六、真の師弟関係

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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(1)御同朋・御同行と仰ぐ

 真の師弟関係は御同朋・御同行と仰ぐのである。弟子に対して師が御同朋・御同行と仰ぐのである。御同朋・御同行には「御」という字がついている。今日、東本願寺では同朋会運動というのがあって、門徒というのでなく同朋という関係において聞法求道するという事である。しかし「御」という字はついていない。御同行・御同朋というのが親鸞聖人の表現である。

 「御」とは何か。それは如来より賜わった兄弟を御同朋といい、如来から与えられた友を御同行という。如来より賜わりたる兄弟、如来から与えられた友と仰がれて私有化されなかった。聖人は弟子に対してそう言われた。弟子というのは自分が育てた人である。その人に対してそう言われたのは、聖人が非常に謙虚な人だからだろうと思うが、そんな簡単なことではない。それは聖人の実感なのである。

 南無阿弥陀仏は本願の身証である。本願の身証とは南無阿弥陀仏の働き、お力を身にしみて感ずるということ。その本願の身証はどこにあるのかというと、私がよき人の教を被って遂に本願を喜び念仏申すようになったその所で、本願が身にしみて有難く思われる。よき人を通して本願を聞きひらき、南無阿弥陀仏と念仏申す身になる。これを往相という。が、深い深い本願の身証は、往相においてわかるのではない。

 深い深い本願が身にしみて喜ばれ、その確かさがわかるのは往相においてではない。私のまわりに、私を通して念仏の道に立つ人があらわれて(普通はこれを弟子という)その人が南無阿弥陀仏と念仏していくのを拝んだ時に、本願のかたじけなさ、本願の確かさを身にしみてわかるようになるのである。

 他の人への働きかけを還相という。曽我量深先生は「本願の身証は往相の背景においてある」と言われた。私はいよいよよき人の仰せを被って聞きぬいていくしかないのであるが、私の背後に生まれた人達が念仏申していく姿、即ち還相において生まれてくる念仏において、本願というものは本当に頂かれるのだと言われた。この時、この弟子は如来より賜わりたる御同朋・御同行と言わざるを得ないのである。謙遜でない、実感であります。

 少年錬成会を東京では内房で、九州では福岡でやっている。福岡ではいつもは海岸でやるのだが、今年は山手の私の所でやる予定で準備している。大体百人前後集まるので、少し水が足りないのではないかと心配している。もう一本井戸を堀らぬといけないかなと思っている。私の方は田舎だから大体30m位掘ると水が出てくる。二本井戸があるので今のところは不自由はないが、百人位来ると今年は雨が少ないので、少し足りぬかも知れぬと考えている最中です。

 うちの寮生がその会の世話をしてくれる。三日間やるのだが、来るのは大体小学校五年が中心で、小学校三年から中学三年位までの範囲である。この子達が来た時は動物園の猿みたいである。キャーキャー言って枕を投げ合う、ふとんを引っ張ったりして、とてもとても手をつけられるようなものではない。それが三日間たつと神妙に坐って、食前の言葉食後の言葉を全部覚えて、合掌して言うようになる。「我今幸いに仏祖の加護と衆生の恩恵とによりてこの尊き食を受く……」これを全部覚える。そして「来年までこれを続けます」という子がたくさん出てくる。また勤行を覚えて、「うちへ帰ってもやります」という子も出てくる。そして仏法の話を熱心に聞くようにもなる。

 それらを見ると、如来ましますということが身にしみてわかる。仏法というものは実に大きな働きをするものであって、この小さな子達に大きな働きを展開している。まことに自分がうかうかと今まで聞いておったのはそらごとであった、もっとしっかりせにゃいかんということが、寮生の身にしみてわかる。仏法の確かさ、仏法の働きというものを本当に身にしみて知るのは、私が進むことによってのみ知るのではない。私の周囲に生まれてくる念仏の華を通してわれらはそれを知るようになっている。

 そこで或る面から申すならば、こういう他への働きかけをしない人は、自分だけが聞いている人であって、その人には、本当は仏法がわからないという一面がある。自分だけ聞いていてはわからないということがある。いや、よくわかっているというかも知れない。しかし深く聞いて念仏していても、も一つ欠けているものがある。それは本願の身証である。身にしみて感ずるということは、わが身のまわりに生まれた人々によるのです。もし自分の子供が本当に仏法を聞いてくれるようになったら、親は単に喜ぶというようなものでは終らない。それを通して如来の働きの真実さというものを身にしみて感ずるようになる。その時には、そこに生まれた人達を自分の弟子だわが子だなどとは言えない。私有化することはできない。如来より賜わった人、道の正しいこと本願の確かであることを私に知らせて下さる兄弟、私を本当に教えてくれる友と拝むようになる。それを御同朋・御同行というのである。尊敬謙虚の言葉ではない。十七願海を拝むところに十八願の信がある。これが本当の師弟というものである。

 これを普通の言葉で言えば、本当の師弟はお互いに敬愛するものを持つ。本当の愛情、いうならば友情、無私無償の愛、何等の代償も必要としない真の友情を持つ。そこに本当の連帯が成り立つ。それはもはや切っても切れないものである。これを御同朋・御同行という。私のでなく、如来より賜わりたる、如来のお恵みによるということがあるのである。弟子の私有化は決してできないのである。

(2)真の理解

 ファンというのは、その人が好きで感情的に陶酔しているものである。真の師弟という関係はファンとは違う。真の理解の成立がある。

 何を理解するのか。師の宿業を知るのである。業とはなかなか難しい言葉であるが、つづめて言えば現実である。避けることのできない現実である。それはその人の失敗であったり、性格的な短所であったり、その他色々あろう。

 我々は親鸞聖人を考える時、この御方に深い宿業を感ずる。親鸞べたほめなのではない。親鸞という人はものすごく業の深い人だったと理解する。九十才で亡くなられるその数年前に、自分の長男を義絶して親子の縁を絶たねばならなかった。そういう宗教家は今まで一人もいないのではないか。それを常識的な心で批判すれば、「何だ、自分の子供もろくに教育できないのか」ということにもなろう。そして「何が宗教家だ、何が教育者だ、せめて自分の長男ぐらいしっかり教育したらどうか」という攻撃的批判もあるかも知れない。

 だがそうではない。親鸞は深い業を持っておられたのだ。その人が背負うしかない現実を抱えておられたのだ。そういうことを理解し念仏することができる。これはファンではない。師も人間として深い業を持っておられる人である。言いかえれば、弥陀の本願によってしか担うことのできない、解決の出来ない真っ暗な闇を持っていたお方であったと理解できる。これが本当の師弟関係である。それはしかたがないんだ、そんな子供がいるというのは親鸞の責任でも何でもない、時代環境や善鸞自身に問題があったと弁解する必要はない。弁解して正当化するのはファンである。それがその人の悲しい業なのだ、背負うしかない業だったのだ。それを背負って行きなさったところに親鸞の念仏生活があったのだということがわかるのが、本当の師弟というものである。

(3)真の独立者の誕生

 最後に、声聞に終らない真の独立者として誕生すること。真の独立者とはひとり立ち出来る人。それは権威にぶら下がらない人、ぶら下がらないでかえって師を背負って立つような存在を真の仏弟子という。その人の恩に報いずばやまず、その人の御恩に報いる為に「身を粉にしても報ずべし、骨を砕きても謝すべし」というような報恩謝徳の人を独立者という。

 現在の仏教徒というのは、お釈迦様のおかげで食べているという人が大部分である。或いは浄土真宗では親鸞聖人のおかげで生活しているという人が殆どかも知れない。ただぶら下がっているというだけの人が多いのではないか。聖人を助けようという人は少ないのではないか。釈尊のなされた事業を助けて、仏教の柱の一本でも私が背負ってその御恩に報いなければならんという人は、そう大勢はいないだろう。釈尊の教にぶら下がってその教の通りにやってはいるが、本当の智慧が生まれない。そういうのを声聞という。声聞ではなくて独立者として誕生する。報恩の行者となる。これが真の仏弟子である。師の仕事を自分が少しでも助けていきたいというものが生まれるのでなければならない。そういうのが生まれないところを「わが弟子ひとの弟子という相論の候う」人といい、また誤った師弟関係というのである。

 その根本は何か。先にも申すようにそれは信心の不純さ、もう一つ徹底しないものがある。心根にもう一つ残っている問題がある。真の師弟関係は次の「親鸞は弟子一人も持たず候」という中にこもっているのである。

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