四、専修念仏(続)

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 専修念仏という言葉の意味は、専ら念仏を修する、即ち南無阿弥陀仏と専ら念仏を申す人、念仏一つに打ち込んでいる人、これが専修念仏の人である。専修とは専修正行である。

 雑行と正行とは、行の内容は同じであるが、行ずる対象が違う。行の内容は、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養という。法然上人が五種正行、五種雑行という名前をつけられている。『選択集』にある。一般に宗教的な行というのはこの五つの行に納まる。問題はこの対象にある。行ずるその対象について正行と雑行とがある。これを始めて指摘したのは善導という人である。善導は中国の唐のはじめの頃の人である。この人は非常に大事なことを言われた。信の確立はどうしてできるかということを問題にして先ず言われたことは、信は第一に就人立信である。人に就いて信を立つのである。信ということがはっきりすることが仏教の目的だと言っていい。信とは何か。信とは信仰というようなことでなく、信知する、即ち真の自覚、本当にわかるということである。禅宗の言葉で言えば悟るということである。自己が本当にわかって、大きな世界を本当に知るということである。そして現実を受けとめる、現実を担って立つことが信受ということである。そして信順していく教を持つ。信知、信受、信順が信である。この信が生まれる事が仏法である。

 信の確立はどうしてできるのか。善導は第一に、人に就いて信を立つと言われた。人とはよき師よき友を言う。就くとは、親近し恭敬し供養することである。よき師よき友に親しみ近づき、深い尊敬と愛情を持ち、その人に打ち込んでいく。そういう相手を持つことが先ず信の確立の第一である。それを就人立信という。こういうことを始めて言われたのが善導大師である。現在の教育も宗教も、よき師よき友が必要だというようなことを、あまり言わなくなった。が、よき師よき友なしに信の確立はあり得ない。

 善導大師はしかし、就人立信に続いて就行立信ということを言われている。就行立信、行に就いて信を立つ。先には人に就くといい、更に行に就くとはどういうことか。就という文字は、未就学児童等と使われる。これは入学年齢に達しているのにまだ学校に行っていない児童をいう。勉強していない子である。反対に就学児童というのは学校に行って勉強をしている子供である。行に就くとは実際に実行するということ。人に就いているだけでなく、人に就いてしかも本当の行を行ずる。そこから信は生まれるのである。これを行に就いて信を立つという。行に就くとは、先ず行を実行することである。

 どのような行を実行するのか。雑行を捨てて正行に就く。雑行も正行も行の内容は、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養である。その対象を吟味してゆく、そこに正雑二行の問題がある。そこが信の確立のかなめである。

 読誦とは読むことである。聞法も読誦の中に入る。勤行することもこれに入る。聞いたことを心に思い浮べ深く思索する。これを観察という。そして頭を下げて合掌し礼拝する。南無阿弥陀仏と称名する。仏の徳に感謝し、花や香をあげて供養する。このような行を実行するのが行の内容である。その対象が阿弥陀仏となるところに、信の生まれる第二の段階がある。こういうことを言われたのが善導大師であり、それを受け継がれたのが法然上人である。

 読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養は皆がやっている行である。大切なのはその対象である。真の対象を持ったものを正行という。弥陀の本願を説いた経典に集中して読誦するのを読誦正行という。

 読誦正行とは、何でもかでも手当り次第に雑多に読誦している、そういう焦点の定まらない読誦でなしに、ピントがはっきりしなければならない。そのような読誦を実行することを読誦正行という。よき人に就いて本当の行を行じなければいけない。それが進展である。これを雑行を棄てて正行に帰すという。弥陀仏を憶念し観察し、弥陀一仏を礼拝し、弥陀の御名を称え讃える。南無阿弥陀仏に専修する。それは求道の果に、よき師よき友に就いてピントが決まって始まるのである。自分の思いで雑多のものをやるのでなく、よき人の仰せを被って正行を行ずる、そこに転回が生まれる。これを就人立信、就行立信という。

 善導大師は更に、この五つの正行のうちで称名というところに中心があって、これを正定業といい、他は助業であるという。南無阿弥陀仏という称名念仏が中心なのである。これを専修念仏という。

 なぜ称名念仏が中心で他は補助の業であるのかというと、念仏が仏の本願であるからであると善導は述べている。この本願正定の行業、真の行が私の上に成就するとき、そこに信の確立がある。これを行に就いて信を立つという。専修とは、五種雑行を棄てて五種正行に帰し、五種正行のうち称名念仏一つに打ち込んだのを専修念仏という。まことに長い聞法の果に生まれる天地である。

 専修に対して五正行を同列に並べて行ずるのを雑修という。五正行が同価値に見えて、読誦も観察もやらねばならぬ、礼拝も大切だ、称名も供養もみんな同じく価値があるというのを雑修という。雑行と雑修は違う。雑行とは雑多な行。雑修というのは、五つの正行が皆同じ価値に見えるのを雑修という。従って、雑行を棄てて正行に、雑修を棄てて専修にという転回をするのが就行立信である。

 就行立信には心の転回がある。自分自身の力がわかるということ、自分の分際がわかるということである。読んで聞いて考えることを究めていく時、我々は自己の実際の力を知る。読んで聞いて考えて念仏しても、信の成立はない。最後にたった一つ、弥陀の本願というものにぶつかる。弥陀の本願が明らかになることが中心である。

 本願とは何か。親鸞聖人は悲願といわれた。我等の現実を悲しんでそこにかけられている願い。その本願はひとことで言うと南無阿弥陀仏である。南無はサンスクリットで「帰れ来たれ」阿弥陀仏は「無限なるもの、大いなるものわれ」である。大いなるものと共にあれ、大いなるものに帰れ、それを本願といい悲願という。聞法と行によってそれがだんだんとわかってくる。そして遂にその大いなるものの呼びかけに応じて南無阿弥陀仏と答えていく。それが称名念仏である。たった一つわれらの行である。これがわかるところに専修ということがある。それを専修念仏という。これをわかって頂きたい。色々やってみたがとうとう最後に、私に対する大いなるものの呼びかけに応じて、南無阿弥陀仏と答えていく道しかない。南無阿弥陀仏は仏の名前でなしに名告りである。南無阿弥陀仏と呼んで下さるそのよびかけに南無阿弥陀仏と答えていく。そういう道を専修念仏というのである。これは大変な、進展した深い世界である。

 ではそのような専修念仏の人達に、どうして「わが弟子ひとの弟子」ということであるのあろうか。この問題は、親鸞を待たねばわからないのである。

 それは、雑行を棄てて正行をとり、雑修を棄てて専修をとったという、深い心の転回はあるのであるが、なお心根に問題がある。心根に信心の不純さが残っている。そこでわが弟手ひとの弟子という問題が出てくるのである。それを専心、雑心といわれる。

 専心とは、私を呼んで下さるのに応じて私が専心に念仏するのであるが、その心根にそれで助かろうという思いがある。自己の功徳とするという私有化がある。念仏を道具化して、自分が助かる手段としているのである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申すことによって助かっていこう、心の統一を得よう、念仏して心の迷いを絶ち切っていこうとする。これを専心という。

 雑心とは、清らかな心で念仏していこうとする。定心で念仏していこうとする。定は落ちついた心、深い心、統一された心。この心で念仏しよう、雑念の入った心でなく精神統一して念仏しなければならないと思う。そういうことに執われる。また念仏だけでなく、念仏が生活の上に現われて私の日常生活が正しくなければならない、即ち生活を正しくして念仏しようというものが入っている。これを雑心という。

 正行であり、専修念仏であっても、その心根に問題があることを指摘されたのが親鸞聖人であった。親鸞という人は非常に深く心根を問題にされたお方であった。この心根を問題にすることを信の純化という。親鸞聖人は信の純化ということを問題にした人である。この信の純化において欠けたのが専修念仏のともがらである。それが「わが弟子ひとの弟子」という言い争いが出てきた原因である。

 心根の問題というのは、就人立信あるいは就行立信では明らかにならない。親鸞においてこの深い心根の問題がとりあげられた。善導大師や法然上人までは、何を行ずるのかという行が問題にされてきた。しかしその心根を本当に徹底して明らかにした人は親鸞聖人である。行を行ずる人間のその心根を問題とされた、これが仏教史上における聖人の大きな役割である。

 人間の心根とはどういうものか。『涅槃経』梵行品によれば、煩悩の根は実は非常に深いのである。それが明らかにならないところに信心の不純さがある。真の自己が明らかにならないのである。

 煩悩を表面から言うと、慳貪嫉妬という。慳は出し惜しみをする、貪は独占する。金あるいは物、あるいは人を自分が独り占めしようとする。また人の善をねたむ心がある。これらが人間の表面に出てくる煩悩である。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏して、念仏一つに打ち込んでいるけれども、この心が解決しない。ケチな心で申している念仏ならば本当の念仏にならない。就行立信にならない。最もすぐれた行は南無阿弥陀仏であり、これを実行するのが就であって、就行が成り立たなければ信とならないが、慳貪嫉妬の心で念仏したのでは南無阿弥陀仏にならない。この心が自覚され、懺悔されねばならない。

 慳貪嫉妬のも一つ奥にあるのを愚痴という。愚かさ、智慧のなさである。更にも一つ底には放逸がある。放逸とは私の思い通りにやりたいという心、私の自由にやりたいというものが、慳貪嫉妬、愚痴のも一つ奥にある。この放逸の奥には更に顛倒がある。これは私の理性、はからいを中心に押し進めていって、自分の考えを通したいという心。更にその一番底にあるものが疑いである。このように煩悩は立体的に深い。表面からの三つを自障という。我々の前進、進展を引っ張って妨げているものである。顛倒に疑いを自蔽という。これが私の根源をおおっているものである。

 疑いとは如来無視である。私の奥底にあって仏とか仏法とかは問題にしない自己中心の心である。この心が、私を支えて下さる一番大事なものを蔽っている。私の理性から言えば、念仏は雑念の心で申してはならぬ、本当の行を行ずる以上は清らかな統一された心で申すべきだと思う。また念仏が生活の上にあらわれなければならぬ、生活を正しつつ念仏申すのでなければ念仏の意味がないと考える。念仏申しても雑念が出るようではつまらん、念仏申す以上は清らかな心でと考えるのを顛倒という。これらは最も深い煩悩であるが、それが徹底的に解決されてない。これを心根の問題というのである。これを専修念仏のともがらという。形は念仏であるが心の中には深い顛倒がある。この顛倒は疑いである。如来を無視し、人間理性を中心に考えている。これは真実信心ではない。真の自覚ではない。これを問題にするのが親鸞聖人の世界である。

 わが弟子ひとの弟子という諍論がある。これはまだ弟子を独占しようとする煩悩が解決してない。これは本当の念仏ではない。本当の南無阿弥陀仏になっていない。南無阿弥陀仏とは本願の呼びかけであって、大いなるものに帰れという如来のまごころである。それに対して私が正しい心でなければならんとか、正しい生活でなければならんとかという所に執われているのは、本当の呼びかけを聞くことになっていない。わかっていない。行に就く、就行立信ということにならない。このことを、心根に問題があると申します。この解決こそ親鸞の『教行信証』、本願の宗教である、行の根底にあるものが問題になったのである。

 自蔽とは私の根源を蔽っているものである。根源とは私の一番下にあって私を支えているもの、それなくしては私が私になれないもの、それを根源という。

 椰子の実がある。固い殻の中に小さな胚芽を持って、海の上を流れている。風が吹けば風に流され、また潮に流されて、海の上を行ったり来たりしている。これを流転といい、空過という。引きずり廻された状態で存在している。この椰子の実が本当に椰子になるために大事なことは、大地を持つことである。大地がなければ椰子の実は椰子になれない。この大地を根源という。海の上を漂っている限りこの椰子がどれ程発芽しようとしても発芽出来ない。大地がなければ発芽出来ない。この大地を悲願という。『教行信証』の行巻に「悲願は猶し大地の如し」と二遍言ってある。大悲の願、如来の悲しみの本願は南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏が大地なのだ。この大地によって一切の如来が生まれてくるのである。「三世十方一切の如来出生するが故に」とある。この大地があってはじめて発芽がなされる。これを根源という。

 今日、人間我々の大きな誤りは、根源など要らない、大地など必要ない、頑張れば自分で発芽できるんだと思っている。ここには根本的な思いあがりがあると言わねばならない。人間は本願なくしては人間になれないんだ、大地なくしては発芽はできないのだ、この認識が一番大事なのである。これが宗教問題である。宗教に関して全く無知であり無関心である。これを疑という。疑はどういう姿をとるかというと、人間理性に中心をおいて科学的な考え方でやっていくならば、そこに本当の行き方があると思う。皆そうだと思っている。これを顛倒という。如来を無視する疑いの心のあらわれが顛倒である。疑いが奥の心である。殻の中に閉じこもっていて根源を知ろうとしない。大地を見出そうとしない。いや大地などというものを無視している。そういうのを自蔽という。この殻をナルシシズムという。自己愛着、自己陶酔である。自己主観の中に閉鎖されている。そういう点から言えば親鸞聖人の教というものは、ナルシシズムの打破、人間の心根を根本的に解決して、椰子の実が発芽し一本の椰子の木になっていく道を説きあかしたのであり、人間育成の道である。これを本願の教という。

 専修念仏というのはナルシシズムの中に閉じこもっていて、しかも南無阿弥陀仏ということに専修している。そこに念仏を道具化するということがおこってくる。従来、お寺に詣っているお年寄りの人達が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称える声がお寺の中に満ち満ちていた。これは昔のことで、今はもう念仏申す人も減ってしまい、お寺に詣る人も激減している。従って現在南無阿弥陀仏と念仏申す人があれば、その人は大変なすぐれた存在なのである。そこまでゆくのにはかなりの長い期間の聞法求道というものがある。けれども残念ながらそれで問題の根本の解決がされたとは言えない。

 ではどうしたらこの殻が破れ、ナルシシズムを打ち砕くことができるか。これはただ一つ。この殻を我々がこわすのではない、不思議にも因縁に恵まれて大地を与えられることによって解決されるのである。しかし始めは大地を大地と知らない。我々はそういう大地については無関心である。いや無関心というより反抗し無視してきたのである。が、先ずよき師よき友に教えられて(就人立信)仏法の縁に立つ。殼はあってもかまわない。殻を通して彼の根源からしみこんでくるものがある。そして殼の中で胚芽が伸びてくる。そしてとうとう殻を破って発芽する。これを信という。我々が破るのではないが、しかし破れるのである。誰かが来て破ってくれるのではない。大いなるものの呼びかけが中にしみ込んできて、私の自己形成を遂げさせて破るのである。それを南無阿弥陀仏の成就という。南無阿弥陀仏の行が成就してくる。そこに就行立信がある。

 たとえて言えば卵である。卵は殻の中に黄味と白味と胚がある。この殻が自障と自蔽である。ナルシシズムである。しかしこれはこのままでかまわない。よき師よき友を通して本願の教を聞いていくと、殻のままに私に働きかけて私に伝わってくるものがある。それは殻をものともせずに私に伝わってきて、殻の中で目玉ができる。物を見る眼、仏書を読む眼ができ、念仏申す口ができ、仏法を聞きに行く足が生え、毛並が揃ってきてひよことなる。そして遂に殻を破って誕生するのである。殼はあってかまわない。本願はそのままで届いてくる。そして遂に殻を破るのである。

 殻が破れると殼がわかる。自己の慳貪嫉妬がわかる。愚痴の自己がわかる。放逸の私がわかるようになる。それを自覚という。照らされて、照らされて、照らし切られて生きる道が生まれてくる。これを「煩悩を断ぜずして涅槃を得」という。私が自分の力で私の煩悩を打ち破るというのでなしに、私の殼を照らし出されることによって破られて、深い自覚、深い懺悔、お粗末な自分と懺悔する道が与えられる。これを信という。

 卵がヒヨコになる。そのような自己形成を、凡夫が菩薩道に立つという。殻はあるままでしかも殼を出て本当の自己形成が生まれる。覚者となっていく道に立つのである。煩悩を断ぜずして涅槃を得る、こういう大乗仏教が展開するのである。本願が根源である。

専修念仏のともがらは、本当は深い存在であり高い存在である。けれども心根に問題が残っていて、煩悩の根本即ち顛倒、疑惑が解決しないままで残っている。従って形だけの専修念仏になって、心根は専心または雑心の自力である。信の純化というところに問題がある。それが「わが弟子ひとの弟子」という言い争いをまき起してくるのである。

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