十三、罪障功徳の体となる

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 罪障によって私が殻の中で右往左往して不安と後悔と恐怖の中に閉じこめられていたものが、大悲にめざめ罪障が念仏となる。これを「罪障功徳の体となる」という。体とは当体という。現実即念仏である。現実がなければ念仏がない。それを当体念仏という。

 仏法がわからない、信心が得られないという人がある。その原因はただ一つ、自己を知らないということに尽きている。自己とは罪深い私、『歎異抄』第九章でいえば「かくの如きのわれら」である「お粗末な存在」である。この事がなかなかわからない。たとえわかっても対象化して善悪のはからいになる。

 こんなことではいけない、何とか立派にならなければという所にとどまって、如来の本願がわからない。どうしても自分の主観から抜け出すことが出来ない。これを罪障が念仏にならないという。

 罪障を主観の天地でよしあしの対象とすることは、経験的自我(今まで罪を重ねてきた私)の私物化である。自己の経験を自分でしっかり抱きしめて離さない。経験を私有化しているのである。

 罪障功徳の体となるとは、経験的自我(罪深い私)を私蔵するのでなしに、如来の前に投げ出す。罪深い私を仏の前に投げ出してお詫びをする。これを廻心といい懺悔という。如来の前に公開する。これを頭を下げると申すのである。ここに私のすべてが念仏せずにはおれないものとなる。

現実が念仏である。廻心懺悔において現実が念仏となる。これが罪障功徳の体となるということである。私のお粗末な姿が見えてきて、南無阿弥陀仏と頭を下げて念仏する。そこに大きなものが来って私の小さな殻を破って私の全体を摂取している姿がある。如来大悲が私の全体を歎いて下さる姿が南無阿弥陀仏である。それが私の口をついて出てくる懺悔の念仏である。ここに経験的自我の私蔵でなしに、自我の脱却ということが生まれてくる。脱却とは大きなものの前に自己を投げ出して頭を下げるということである。そのことが「罪悪も業報を感ずることあたわず」であり、罪悪が悉く南無阿弥陀仏になる天地である。これを南無阿弥陀仏が罪障功徳の体となるという。功徳とは念仏である。罪悪が懺悔となり感謝となる。転悪成徳である。

我々を内から崩壊せしめて元気のないものにするのは我々の罪悪である。その罪悪の無くなる日はない。この現実人生に生きる者は今日一日、誰が後悔なくして生きていくことができよう。しかしただ後悔だけで終るならば、経験的自我の私蔵に終る。そして暗い日々が続く。そうではなくてそれを脱却する道が示されたのである。罪悪の中にありながらそれが後悔、不安、恐怖とならずに、かえって自分を前進せしめるものになる。そういう世界があるのだということを言われたのが、無碍の一道ということである。今はそれを「罪悪も業報を感ずることあたわず」と申されている。

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