十八、寛容さ

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

目次に戻る

 「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」。

 寛容さの中に深い願い、時機純熟の願い、どうか本当の身になってくれよとの願いがこもっている。が、ただそれだけではない。第四章、第五章をみると第四章では「浄土の慈悲というは、念仏していそぎ仏に成りて大慈大悲心をもて思うが如く衆生を利益する」といい、第五章では「何れも何れもこの順次生に仏に成りて助け候うべき」と言っている。

 「いそぎ仏になりて……思うが如く利益する」「何れも何れも……助け候うべきなり」。それに対して第六章は「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」という。先にも申すように第六章は、私と他の人とのつながりをとりあげている。ここでは親鸞聖人とその弟子信楽房とのことが背景となっている。信楽房が師の教を聞かず破門された。その時他の弟子達が言う。「あなたが信楽房に書いてあげられた名号や書物を野や山に捨ててしまうでしょうから、取り返えされたらどうでしょうか」と。すると聖人は「親鸞は弟子一人も持たず候」と申された。「たとえ山や川に捨てたとしても、そこに住む動物が助かっていくであろう」と言われたことが『口伝抄』に出ている。要するに弟子が不始末をして、師に教えられた恩も何もかえりみず捨てて出ていく。その弟子に対する聖人の思いは、あれは何の恩も感じないで後足で砂をかけるようにして出て行ったが、自然の理にあいかなわば仏恩をも知り、また師の恩をも知るであろうと、そこには深い願いがあり寛容さがある。どうか時機純熟の時が早く来てくれるように、早くそのような身になってくれるようにという、深い願いがあり祈りがあるといわねばならない。

 ここでは師弟の話になっている。が、広く言えば人間的つながりにおいても同様である。親と子、子供は親のことも考えないで自分中心に考えて去ってしまった。その現実に対して、どうしてそんなことをするのかととがめるのでなしに、どうか自然の理にかのうて仏法をわかってくれる時が来るようにという願いを持つのである。先輩後輩、自分が色々と目をかけた人、尽してやった人が私を捨てて、平気で出て行ってしまうことに対して、「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」という深い願いが出ている。それと第四章、第五章の「いそぎ仏になりて……思うが如く衆生を利益する」「何れも何れも……助け候うべきなり」というのは同じ答えですね。それから見ると、寛容さ、願い、時機純熟するを待つというものは、二つのものをはらんでいると言える。

 一つは、逃げて行った弟子をただ寛大に許しただ願っているというよりも、この人を背負うてその現実を背にして本願の道を進む、如来の本願を頂くという姿勢ということができる。これは四、五、六章を通じて言えることである。本当の寛大というものは何から生まれるのか。時機純熟するまではどうすることもできない。時機純熟したら仏恩をも知り師の恩をも知るような人になるであろう。それを願っている願いである。その寛大さは、彼が現実を自分の荷として背負っているのであって、ただ仕方がない、時機純熟まで待とうと言っているのではない。それを背負うて聞き進んでいるのだということである。

 第二は、その寛大さを還相というのである。還相とは他への働きかけである。人の為に尽すということである。還相という内容が今は、「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」という深い願い、寛容さとなっている。それが還相である。彼自身が教に向かって進んでいくのが往相であり、その往相がそのまま還相である。

 いつも言う(たとえ)だが、電車があって、スイッチが入ってヘッドライトがついて進んでいくと、自分の行く手がわかるようになる。それと同時に後の電灯もつくのである。これを還相という。しかし彼は前を向いて進んで行くから、後の電灯がついていることはわからない。だから還相という意識は自分の中にはない。その還相が後の電車を照らす。後の電車は前の電車の後の電灯によって育てられるのである。その後のランプが他への働きかけである。具体的に第六章では願いと寛容さになって出ている。寛容とは時機純熟するを待つ、自然の理にあいかなうということを願ってやまない、そういう寛容さとなって出てくるのである。彼は前のヘッドライトがついた為に、前を行く電車を発見するのである。それがよき師よき友である。よき師よき友のライトに照らされて自分の行く手がいよいよわかるのである。彼の上に働く還相の働きこそ、前行く人の寛容さであり願いである。彼はそういうものを発見する。私の前を行くよき師よき友は、私自身は自己中心の殻にたてこもり、体験の私有化の中に閉じこもって、恩とも何とも思わないのにその私を許し、背負って進んでくれたのである。そこに私は、その寛容さと願いの中から今日あるを得たのであって、その事に対する深い感銘、感動を持つのである。

 自分の先生を考える時、誰が先生の寛容さに対してお礼を申さずにいられよう。私自身の過ちはとがめずに、時機純熟を待って下さればこそ、私が生まれることが出来たのである。そのような働きの連続が、私の上にかけられているよき師の還相の働きである。

 第六章の終りの「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」この言葉が第四章、第五章の「いそぎ仏になりて」という心であり、「何れも何れも助け候うべきなり」と同じ心である。これで第六章を終ります。

ページ頭へ | あとがき」に進む | 目次に戻る