立になっている。第七章はこの念仏者の上に成立する大道を讃えられた文章である。深い喜びと感銘があらわされている。

第八章では、この念仏が「ひとえに他力」である。他力というのはひとえに如来の本願力であることを教えられている。第七章の無碍の一道は、我々に賜う如来の本願力である。第七章と第八章は直結している。第七章は第四章から第六章までのまとめであり、その第七章の帰結というか、背景となっているのが第八章である。

第四、五、六章のおこる本となっているのは第一、二、三章である。第一章では弥陀の誓願という。私の上に弥陀の誓願が届いて信が生まれるというのが一番の中心である。そこに生まれるものを他力の信という。この信は具体的には第二章のよき人の仰せを被るというところから生まれる。「親鸞におきては『…』とよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」である。よき人の仰せとは、「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚言したもうべからず、善導の御釈まことならば法然」の仰せそらごとならんや」と、釈迦、善導、法然という長い御苦労の歴史を通って弥陀の本願が届いてくるのだというのが第二章である。そこに生まれるものが信心である。

第三章は、そこに生まれる信心は他力をたのみたてまつる悪人の誕生、お粗末な私という自覚の誕生であると教えられている。

この第一章二章三章から生まれるものは、一方から言えば信心であるが、同時に南無阿弥陀仏という念仏である。この信、この念仏が慈悲となり孝となり師弟関係として展開するのである。それがひとえに他力であると示されるのが第八章である。

以上をまとめてみると二つ言える。一つは、第四章から頂くと八章までで一つまとまっていて、四、五、六章のつづめが第七章であるということ、即ち信の成立において無碍の一道が展開されてくるのが、外に慈悲となり孝となり師弟となるのだ、これが第七章までである。その七章がも一つ掘下げられたところに第八章がある。これらの徳が悉く他力であって私の善でない。「ひとえに他力にして自力を離れたる」ものである。これが念仏の内容となって展開するのである。これが行者のために非行非善である。われらの善として肯定すべきものなく、私の行として主張すべき何ものもない。これ悉く如来本願力であるというつづめが第八章になっている。

も一つは、第一章から第八章までが連続していて、第八章がつづめになっている。弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、遂に私が深いめざめを頂いて慈悲、孝、師弟関係が展開する。それ(ことごと)く無碍道であって、それがひとえに他力である。この最後の結びが第八章である。「ひとえに他力にして自力を離る」という言葉が、『歎異抄』第一章から八章までの結びの言葉になっている。

以上の領解は高原覚正師の『歎異鈔集記』の御教示によるものである。

第七章は、信心決定して念仏申す者の上に無碍の一道が展開することを述べてある。「魔界外道も障碍することなし」である。この言葉は実に素晴しいと言わねばならぬ。

今から七百年も前のことである。その頃は迷信が横行し、深い山には魔物が住んでいると言われていた。今日はずい分ひらけてきたが、それでも深山幽谷にたった一人で入ったならばあまり気持ちはよくないであろう。物の怪があり魑魅魍魎(ちみもうりょう)というものが横行して、人をおそい人を引きずり込んでいく。あるいは物の(たた)りという考えが横行していた時代である。その中で、「魔界外道も障碍することなし」「念仏者は無碍の一道なり」ということを断言し得たということは大変なことである。親鸞というお方はこれだけでもすぐれたお方であるといわねばならない。こういう人が日本人の先祖の中にあったかと思うと、目を見張る思いがする。古典といわれるもの、源氏物語とか後の平家物語などを見ると、物の怪とか崇りとか、悪霊とかが人を悩ますということが随所に出ている。人は皆それを信じていたのである。旱魃(かんばつ)が起ったり火災が起きたりすると、みんな神に祈り護摩を焚きお経をあげて、天下挙げて加持祈祷をやっていた時代である。その中にあって「信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」と言い切って生きぬいたお方がある。我々はそのような大先輩を持っている。積極的というか力強いというか、真の仏教の一面がよく表わされている。

無碍の一道というところに、念仏を頂いた者の深い感銘、深い感動がある。そこに動かすことの出来ない信念がある。聖人は信念という言葉は使わないで、金剛不壊の信心と言われた。動かない壊れない、何ものにもびくつかないものが生まれるのである。弥陀の誓願が私に届いたところに金剛不壊が成り立つ。それを「無碍の一道なり」と声高らかに言われた。「罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなし」。何も心配いらないんだと。金剛とはダイヤモンドである。ダイヤモンドは物の中で一番固く、壊れない。高い温度でもとけない。不壊ということを表わす喩えとして金剛を使った。この世のダイヤは融けることもあろうが、今は金剛という喩えを出して壊れない信ということを言われた。何ものにも壊れず、何ものをも壊していく力を持つものを金剛不壊という。

この言葉を始めて使った人は道綽、善導である。善導大師は『観無量寿経』の解釈をしているその中に、師の道綽の言葉をうけついで金剛という言葉を何回も使っている。親鸞聖人はこのことを讃えて和讃を作って、「真心徹到する人は金剛心なりければ、三品の懺悔する人とひとしと宗師は述べたもう」と言われた。金剛心を言う時にはわざわざ善導大師を出しておられる。

何が壊れないのか。信心が壊れない、信念が壊れないという。しかし人の信念というものは本当に壊れないものだろうか。そういうわけにいかない。人の考えていることというのはみな壊れる。少なくとも壊れやすいものである。壊れないものは如来のまごころである。この如来のまごころが我々に届いたところを金剛の信心という。

信心が金剛であるとは、私が自己自身に目がさめて私の本当の姿がわかる。私が何であるかということが本当にわかってくる。それが壊れない。天が破れ地が裂けようとも、私が何であるかという自覚、私への認識、私への思いというものは変らない。人が褒めようと褒めまいと、くさそうとくさすまいと、どんなことが起っても私への自覚をこわす何ものもない。それを金剛不壊という。そこに生まれくるものが無碍の一道である。内に金剛、外に無碍である。そこに深い感銘があり感動があり讃嘆がある。感銘、感動を信心という。感銘、感動をもう一つ言いかえると感謝である。深い喜びであり深い懺悔である。

信心というと、色々な人が色々なことにとっている。入信という言葉がある。「私は信じまして」という人がある。よく聞いてみると、或る時深い感銘を受けた、深く了解した、そこが「私の入信」ということである。それも結構、熱心に仏法を聞いた人は、涙の出るような体験を持つものである。殆どの人にある。これが入信とも言える。しかしながら入信というものは一つの体験になりやすい。「私は何年何月に深い感銘を受けて入信したのです。だから今も信者であります」という人がある。それは違う。入信は体験ではない。体験とは過去の経験である。そういうのは信心とは違う。

信心は感銘であり感動であるが、しかし過去の体験ではない。今なのである。信心は常に現在である。試みに親鸞聖人が信心について言われるところをみると、過去形では言ってない。現在形で言ってある。「今ここに」とか、「聞く所を慶び獲る所を嘆ずるなり」というふうに、必ず現在形で言われている。あるいは「真宗の教行証を敬信して特に如来の恩徳の深きことを知んぬ」とある。これは現在完了形である。現在完了は過去から現在まで引き続いているということである。信心という感銘、感動が過去の或る時の感動でなしに、今ありがとうございますであり、今、ひとえに他力にして自力を離れた南無阿弥陀仏でなければならない。それが真の感銘であり感動であって、今喜べるのを信という。「天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」と、南無阿弥陀仏が現在の感動である時にそれを信心という。過去の体験が過去で終ってしまってはいけない。私は入信という言葉はあまり感心しない。私共の先生は使われなかった。

第七章は「念仏者は無碍の一道なり」と、誠に有難いことである、感謝にたえないことである、金剛不壊のまごころが届いて下さって無碍の一道となって下さったのだという喜びがにじみ出ている。そのことがよくよく考えてみると「ひとえに他力」なのである。

第八章は「ひとえに他力にして自力を離れたる故に」と、第七章の感銘のも一つ奥にある感銘を述べられたものである。

高原覚正師は「念仏はひとえに他力にして如来の本願力なり」と言ってこれを味わっておられる。「如来の本願力なり」とは先にも申すように、『教行信証』の行巻の言葉である。「他力というは如来の本願力なり」とある。「念仏はひとえに他力にして」というのは『歎異抄』第八章である。これを一緒にして「念仏はひとえに他力にして如来の本願力なり」である。まことに私が今、深い感銘と感動を得て、よかったと喜ぶことができ、有難うございましたと感謝して、いかなるものにもぶつかっていく力を与えられた、無碍の一道を与えられた、このことをよく考えてみると、これひとえに他力であって如来の本願力である。これは第七章の奥にあるもう一つ深い感動である。考えてみると悉く如来の本願であるという感動が新たに深く出てくる。「一つの感動が更に深い感動になっていくというのが、第七章から第八章への続きである」。第七章と第八章の関係について高原覚正師はこのように言っておられるが、名言であり、深い教であると思う。一つの感動が更に深い感動をまき起すのである。

感動ということは大変に大事なことで、私をゆり動かすものであり信心である。反対に感動をしないというのは観念的であり頭の中だけの理解にとどまっていることである。大きなものにふれて感動せしめられるということが大事である。光と水を受けとめて、殼を破って発芽し、更に伸びてゆく者は、教によって自分がつき動かされる。これが感動である。

この感動はどこから生まれるのか。それは心の最奥部からである。人間生活という点から見ると大部分が活であるが、その底に生がある。活とはこの世を食べて生きていくということで、例えば入学、卒業、就職、結婚、育児、教育というように、生まれて死ぬまで忙しい忙しいというのが活である。この世の生きざまということである。この活においても感動はある。涙が出るような、胸をしめつけられるような深い感動を覚えることがある。悲喜交々の感動がある。が、これは浅い感動なのである。なぜなら、時間がたち年をとると、その感動はうすれて無くなってしまう。しかしこの感動も大事なことであって、特に若い時は、野球の試合に勝ったとか負けたとかといったことで青春を燃焼することが大事で、そのような感動をぜひ味わっておかねばならない。最近はそういうものも少なくなったようである。

深い感動は後生の一大事という生(仏教ではショウという)の問題である。あるいは出世の一大事ともいう。後生の一大事という言葉は、近代の人にはわからなくなってしまった。後生というならば後の世、あの世に往ってからのことではないかということになっているが、それは間違いである。

今ここに卵がある。親鶏から生まれた時は卵であった。中に白味と黄味と胚があり、これが卵がこの世に生まれてきた生である。これで終るのかというとそうではない。卵はもう一つの生を持っている。それは死んでから先ではない。卵が生きている間に、親鶏がこれを温めて、目玉ができ足ができ嘴ができ毛並みが揃ってきて、卵がひよこになって、殼を破ってピヨピヨと生まれ出る。これを後生という。親鶏から生まれたままの生に対して、後であるから後の生という。死んでから先ではなく生きているうちのことである。第二の誕生を持つということである。これを人間形成といい、人間変革という。人間生成という。小さな殼に閉じこもっている自己中心的な人生からも一つ生まれ出ることを後生という。これが人間にとって一番大事であるから後生の一大事という。活の中にも感動はある。映画を観たり遊びに行ったり。しかしそのような活の中での感動は、一時的なものに終って永続しない。

本当に永続する深い深い感動は後生の一大事の解決である。殻を破られて広い天地に出された。そして無碍の天地を生きる身となった。そういうところに深い感動がある。

第七章には、無碍の一道を与えられたなあ、本当によかった、「罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき」という道を与えられた感動が表わされている。そして、それが如来の本願力であったという感銘を第八章に述べている。深い感動が更に深い感動をよぶとはこれである。

「念仏は行者のために非行非善なり」というこの第八章の言葉は、第一章からの続きであって、この章だけ聞いて頂いてもなかなかわかりにくい。その中心である「念仏」ということについて、これまで何回も申し上げたが、新しい人もあるから、も一度言っておかねばならない。

念仏には二つの意味がある。一つは憶念、仏を念ずるということである。念ずるとは心に深く憶うこと。仏とは、正確には仏陀である。仏陀とは覚者、小さな世界を出て大きな世界にめざめた人、その一番初めを釈迦という。そこで釈迦仏という。釈迦が仏陀となった根本を阿弥陀という。弥陀はアミタユース、アミターバー、永遠、無限ということを言っている。仏を念ずるとは弥陀、釈迦を憶念することである。

私がいる。キリスト教は、私を創ったのは神であるという。万物の創造主という。これに対し現代人には抵抗感がある。私を神が造ったということに対して、そうだと納得する人もあり、納得出来ない人もある。私は納得できない方で抵抗がある。

仏法では私を法、ものがら、万法諸法の一つであるという。このものがらを包み、ものがらを本当にものがらたらしめるもとを真如法性という。法のもと、道理である。その大きなものが小さなものに働きかける姿を如来という。大きなものが私に働きかけて、この小さな私を大きな世界に出さずんばやまじという働きを如来の本願という。これを南無阿弥陀仏という。南無は帰れ、来れであり、阿弥陀仏はこの大きな世界を言う。「汝、大いなる世界に出でよ」と私を呼んでやまないものを真如法性の具体的働きかけといい、如来本願という。これを仏という。これを一番初めにわかった人が釈迦である。釈迦は弥陀によって仏となったのである。

ここに一つの大きな磁石がある。この磁石はただあるというものではない。磁石は働く力を持っている。目には見えないが磁力を持つ。板の上に鉄粉を撒いて下に磁石を置くと磁力線ができる。磁力を出して全てのものを磁石にせずばおかんというのが磁石の働きである。一本の釘があるとその釘は引きつけられて磁石になる。その釘は次の釘を引きつけて磁石にする。大いなるものの働きかけにより釈迦も仏になり、それに続く諸仏が誕生する。諸仏のこの世における姿を菩薩という。いわゆるよき師よき友である。こうして仏教は伝わってきたのである。磁石が釘を引きつけ、釘が磁石になった。そして次の釘を引きつけ引きつけて三千年経ったのである。その一番初めを釈迦という。念仏という時には、その根本である仏を憶うということである。仏を憶うとは、仏の働きを憶い仏の私に対する呼びかけを憶い仏の本願を憶うことをいう。

念仏のも一つの意味は、南無阿弥陀仏と口に御名を讃えて称名念仏申すこと。釘が磁石になったならばその時、仏に対する深い感謝と懺悔、喜びとお詫びがある。有難うございます、相済まないことでございますというのが念仏、南無阿弥陀仏である。従って本当の念仏というのは口先だけで申しているのではない。憶念と称名念仏は別のものでなく一つのものである。心に仏を憶うことがなければ称名は出てこない。本当の称名は必ず憶念と離れないものである。

今日、大事な問題は現代人が南無阿弥陀仏と念仏申すようになるのにはどうしたらよいかということであろう。『歎異抄』にはこのような念仏が述べられてあるが、現代の人にはだんだんと念仏がわからなくなるのではないか。念仏を申す道を明らかにしなければならない。これはこの時代に生きる念仏者の責任である。南無阿弥陀仏という念仏が日本人から無くなっていくのではないか。念仏はもはや漫才の種としてもあまり通用しなくなった。落語に念仏申す老人が出てくるけれども、念仏ということはある年代以上の人にしかわからない。念仏婆さんがナマンダブ、ナマンダブと言いながら猫を叱ったり小言を言ったりする。しかし念仏申す人がいなくなったから、こんな落語は通用しなくなった。念仏こそ日本人にとり返さなければならない大問題である。念仏申す人が減ってきたのではなく、無くなってきた。これを何とか多くしなければならぬと思う。

現代人にとって苦手は合掌することである。手を合わせて仏に合掌礼拝するというのが難しい事になった。実に大変な時代である。青年層は宗教にして非常に無関心である。大きなギャップがある。

私はそれを痛感している。大変な危機を迎えていると思う。原因はよくわからない。が、私が思う一つは家に仏壇が無くなったことだと思う。家が狭くなり2DKや3DKになったから、仏壇を置く余裕などない。仏壇は人が死んでお位牌を入れておく所になっている。仏壇がないから朝晩仏様にお参りするということはなくなってしまった。子供の時からそういう習慣のない者が成人して合掌礼拝するということはむつかしい。

も一つの原因は、学校の教材に宗教的なものがないことである。文化的なことは取り入れられるけれども、人間の心を打つようなものはなくなってしまった。こういう色々な理由でこのような状況になったのであろう。

これを立て直そうとするならば、一つは幼児教育が大事、も一つは小、中、高校生に、学校以外で宗教々育をやること。小さな子供に宗教を身につけさせねばならない。何といっても日本は仏教の長い長い伝統を持っているのだから、一朝一夕に無くなる筈はない。どこかにまだまだ温かみが残っている。今、その温かみに木を添えたならば必ず燃えあがる余熱がまだある。このままで終らせてはならない。

念仏は仏の本願を念ずることである。それには釘が単なる釘でなく、磁石に吸いつけられていくということが大事である。念仏の意味をはっきりしなければならない。

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