十四、私有化を許されないもの

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 「如来より賜わりたる信心」

 「如来より賜わりたる信心」とはどういうことか。

 「如来より賜わりたる信心」というのは、後序にもある。後序の「信心一異の論」に、聖人がまだ法然上人の門下に居られたお若い時に言い争いが起った。それは聖人が「私の信心も法然上人の信心も同じである」と言われた。それを聞いた念仏房、勢観房などの人達が大変に腹を立てて、「そんな事がある筈がない」と言って親鸞聖人に食ってかかりなさった。その言い争いを信心一異の諍論と申します。それに対してとうとう法然上人の前に出て決着をつけようということになったところ、法然上人の仰せになるのには「善信房の信心も私の信心も同じく如来より賜わりたる信心」ということが出ている。後序の問題は親鸞聖人の三十才か三十五才の時であったろうが、第六章はそれから更に五十年たった八十才頃の出来事である。そこで聖人は「如来より賜わりたる信心」ということをおっしゃった。この「如来より賜わりたる」というところに、信は私有化を許されないものという仰せがある。

 如来より賜わりたる信を他力廻向の信という。廻向とは与えられた、賜わったという意味である。反対は私の信心、自力の信である。自力の信とは私の持っている信心、私の得ている信心である。自己肯定というか深いエリート意識を伴ったもので、私が持っている、あなた方は持たないというふうなものである。エリート意識とは自負心で、それを持っていることが他の人と何か違った趣があって、他の人を見くだすという心がある。一種の優越感を伴っている。

 元来、信心とか念仏とかいうものは、私有化を許されないものである。ある所で私が質問しました。相手は若い方ですがかなり熱心に聞法して、二、三年聞いた人です。向こうが質問されたついでに私が尋ねた。「あなたは念仏しておられますか」「ええ念仏申しております。言われた通りに数多く申すように努力して念仏申しています」。なかなか元気がいい。念仏申すということは大変大事なことで、訓練としてでも度々念仏申しなさいとかねて言っております。で、その人もその線に沿ってやられたとみえる。「ん、そうですか」と、私があまり感心したような顔をしないものだから「どこか足らんでしょうか」と質問された。「僕ならそういう返事はしないですね」。念仏申していますか、はい申していますというところには、念仏申しているという自負心または自意識があって、非常に元気がいいのだが、「僕ならそうは言わんなあ、『ありがとうございます』というか『おかげでございます』という」。念仏を私が申す、人は申さんでも私は申すということになれば元気のいいことになって、ある段階まではそれでよろしい。が、本当はそうではないのではないか。念仏とは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とは大いなるものの私に対する本願の名告りであり、呼びかけである。南無と私に呼びかけて下さればこそ、私において南無と答えていくものが生まれるのである。しかるに実際の我々の生活では、何とその申し方の足りない事よ、何と時々しか申さぬ事よ、何とお粗末な生活をしていることよ。従って「念仏申していますか」と聞かれたならば、勢よく肩をそびやかして「申しています」というわけにはいかん。たとい申しておろうとも「誠に申し訳ないことである」というか「まことに賜わっておればこそ、細々とながら申させて頂いておりましてありがとうございます」と感謝するか、とにかく感謝と懺悔と共なるものである。それは私のものではないのだ。それが「私の」というものになりやすい。自力の念仏が努力し私が精進してやっているというものであって、私の手柄になる。従って「やっています」という答になる。しかし先ずそこまで来なければいけない。が、それは私のものではないのだ。それには背景がある。それが本願であり教化である。すべて実行は決断と努力を伴うもので、先ずこれが第一段階である。けれども更に進んで行ったならば「有難うございます」「かたじけない」という感謝になるのではないか。それが賜わったものということである。私はドブに落ちた猫同然の見るかげもない存在であるのに、その存在に賜わっているものがある。これが信心、念仏である。そこまでこないと、親鸞聖人のお心に沿ったものとならないであろう。

 廻向の信とは、如来より賜わりたる信である。前序を頂くと「先師口伝の真信」とある。賜わるとは何か信心を貰ったというのとも違う。信心というもの、念仏というものというところに対象化、道具化がある。信心という物、念仏という物を考えている。信心という物を頂くのだというふうに物質化している。そうではない。何かを私が得るのではない。それは先師口伝である。よき師より口ずから伝えられて、それを私が聞き開いた。その聞き開いたところに生まれた信心を、賜わるというのである。

 ここに強い磁力を持った一つの磁石がある。この磁石はそばにある(くぎ)を引きつけてしまう。磁石によってこの釘が磁石になる。そしてまた次なる釘を引きつける。更にその釘が磁石となり、次々と次なる釘を引きつけて、とうとう私の所まで来てまた私を引きつけてしまった。信を私の所で見るならば「先師口伝の真信」である。よき人法然上人にお遇いして親鸞の上に信が成立した。これを聞其名号という。ここを就人立信という。このことを「よき人の仰せを被りて信ずる」というのである。よき人を善知識としてその教を聞きぬいたのである。が、その中に流れているものは磁力である。釘は磁力によって磁石になっている。それを就行立信という。よき人の仰せを被って聞き開いて磁石になるままが、大きな磁石の磁力の働きである。磁力の働きは、よき人という磁石の仰せを被るというところに成り立って来るのであって、それを如来廻向という。廻向とは何かを貰ったのではない。先師口伝の真信であって、その中を流れているいのち、本願の名号が働きかけたのである。よき人の働きが磁石の働きである。その磁力によって釘が引きつけられて磁石になった。その第一の磁石が、歴史的に言うならば釈尊である。本願によって釈迦が仏となったのである。この釈尊こそ本願の働き、本願力の具体的あらわれである。本願が先ず釈尊を生み、龍樹、天親、曇鸞という人達を次々と生み、とうとう親鸞という人に至った。この趣を「如来より賜わりたる信」という。よき人の仰せを被りて信ずる、その就人立信のままが就行立信である。先師口伝の真信のままが、如来より賜わりたる廻向の信である。

 この就人立信と就行立信は二つあるのではない。私とその前の釘の関係を言うならば「先師口伝の真信」、よき人の仰せを被りて信ずるのであり、そのままが廻向の信である。従って私が信じているとか、他にないものを私が持っているとかいうことがある筈がない。それは「有難うございます」であり、釈尊をはじめとする伝承の歴史に対する深い感銘であり御恩であり、元に帰せば誠に深い如来の御働きというものに対する感謝がその内容になる。「有難いことです」「申し訳ないことです」ということになり、自分のものということができない。対象化や物質化ではあり得ないものである。これを廻向の信という。廻向の信には背景がある。背景があるとは言いかえると、廻向の信は現存である。現在とは今ここである。十年前に信心を頂きました、入信しましたという人がある。今はどうですかと聞くと、「入信の体験を申すならば・・・」と過去のことになっている。今、ここで充実しているということが大事なのである。一般的に申して我々は未来の方に魅力がある。今はよくないが未来を考えると希望があり、いい事があるように思う。また過去がある。過去にこういうことがあったと、過去に執われていたり縛られたりする。若い間は未来に関心があり、少し年を経てくると過去に関心を持つ。過去、現在、未来とあるが、いずれも現在がぬきになりやすい真今こことは、過去が現在の中に内在し、過去と現在が密着して現在と離れない。それを今、ここという。磁石の磁力がずっと昔に働いたことがあるのではない。古釘が引きつけられているのは今なのである。過去が現在に密着して生きており、過去があるから現在がある。今ここがある。この今は長い長い背景を持った今なのである。哲学的に言えば「永遠の今」と言える。永遠を貫くものが今ここにある。ある先生は、歴史とは今までに至る過去の事実であると考えるが、歴史感覚というものはそんなものではないと言われる。過去の事実が現在の私によびかけて、私がその過去の事実に対して答えるものを持っている。感動するものを持っている。それが歴史感覚だと言われる。歴史とはこの私において離れることのできないもの、呼びかけに私が答えざるを得ないものである。従ってそこには時間の隔たりがない。釈尊は三千年の昔の人、親鸞聖人は七百年前のお方であるが、今私がその人に遇うのである。今ここでその人に遇うて感謝し、喜び、お礼を言わざるを得ない。そのように現在に過去が内在し、その現在が過去に応えてゆく。現在がよびかける歴史という背景を持つ。その背景の根源が如来であり南無阿弥陀仏である。それが私の現在によびかけ密着している。そこに現在が生きている。「今、ここ」である。これを廻向の信という。

 大きな背景が私の現在に生きて、私がそれに感謝するほかない時に未来が生きてくる。未来もまた、今ここである。未来は夢ではない。空想ではない。未来に対して私が使命感を持ち、果さねばならぬ私の仕事を持つ。また必ず滅土(涅槃)に至るという深い確信を持つ。そこに過去も現在も未来もすき間なく続いている。そういう「時」を我々は持つようになるのである。その時人は始めて永遠というものを知り、永遠につながって今が生かされていることを知る。そうすると自分はいつ死ぬかという不安とか、死んだらあとの者が困るだろうとかは考えない。畏れなしである。私は未来の人達に深い願いを持つ。どうかどの釘も磁石になってくれよという願いを持つ。それを使命という。

 廻向の信は過去の体験ではない。「今、ここ」という事であるということを申しておく。

 その前の方に「わが計にて人に念仏を申させ候わばこそ」とある。これに少しふれておく。私の努力や、私の教え方がよいから得られたのではない。そんなことで得させることの出来ないものを、如来より賜わりたる信という。我々は念仏にしても信心にしても、自分が熱心に相手に教えたならば成就できるだろうと思う。また、人が念仏するようになると、私の力でそうなったんだと思う。だからあの人は私の弟子だということになる。私が得させた、私の力によってあの人に信心を得させたということになると、弟子を私有化することもできよう。だがそうではない。「如来より賜わりたる」廻向の信というところには、私の力でということはないのである。どんなに力のある先生でも、わがはからいで得させることの出来ないものである。

 信心の成立は最後は時期純熟である。時が熟するということである。これを宿善開発という。桜の花は春がめぐって来ないと咲かない。時が要るのである。花の蕾は十一月頃には枝の先に沢山ついている。夏の頃から花芽はついている。しかし花が咲くには時が要る。この「時」は人間の力ではできない。この「時」が成り立つことを如来兆載永劫の修行という。如来はじーっと待っているのである。如来の本願は時を待っているのである。しかし、ただ待っているのではない。働きかけてやまない。これを如来兆載永劫の願いを願という。時が満たなければならない。

 我々人間の一番大きな欠点の一つは性急だということである。これは特に青年期の欠点でもある。急ぐということである。急ぐということが命短いという証拠である。急がずに待つということが出来ない。待ち得るのは大きな世界、高い次元の世界の智慧である。

 自分について考えるとよくわかる。自分が本願がわかりかけた、細々ながら知らせて頂けるというのは、聞いてすぐではない。それでは聞いて全然わからないのかというとそうではない。あるところまでわかる。二年たち三年たち十年たつと更にだんだんわかってくる。二十才代の信心は私自身考えてみてもお粗末なものであった。四十代、五十代になるとだんだんわかってきたような気がする。何がわかるかというと、大きな本願の働き、よき師よき友のお勧めがよくわかるような気がする。しかし六十代になればまたまた深くなる。時が要るのである。時に耐えるものを無量寿という。無量寿仏、阿弥陀仏というのは時を待っているのである。時に耐えているのである。それを如来永劫の修行といい、厖大な時間をかけて願われている。そこで、仏法がだんだんとわかりかけてくると、だんだんと気長くなる。人に性急に要求しなくなる「も少し待とう」ということになる。人の進展を待つことができるようになる。なぜかというとそれが本願の働きである。私も待たれておったのだ。我々は曲りくねったボロ釘で、なかなか磁石につかなかった。それを長い間待って頂いたのである。

 それではじっと何もしないで待っているのかというとそうではない。教え、働きかけ、勧め励ましてやまない。そして花が開くのは春が訪れた時である。

 信の成立はそういうものであって、「わがはからいにて」人に信をとらせるものではない。これを如来より賜わりたる信という。時期純熟して花はひらく。時が熟し春が来て花は開く。その時その人においては「よき人の仰せを被りて信ずる」となる。

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