十五、信心

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 現代は信心ということに誤解が多く、混乱している時代である。あの人は信心しているというと、どこかへお参りをしてお供えやお賽銭をあげ、祈り、祈祷をして、こうして下さいと願う、こういうものを信心と思う。

 信仰とは、英語ではFaithという。これはキリスト教の信仰である。これを日本語に訳すと信頼となる。『聖書』に書いてある神の約束、「神の仰せに従って歩む者をば必ず天国に迎える」という約束を信頼する。こういうのを信仰という。これと信心とは違う。勿論祈りや祈願とも違う。

 信心とは、信知、信受、信順という。亀井勝一郎氏の『愛の無常について』という本の中にこの人の考え方がよく出ている。この人はあまり仏教語を使われないですね。殆んど仏教語を使わず自分の言葉で言ってある。この人の言葉では永遠の凝視という。他の書物では明晰の眼という。信とは永遠の凝視の前に立つことをいう。言いかえれば、永遠なるものが私を見つめているその前に立つのである。それを信受という。受けとめるという。

 何を受けとめるのか。永遠の凝視を受けとめるのである。私をじっと見つめて下さる眼を知り、それを受けとめてその前に立つという。だが、も少し足らぬ。永遠の凝視だけでは足らぬ。凝視という言葉を「見られる」だけの意味で言ってあるならば、大変すぐれた表現であるが少し足らぬのである。どこが足らぬのかというと、それは凝視であると共に如来永遠のよびかけである。呼びかけを受けとめてそれを知ることが信である。よびかけとは「南無」と私を呼ぶもの、これを信知するのである。凝視すると共に私を南無とよびかけてやまないものを本当に知る(信知)。これを真の認識という。そしてそれを受けとめてそれに応える、即ち呼応していく。曽我量深先生は感応と言われた。(信受)信心とはわかること。祈ったり頼んだりすることではない。わかること。私が見つめられ、呼びかけられていること、願われていることが本当にわかることである。そしてそれに対して応答していく、それが信受。そのよびかけに従い教に従っていく。それが信順である。この信知、信受、信順が信心の内容である。

 しかし、これだけ言ってもまだ何か足りない。何が足りないかというと、廻心というものが出ていない。信心は必ず廻心である。廻心とはわが心をひるがえされる、私の殼が破れるということ。小さな殻が破られて大きな世界に出るということである。信知、信受、信順だけではそのことがはっきりしない。呼応とか認識というだけでは出てこない。それだけでは信というものにならない。その点から考えると亀井氏のように、仏教語を使わないで自分の言葉で言うことには限界がありますね。どうしても現代の言葉だけでは足りないものがあり、それを何とか補わなければいけない。

 信ということについて聖人は、『教行信証』の信巻(島地12-73)に『華厳経』から引いておられる。「疑網を断除して愛流を出で……信は垢濁なく心清浄なり」とある。垢は三垢である。貪欲、瞋恚、愚痴という我々の煩悩である。「信は垢濁無く」とは、信は根本煩悩を離れている。清浄とは煩悩を離れて寂滅である。真実とはまこと、真如一実という。仏の世界を言っている。

 信は煩悩を離れて清浄真実、即ちわれらの次元を超えた大いなるものの世界の心を信という。それが人間の上に成立することを信心という。この信はどういう働きをするかというと、「疑網を断除して愛流を出づ」である。神様を信じた、お詣りしたというようなそんなものではない。どんなに頑張っても、我々自体では信心というものはできない。ある先生が言われる。お寺に詣った人達をよく見ていると、眠らないように努力している。口に何か入れてみたり、手で自分の膝をつねったりして頑張っているが、遂にコックリコックリやっている。眠りながらつねっている。それでは駄目なんだ。自分の手でつねって自分を起しているのはけなげであるが、眠っているわが身をつねる手も眠っている。眠らぬ方法は隣の人に頼んでおくこと、私が眠りかけたら叩いて下さいと頼んでおく。そこで叩いてもらうと目がさめる。なぜかというと、叩く方は起きているから。起きている人が叩くから眠っている人が起きる。信というものは私が意識して得ようとしても、ちょうど眠りかけている人がわが手でつねるように、しっかりやろうという方も煩悩が入っていて、「垢濁無し」というわけにはいかぬ。しっかりやろう、頑張らなくちゃと言ってやっているその心が煩悩である。その心に何かの目的意識を持っている。幸せになる為にやっている。垢濁なしというわけにはいかないのである。信というのは、起きている人だけが眠っている人を起すことが出来るように、真実清浄なるものが働きかけて、はじめて清浄真実なるものが生まれてくるのである。信は必ず如来より賜わりたるものである。清浄真実の信というものは人間には出来ない。きれいな水に泥が入ればそれは泥水となるように、我々の本性には煩悩が入っていて、もはやそれを除けない。清浄真実でない。求道しようという意志は純粋なように見えるが、相手の出方次第ではもうやめたというようなものを我々は持っている。泥水が入っていて「垢濁無し」というわけにはいかぬ。信は、私の心をこねまわして出来るというのではなく、大きなものが私に働きかけて生まれてくるのである。清浄真実なるものがわれらの「疑網を断除して愛流を出で」しめて浄化するのである。

 我々の心の構造は、一番表面から見るならば慳貪嫉妬である。『涅槃経』に出ている。慳は出し惜しみをする、貧は取りこみである。子供も大人も露骨に出てくる。この底にあるものは愚痴、おろかさである。物をよく考えることができない。またその底に放逸がある。怠惰である。人間はまことに怠惰である。できるだけ考えないで、できるだけ人にやらせて、のんびりしたいと思う。更にその底に顛倒というのはひっくり返っているということ。自己中心の思いにこだわり、主観中心になっている。我々は自分の考えに深く根拠を置いている。仏の教を聞かず、私中心である。私のはからいの中に閉じこもる。一度思い込んだらどうにもならない。これのひどいのが精神病とか神経症とか言われるもので、しっかり主観の中に閉じこもっている。被害妄想である。これを顛倒という。その底を疑いという。これらが私を支えている。顛倒、疑いが疑網であり、慳貪嫉妬、愚痴、放逸が愛流である。「疑網を断除して愛流を出づ」我々の深い深い心の殻を打ち破るのである。その主語は何か。これを本願という。根源からの働きである。根源とはそれによって我々が成り立っているもの。卵は小さい殼の中であるけれども、これを包む世界がある。大きな広い世界によって包まれている。ドングリにはそれがわからない。支えているものを根源という。大きな心が私を支えているのである。それが心清浄である。

 根源、疑、顛倒、放逸、愚痴、慳貪嫉妬を打ち破っていく。そこに成り立つものが廻心である。この廻心が私の上に成立する時、信心が成り立つという。根源からの働きが私の心を貫いて私の殻を破っていく。その働きを本願力という、本願力の成就が信である。これが「如来より賜わりたる信心」いうことの内容である。その殻が破れるということの一番はじめを廻心という。廻心懺悔である。

 信心ということを色々に言いかえてみても言い尽せない。認識と言っても足らぬ。信順と言っても足らぬ。信は本質的に私を支える根源からの働きであって、それが私の殼を破って私の上に出てくるものである。それはちょうどドングリが大地からの水の働きかけや光によって発芽するように、外からの働きかけがなければできないのである。そこに成り立つのが信であって、信はわが心の中に生まれる事実でありながら、わが心をつくねて出てくるものでない。これを「如来より賜わりたる信心」廻向の信というのである。「疑網を断除して愛流を出づ、信は垢濁無く心清浄なり」である。

 広く第六章を考えると人と人とのつながり、連帯という問題が論ぜられている。それを今は師弟という関係でいわれているのである。しかし広く申すならば人間と人間のつながりを言われたものというべきであろう。我々は先輩後輩、親子、兄弟、友というつながりを持って此の世に生きている。その中で自分が特に目をかけた人に対しては「私はあの人の為にかなり尽してあげたのだ、感謝しお礼を言ってくれて当然だ」と思う。そういうつながりもある。近所の人とか親戚とかに嫁を世話したとかいうこともあろう。その人達は当然私に恩義を感じ、感謝してしかるべきなのに、実際は全然無視していることも多い。そこで人情の薄い人だ、物のわからない人だと思う。そのような現実の中で念仏者本当の宗教者はどう歩んでいくのか。どう歩むのが本当なのか。こういうことを第六章には非常によく表わしてある。その言葉が「親鸞は弟子一人も持たず候」といい、「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」という寛容さというか願いというか、それが宗教者の道なのだということが示されていると思う。

 NHKで「人間模様、夫婦」というテレビドラマがあった。それを夜十一時から再放送している。その時間には家に居ることが多いので見るともなしに見ていると、色々考えさせられることが多い。これはある年令に達した夫婦の問題で、息子二人と娘一人それぞれ結婚し、皆出て行ってしまった。淋しくなった母親が長男、次男、娘に願いを持ち、それぞれに同居を働きかけていくが、結局思うように行かぬ。で、母親はいう。「あの子達は皆、私が腹を痛めて産んだ子で、病気した時には看病してやり、苦しい中から一生懸命学校へやって大きくしたのに、結婚したらみな出て行ってしまって親のことなど全然考えない。自分と嫁との生活しか考えない」と言って歎く。親から言えば、苦労して育てたのだから子供は当然それに報いる気構えがなければならんと思うのに、何ぞ計らん親の事を考える子は一人もいないという。大変深刻なドラマでなかなか考えさせられる。家内はそれを見て「その通りだ」と同調するのですね。「うーん、そうかね」と私は言っているが、全くその通りである。これは親子に限らない。先輩後輩でも友人でも皆同じだろう。この母親は私がこれだけやってあげたのだから、子供がそれに感謝するのが当然だ、当然私に感謝し、私達と一緒に生活すべきなのにそうでないと憤慨して、主人に食ってかかって、とうとう家をとび出してゆく。このテレビを見てもっともだと皆同感しているのである。がしかし、この現実の中で生きる道はないのか。人間と人間のつながりでは、必ず年の多い者が若い者を、先に行く者が後を育てるようになっている。ところが、後に続く者が大きくなって独立して一人前になると、もう今まで世話になった親のことなど考えないようになる。そういうことの中で愚痴を言って、「どうしてこうなったんだ、こんな人間とは思わなかった」と涙を流して歎くしかないのか。他に道はないのか。このような今日的な問題に対して第六章は、大変今日的な解答を与えている。第六章だけでなく『歎異抄』全体がそうである。七百年前のことが今日的な意味を持って我々に生きる道を教えてくれる。そういうところに古典の意味があるのだろう。で、その答の一つが「自然の理にあいかなわば仏恩をも知り又師の恩をも知るべきなり」と、こういうところに、寛容さと願いと自らの行く道というものが、非常によく出ている。

 第六章は広く言えば人間が生きていく上で人と人とのつながり、親子といい、師弟といい、先輩後輩といい、友人といい、後といい、先というつながりの中で生きていくのであるが、それをどう生きてゆけばよいかという大事な答えを与えるものであろう。第六章では師弟ということで言ってあるが、そこにとどまらないのだということを繰り返し付け加えておく。

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