四、無碍

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 無碍とは、さわりなしという。無碍自在あるいは自由自在ともいう。本願の仏教を聞き開いて念仏申すということが身についた人は、自由の大道というか、何物にも妨げられない無碍の天地に立つのだということである。自由とか自在とかいうのがさわりなしである。その反対は有碍である。不自由、不自在である。

 しかしわれらの現実人生には、宗教者であろうとそうでなかろうと、大人であろうと子供であろうと、無碍とか自由自在というものは全く成り立たない。実際としては有碍の人生である。沢山々々障害があって私の思う通りにはならず、色々な行き詰まりがあり矛盾があり、その中で本当に我々が自由闊達に生きるということは殆んど困難である。いや不可能である。それなのになぜ無碍ということが言えるのか。無碍ということが成り立つ筈はないと思われるのに、それが成立するのである。親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」と言い切って、更に「そのいわれいかんとならば……」と断言されている。そこでまず無碍というこころをよく考えてみよう。

 先ず我々は普通、自由という言葉をよく使う。自由ということについて英語で言えば二つある。一つはfreeということがある。free from 〜 あるいはfreedomという。これは色々の束縛から離れる、何も私を縛るものがないということである。今まで縛られていたものがなくなってしまう。解放である。もう一つはlibertyという。独立である。何物にも依存しないで自ら立つという。自由とは、解放と独立と二つに分けて考えられる。

 解放とは私の思い通りにやることかというとそうではない。自分の欲求や思いのままにやるのは、自分にとっては解放かも知れないが、周囲の人に対して不安を与え、恐怖心を起こさせることになろう。俺は金が欲しいんだといって猟銃を持って銀行に飛び込まれたのでは、本人は何も束縛なしに自分の思いを通したというかも知れないが、みんなに大迷惑をかけてしまう。それは人生の悲劇のもとである。

 大きな苦しみをみんなに与える。また、本人自身の悲劇を招くことになる。そういう自由であってはならない。従って本当の自由とは何かということをしっかり考えなければならない。

 無碍というのも同じである。本当の無碍とは何か。何らの束縛を持たないのであるが、それは自分の貪欲が法律からも束縛されず、道徳からも束縛されず、人の忠告もふり切って自分勝手にやることかというと、決してそうではない。それは多くの人を不安の中に巻き込むことになる。自分が思い通りにやっていることが、人にとっては悲しみであり苦しみであり恐れの原因になる。政治家が思い通りにやる、あるいは権力を持った者が思い通りにやったのでは皆が困るのである。本当の無碍とは何かということが問題である。

 自由とは自らによるということである。自らを縛っていたあらゆる束縛から離れて、本当に自らに由るのである。そして何物にもぶら下がらないで独り立つのである。その為に必要な吟味は一つである。それは、自というものの検討である。即ちいかなる自己に由るのかということが問題である。

 自己ということに二つある。一つは生まれながらの自己である。素朴的な自己というか何らの陶冶を加えられていない私というか、ありのままの自己というか、生まれながらの自己である。も一つは真の自己である。このどちらによるのか。

 生まれながらの自己というのは、鶏で例をとれば、親鶏から生まれ出た卵である。親木から生まれ落ちたドングリである。それは殼の中に入っている。生まれながらの自己は全部殻を持っている。卵はその殻の中に白身と黄味と胚を持つ。この卵は卵のままで一生を終るのではない。もう一つ大きなものになっていく可能性を持つ。しかし生まれた時は殼の中に入った状態で生まれてくる。

 その殼は自己中心である。エゴをもって自己を中心に考えざるを得ない存在として生まれている。これが生まれながらの自己である。この卵のままの自己が自分の思う通りにやったとしたら、そこに出てくる自由は自己中心的な自由であって、人のことなど考えない。子供が思う通りにやったならば親は心配で心配でたまらない。そういうのは真の自由ではなくて放逸である。

 束縛から離れるとは何か。卵にとっての一番大きな束縛とは殻である。その殻の束縛から離れるところに本当の自由がある。それを仏教では解脱という。即ち煩悩を解脱するところに自由がある。解脱がなければ自由はあり得ない。その殻を破るのには、卵がどれ程自分で頑張って破ろうとしても無駄である。親鶏が抱いてその熱を伝えていくと、彼の中にある胚が目玉となり(くちばし)となり毛並みが揃って、成長してヒヨコとなり殻を破って出てくるのである。卵でなしにヒヨコとなる。このヒヨコこそ真の自己の誕生である。大きく成長して新しく生まれた自己こそ、何ものにもぶらさがらず、何ものにも依存しない独立者である。この自己に由るところに自由がある。これが真の自由である。これを成仏という。解脱と成仏を合わせて涅槃を得ると申す。低次元の世界から成長して高次元の世界に生きてくる。ここから生まれるものを自由という。成仏というと、死んだら皆仏になるというが、あれは嘘である。迷ったままでは我々は、卵として腐っていくだけでヒヨコにはならない。ヒヨコになるのは生きている今でなければならない。ヒヨコはまだ鶏ではない。仏ではなく菩薩となる。菩薩道に立つ、大乗菩薩道に立つ、それを念仏者という。この世において念仏者となるのが本当の自由人の誕生であり、本当のリベラリストであり、本当のフリーダムというものを持っている者である。これを無碍という。これをも少し申したい。

 無碍ということに必要なものは智慧である。先に申すように自由とは、自分勝手にやることではない。何らの束縛を受けないということである。何らの束縛を受けないで自分の思う通りにやるままが、しかも何びとにも不安を与えず、何びとにも迷惑をかけず、かえって多くの人の為になることをやるというためには、智慧が生まれなければならない。智慧が生まれるためには彼自身の成長、卵からヒヨコになり殻を破るということが必要である。智慧というのは仏教の言葉である。フランス語ではエスプリという言葉がある。良識、叡智と言うべきものである。これでなければ自由自在にならない。本当の自由にならない。その智慧が人間の上に成り立ち、私の道となるとき真の自由がある。

 智慧の根本を真実智慧、略して真智という。真智は仏教では無分別智、平等智という。

 我々の上には平等ということは成立しない。みんなの人に平等に接することは不可能である。例えば自分の子供とよその子供とは接し方が違う。自分の親、他人の親というとやはり差がある。日本の国と他の国というと考え方も違ってくるだろう。物事に平等に接するということは我々にはできない。それを分別という。全てのものを私のもの、人のものと分別していくしかない。それに対して絶対という大きな世界に成り立つものを無分別智という。

 大きな世界とは何かというと、高い次元をいう。次元とは前にもいったが、数学とか物理学で使う言葉である。一次元というのは一つの方向だけを持っている世界で、いわば直線の世界である。勝つか負けるかの世界である。押すか押されるか、食うか食われるかというしかない。力関係でものを考えていくしかない。それが一次元である。二次元とは二つの方向があって平面を持っている。向こうからぶつかりそうになっても私がよけてやればいい。それが出来るのが二次元である。勝つとか負けるとかいうが、勝つも負けるもないのである。こういうのを勝ち負けを超えているという。一次元では勝ち負けがあるが、二次元では勝ちとか負けとかがない。それは高い次元において成立するのである。平等の見方ができるのは高次元の世界においてであって、これを無分別智という。

 その智慧の成立している世界を一如といい真如という。聖人は「真如一実の功徳宝海」といわれる。絶対高次元の世界である。これに対しわれら相対の世界は、低い低い次元であるといわねばならない。

 しかるに絶対と相対との関係はどうなのか。絶対と相対とは並んであるのではない。これを言われたのは西田幾多郎という人です。この人の最後の論文にある。西田哲学ともいわれる世界的にもすぐれた哲学を開かれた方で、禅宗の深い素養のある方ですね。だから初期の論文は大体禅宗的な表現が多い。しかし晩年の書物には、始めは道元的であったものが親鸞的な表現が多くなる。偉い人というのは、どんどん勉強して変っていかれますね。このお方は鈴木大拙師と親しく、その影響を受けられている。鈴木大拙師も禅宗の人であるが、晩年になるほど親鸞の、浄土真宗の影響を非常に強く受けられた方です。このお二人は大変仲の良いお方で、石川県の同郷の御出身だったと思う。

 その西田幾多郎氏の表現によると、

  1. 絶対と相対は単に並んであるのではない。必ず絶対は相対を包んであるのである。母親と赤ん坊があると、母親(絶対)と赤ん坊(相対)が二つ並んであるのではない。必ず母親は赤ん坊を抱いている。母親は赤ん坊を包んでいる。
  2. けれども単に包んでいるのではない。それは必ず働きかけである。絶対なるものは必ず働きかけるのである。

 絶対は相対の上に自己を表現しようとする。西田幾多郎氏はこのように言われる。絶対は必ず相対の上に自己を届けようとする。自己を成立せしめようとするのである。母親が単に赤ん坊を抱いているのではなしに、乳をのませ語りかけ歌を歌い、自分というものを相対に届け表し働きかけてくる。

 今、絶対を太陽とし、相対を氷とするならば、太陽と氷が並んであるのではない。太陽が必ず自分の熱をもって氷の中にその熱を届けて自己を表現し、氷を融かして水にし、水を更に水蒸気にして大きな世界に出そうとする。そのように働きかけるのである。その働きかける姿を如来という、如より来生するという。

 絶対即ち真智は、自己を届けようとする願いをもって働きかける。親鶏が卵を抱いてヒヨコにするように、相対なるものに自己を届けてこれを絶対なるものとしようとする。その姿を南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏が人間の上に届いて、分別智を破って真智を成就する。これを本願の宗教という。西田氏の最後の論文では、本願の宗教というものを非常によく説いてあります。これを読むと親鸞の教えを学ぶものにとっては大きな勉強になり、より新しい表現を学ぶことができる。

 無碍は智慧の成立するところに成就する。無碍は智慧において成立する徳なのである。無碍は我々の上にはない。我々がもし無碍自在にやろうとしたら、人に迷惑をかけ人生に悲劇を巻き起こし、皆に恐怖心を与えるような形でしか無碍にならない。それは本当の無碍、本当の自在でない。本当の無碍自在は如来にある。如来において真実智慧があるからである。そこに真の自由がある。それが人間の上に届いてはじめて、智慧が与えられ、無碍が成り立つ。

 例えば、何千度という熱がこの石ころに届いたならば石ころは熔けていく。熔けていくところに熱が届いている。分別智しかない人生に無碍智、無分別智が届く所に、人生に本当の智慧が成立する。人間存在という相対なるものは、殼を持った有碍なるものであるが、この上にたった一つの本当の智慧が生まれて、真の自由が得られる。それには大きな世界からの働きかけが届くしかない。こうして始めて智慧がその人のものとなり、本当の自由人が生まれてくる。こういうことを言おうとしているのが本願の宗教である。

 世の中には色々な宗教がある。わけのわからない宗教が沢山あって奇々怪々というべき一面がある。かつて三五教の人にあったことがある。アナナイ教と読む。その人はこう説明した。世界には三つの宗教がある。仏教とキリスト教とイスラム教である。その次に五つある。ヒンズー教と神道と何とか言っていた。その三大教と五大教の精髄をとって作られたのが三五教であるという。私はこれは大変なものが現われたと思った。で、どういうことをされるかと聞いてみた。すると日本海側の稲佐の浜にある石をとってくる。これを鎮魂の石という。この石を三宝にのせて、座禅を組んでじいっとそれを見ていると、心が鎮まって悟りを得るのだという。どんな悟りを得られのだというと、天地一体であるという。これで天地一体がわかれば大変なものだが……。このように多くの宗教の精髄をとって新しい宗教を創ったという人は沢山いる。こんなことで沢山の人が迷うのである。

 道は一つしかない。それは大きなものが小さなものに働きかけてくる道である。これが本願の教である。それが長く長く伝承され、三千年の歴史の中で陶冶されながら、ここに一人の親鸞という人を生んだ。この親鸞を『歎異抄』、『教行信証』、あるいは和讃等につぶさに見るならば、この人には迷信性が少しもない。また呪術みたいなものが全くない。今から八百年も前の封建性の時代の真直中で、全く迷信性を持たず呪術性を持たず、本当に人間の理性に訴えてしかも理性の殻を打ち破るその教には、まことに驚くべきものがある。どうしてこのような人が生まれたかと驚嘆せざるを得ないような人である。

 聖人の上に生まれているものが智慧である。聖人は実の智慧によって無碍自在の天地に出られた。封建怯も迷信も邪教も遠く及ばない世界に立たれた。それはまことに智慧の宗教である。人間を束縛していた穀、それが迷いであり劣等感であり、恐怖心である。その殻が打ち砕かれるところに、実の智慧の宗教が生まれてくる。

 自在人とは自由自在の人である。如来をいう。又は菩薩をいう。人生における如来の働きを菩薩といい、又必ず如来となる人を菩薩という。如来、菩薩において観境自在という。観は見る、考える。境は世界、相手の心、相手のおかれている状態である。相手を自由自在に見ることができるのである。我々は向こうのおかれている立場、心の状態、過去の業がわからない。だから邪推をしたり思い違いをしたりして、相手を本当に理解することができない。女性は言う。「男心と秋の空」と。男性はいう。「女心と秋の空」。お互いに相手がわからないということである。相手の人の状態がよくわかるようになるのを観境由在という。これを如来という。それは本当の智慧があるからである。もし我々の上にそれが届いたら、我々も少しつつ人の心がわかるようになる。

 又、刹土自在ということがある。刹土とは国土、あるいは住んでいる世界である。どんな人の世界にも自由自在に生まれていくことができ、入っていくことができる。それを刹土自在という。我々は自分の世界と違った世界にはなかなか入れない。学校の教師には教師の世界があり、学生には学生の世界がある。年の多い人の世界があり若い人達の世界がある。年が多いと若い人の世界にはなかなか入れない。教師は学生の世界には入りにくい。境遇が違うと相手の世界がわからないということがある。刹土自在というのは、どんな中にも入っていくことのできることである。

 私はこれを聞いて考えさせられる。私の所には少定員制の保育園があって、オシメをしている子から来春学校へ行く子までいる。私はこれをあまり大きな保育園にする気はない。なぜなら、一人の保母が保育できる人数は十人までが精一杯で、十五人では無理だと思う。それ以上持たせたら何も出来ない。園児が大勢になると保母は園児に、「気をつけ」「右向け右」と号令をかけるような保育しかできない。これでは本当の保育にはならないのではないか。この間面白いことがあった。来年学校へ上がる子達が小学校の運動会によばれた。一列に並んで「ヨーイ、ドン」で走って行って、向こうにあるノートを貰ってくるようになっている。他の幼稚園の子達も沢山来た。「ヨーイドン」の合図がなったら他の幼稚園の子は、隣りの子はどうするだろうかとキョロキョロしている。うちの園の子は天真爛漫、さっと走って貰って来て一番になった。独立心がある。うちの教育は図星に当ったぞと思い嬉しかった。人の顔色を見なければやれないような子を造ってどうしますか。それは、「気をつけ」「右向け右」をやるからだ。号令を聞かなければどうしてよいかわからないのである。これは脇道にそれてしまった。

 子供達の世界に入って行くには、自由自在でなくてはいけない。子供の世界に入るとは、子供に同ず」ることである。それには言葉をよく考えねばならぬ。子供に言っても了解されない言葉がある。「しかし」とか「従って」とか言ってもわからない。ある先生は、「子供の世界に入るには演出、演技をせねばならない」と言われる。私の所の若い職員が、演出とは厭ですねという。心にもないことを言って演出するのは厭だという。私は考えた。演出ということを英語でいうとplayである。playには、役割を演ずる、演出する、遊びなどの意味がある。playとは遊びなんだ。遊びといってもよくわからないが、仏法では遊戯三昧という。も一つplayには祈りという意味がある。そこに入って行ってそこで演じているのだが、祈りがあり願いがあるのだ。だから演技できるのだと思う。

 どのような国にも自由に入っていける。幼い者の中にも困っている人の中にも、学歴のある人の中にもない人の中にも、年寄りの中にも若い人の中にも自由に入って行ける。それは演技ともいえるが、しかし祈りを持っている。願いを持っているから入っていける。それを自在人というのであろう。

 即ち智慧は必ず慈悲である。大悲である。智慧と慈悲とは離れない。祈り、願いというのが慈悲である。

 命自在。これは寿命を伸縮すること自在という。如来はわが命をそこに集中することが出来る。衆生の為にわが命をつぎ込むのである。命をかけることのできることを命自在という。命が惜しいのが人間である。しかし、仏法のためには命を捧げようというのは命自在である。

 もしこのようなことが生まれたならば、困っている人の心に同調し、悲しんでいる人の心をたずね、そこに痛み悲しみ願いを持って仏法を勧め、求道を励ますような存在が生まれてくる。それを自在人といい、菩薩という。

 如なるものが南無阿弥陀仏となって我々に届くと、われらもまたそこに智慧を得、自在を得る。有碍の人生に無碍に生きるという天地が生まれる。それを第七章に言ってある。

 無碍に必要なものは無()である。(おそ)れるものがない。何に対してもびくつかなくてもいい。智慧によって無畏の世界が生まれる。恐怖と不安とが渦巻くこの有碍の人生に、何の心配もない人生が開ける。まことにその通りである。本願の教を聞きぬいていくところに必ず無畏が生まれる。これは間違いのないことである。私自身は内向的で気の小さい人間であるのに、どんな世界も恐れず入って行けるという天地を頂いた。まことに有難いことである。「五濁悪世の有情の、選択本願信ずれば不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身にみてり」。まことにこの御和讃の通りである。

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